第四章
3
「そろそろ、合宿に参加されてはいかがでしょうか」
いつものようにビデオを見せられて、感想を述べるためにテーブルについたそのときだった。
合宿の話が降って沸いた。
なゆみの担当、すなわちこの世界に導いた柳瀬がジョンとタッグを組んでなゆみを信者にしようと試みていたが、なゆみが意外にもしぶとくて他の信者のようにならないのを見かね、その事務所の責任者がとうとう出てきた。
なゆみの前に座ってにっこりと微笑んでいる。
池上カスミ、推定26,7歳。物腰柔らかく、上品な身のこなし、そして気品溢れる服装と絶対に絶やさない聖母のような深い愛情こもった笑顔が特徴。
美しいイメージがつく形容詞の全てが当てはまるくらい、稀に見る完璧に整った真の美女だった。
なゆみも肌の色は白いとよく言われるが、池上カスミはそれ以上に透き通る雪のような白さを持ち、男はもちろんだが、女性のなゆみも思わず見とれてしまうほどの美しい人だった。
でも悪く言えば、雪女に見えないこともない。
どこかで気の置けない恐ろしさを感じていた。
その惑わせる姿で、優しくそして笑みをたっぷり浮かべてなゆみに合宿の話を持ちかけた。
つい魅力に魅せられて、なゆみは一瞬「はい」と条件反射で言ってしまいそうになるが、泊まり込んでまで何をするのかと思うと疑念が湧いた。
「合宿ですか?」
「はい、なゆみさんもそろそろ、参加される時期に来たと思います。ちょうど来週の土日に行われます。是非参加を」
「いえ、あの、土曜日は仕事がありますし、休めません」
「でも、みなさん、合宿参加を優先されますよ。一日くらいお休みを取られてもいいんじゃないですか」
「取りたくないです」
「それじゃ土曜日はお仕事何時に終わられるんですか?」
「5時には終わりますが」
「じゃあ、6時から途中参加されるといいです。ここから電車で30分のところですし、仕事が終わっても合宿までの移動は問題ないかと。特別にということで手配させていただきます」
「えっ、でも、こ、困ります」
「なゆみさん、よくお考えになって下さいね。ここに参加されたと言うことは神さまが常に特別にご覧になってるんですよ。それを否定することはどういうことかお分かりですね。地獄に落ちるんですよ」
「えっ、そんな」
「それに、なゆみさんは9月から留学のご予定とか。それもね、私は賛成できません。できたら一緒にここで勉強すればいいんです。ここには宣教師も居ますし、いつでも英語だって話せます」
これにはなゆみは強く反発した。
ぎゅっと体に力が入り、息が突然荒々しくなるほど気持ちが乱れてしまう。
「嫌です。留学は私の夢です。それを奪われるなんて絶対嫌です!」
なゆみには珍しく、突然激しく否定する。
池上カスミの眉が少しピクリと動いた。
しかしすぐに気を取り直して、美しい容姿に似合った完璧な笑顔をなゆみに向けた。
「なゆみさん、どうぞ落ち着いて下さい。何も恐れることはないんですよ。ここで学べば必ずいい風に事が運びます。今までビデオをご覧になって色々と学ばれたでしょ。それになゆみさんはいつも素晴らしい感想を述べられて、私も関心してるんですよ」
なゆみは恐ろしくなってきた、もう言葉が出ない、逃げたい。
──そうだもう来なければいいんだ。
「あの、今日はもう遅いのでまた今度ということで」
なゆみは逃げの体制に入った。
しかし、池上はそれもお見通しなのか、なゆみが断れないようにもっていく。
「あら、そうですか。じゃあ明日必ずまた来てくださいね。ジョンも待ってますから」
「ジョン……」
なゆみは首をゆっくり動かした。
隣にはジョンがにこっとして座っている。
英語で多少の会話ができるからと、ついべらべらとなゆみは自分の情報を喋ってしまった。
どこで働いてるか、店舗が入っているビルも知ってるし、店の名前も英語だから忘れてはいないだろう。
逃げたところできっとジョンが柳瀬と一緒に店まで迎えに来るかもしれない。
なゆみは困り果てた。
池上カスミはなゆみが断りきれないと確信しているのか、余裕の態度でエレガントに席を立った。
「それじゃまた明日ね」
どんなに美人で優しい笑顔といえど、それはどこか寒気を感じ恐怖心を植えつけられるような微笑だった。
そしてジョンが話しかけてくる。
「(なゆみ、僕と同じように神を信じれば全てが上手くいくよ)」
ジョンはアメリカで、元不良のリーダーだったらしい。
髪はライオンの鬣のように長くして、子分を一杯連れて粋がってモーターサイクルを転がしていたと、昔の話をしてくれたことがあった。
そのときはそんなの信じられなかったが、当時の不良の写真を見せられるとその事実に驚いてしまった。
自分を戒めるためにジョンはその写真を持ち歩き、真に迫まりながら人々にそれを見せている。
この宗教と出会って、罪を悔い改めて自分は生まれ変わったんだと、それからは真面目に働き誠実な人間になったと、いかに信じることは素晴らしいことか身をもって証明している。
それがあるだけにジョンは自信をもってこの宗教を人に薦められるのである。
信じきっているアメリカ人にそれを英語で語られると、なゆみはどうしても強く自分の意見が言えなくなる。
ジョンもまた安らぎを与えるような笑顔をなゆみに向ける。
なゆみはたじたじとしながらも、やはり笑顔で受け応える。
ジョンにはそれが二人の信頼だとして信じて止まない。
だからなゆみは益々邪険にすることができず、どんどん引っ張られていってしまうのだった。
この日も駅までジョンに見送られ、四六時中付きまとわれた。
「(なゆみ、明日も待ってるから。なゆみは日本で出会ったどの女の子よりも本当に素晴らしくて素敵だ。だから一緒に活動しよう)」
というようなことをジョンは言ってるんだとなゆみは解釈した。
『嫌だ!』その一言が言えたらどんなにスカッとするだろう。
しかしジョンのなゆみを信じきっている態度を見せられると、失礼な態度はとれないし、どうしても言えない。
曖昧に返事をして、その日はやっと別れた。
次の日、あそこに戻れば、きっと断りきれないでなゆみは合宿に申し込んでしまいそうだった。
行かなければ、自宅にも電話がかかってくるだろうし、店にも来るかもしれない。
どうしてこんなことになってしまったのだろうと、逃げ場所を失い、誰にも相談できずになゆみは困り果ててしまった。
ずっとそのことを考えて、不安な気持ちでいると、中々眠ることもできなかった。
疲労感もたっぷり味わい、一晩でげっそりしてしまう。
追い詰められると藁をもつかむように助けが欲しくなった。
以前氷室からこの宗教の事を聞いていた事を思い出し、氷室なら何か役立つ事を知っているかもしれない。
氷室に会うのは抵抗があったが、背に腹は代えられず、氷室を頼る事にした。
その次の日、なゆみは早くから本店のシャッターの前で氷室を待っていた。
誰よりも早く氷室が来るのは知っていたし、きっと二人っきりで話せる時間が少しでもあると思っていた。
切羽詰まった必死さと相当の覚悟を決めて、なゆみは今にも溺れそうになりながら、不安定に立っていた。
どうすればいいのか相談に乗ってもらおう。
事情がわかる氷室しか頼る人がいなかった。
氷室になら怒られようが罵られようが全てを話すことができる。
ところが、氷室が現れたとき、傍には新しく入ったアルバイトの女の子が肩を並べて一緒に歩いてきた。
そうだった──。
自分より後に入ったアルバイトのことを忘れていた。
何も世話をするのが、なゆみだけとは限らない。
以前と全く同じじゃないことに、なゆみは気が付いた。
「よお、斉藤じゃないか。どうした朝早く本店に来て」
「お、おはようございます。あの、その」
「なんだ、目が赤いけど、またなんかあったのか」
「いえ、その、今流行ってる映画のチケットがこっちにあったかなと思って、出勤前に確かめようと思ってきました」
氷室は訝しげな表情をしながらシャッターを開けた。
身を屈めて先に店の中に入り、明かりをつけた。
アルバイトの女性がなゆみをちらりと見て、氷室の後に続く。
化粧は濃いが、モデルのような風貌の美人タイプだった。
氷室と肩を並べて歩いてた姿は、釣り合っていてとてもゴージャスなカップルに見えた。
どこか気が引けたが、咄嗟に嘘をついたためになゆみも中に入って、とにかくチケットを見渡すふりをした。
「あっ、やっぱりこっちもなかったです。どうもすみませんでした。それじゃ失礼します」
「おい、斉藤!」
氷室が呼び止めようとするが、なゆみは聞こえなかったふりをして、するりとシャッターをくぐって走って去っていった。
「なんだあいつ。なんか変だな」
「あの方、隣のビルの支店で働いてる人ですか? すっぴんでしたね」
アルバイトの奈津子が馬鹿にしたように言った。
「いいんじゃないか。化粧を取って誰だかわからない素顔になるより、すっぴんでも、充分見られる顔の方が。あいつ化粧したら絶対今以上にきれいになるよ。
君は化粧をとった顔、人に見せられるのかい?」
奈津子は言葉に詰まって言い返せなかった。
氷室に相談しようとずっと考えて、そしてやっと勇気を持って会いにいったのに、思うように話せなかった。
隣にいた新しいアルバイトの奈津子と一緒に出勤してきたところを見てしまうと、弱り目に祟り目となって一層衰弱する。
時間がどんどん過ぎていくと、迫る恐怖に気が滅入っていく一方だった。
「サイトちゃん、一体どうしたの。体の調子でも悪いの?」
千恵が心配する。
「えっ、ううん、大丈夫。ちょっと寝られなかっただけ」
「そう、それならいいんだけど。なんか困ったことがあったら遠慮なく言ってよ」
「なんだ、斉藤、寝てないのか。もしかして乱交パーティでも参加してたのか?」
また川野のセクハラが始まった。
なゆみはもう否定する気力も残ってなかった。
「はい……」
「えっ、サイトちゃん! どうしたの? やっぱり今日はおかしいよ」
「うほっ!」
千恵はびっくりしてたが、川野は鼻から息をだして喜んでいた。
そんなことどうでもいいと、なゆみは店の壁にかけてあった時計を虚ろな目で見ていた。
一時間、一時間と閉店時間の7時が刻々と迫ってくる。
追い詰められると妄想に襲われるように、このときジョンがここまで迎えに来るんじゃないかと、びくびくしてしまう。
突然鳴り響いた電話の音ですら、ビクッと体が跳ねた。
千恵が受話器を取り話している。
受話器の下の部分を押さえてなゆみを呼んだ。
「サイトちゃん、氷室さんから電話」
「えっ」
なゆみは恐る恐る受話器を耳に当てた。
「お、お疲れ様です。斉藤です」
「お前、今朝何か俺に言おうとしてただろう。一体何があったんだ」
「いえ、その何でもありません」
「電話で言えないのなら、仕事終わったらそこで待ってろ。俺がそっち行くから。わかったな」
電話は要件が済むとすぐに切れた。
ぶっきらぼうな対応だったが、涙腺が緩むほどなゆみには優しく聞こえた。
一気に体から力が抜けて、傍にあった椅子にへたり込んでしまった。
その後からじわじわと体が温まって、安らぎに変わっていった。