Temporary Love

第五章


「ただ今戻りました」
 休憩を済ませたなゆみが戻ってきた。
 その後、すぐに千恵が休憩に出かけていなくなると、店に気まずい空気が流れ出した。
 氷室もなゆみもお互いを見ないようにぎこちなく、狭い空間で接点をなくそうとするのには無理があった。
 どちらもロボットのように、不自然にカタカタしていた。
 氷室を意識するなゆみ。
 なゆみを意識する氷室。
 沈黙が続けば続くほど、真空パックされていくように息苦しくなって行った。
 なゆみが外に面したショーケースの前に立つも、客足が遠のき、誰もやってこない。
 部屋の奥の隅のデスクで氷室は肘をついて、なゆみの後姿を見ていた。
 一向に振り返らないのをいいことに、声を出さずに「好きだ!」と口パクして叫んでみたが、虚しいだけだった。
 折角久々に二人きりになれても、何もできない自分に失望し背中を丸めていた。
 そんな時「キュルキュルキュルー」っと腹の虫が大きく鳴った。
 それは氷室ではなく、なゆみの方から聞こえた。
「おいっ、今のお前か」
 氷室がなゆみを問い質すと、なゆみの肩がびくっと動いた
「なんで昼飯食ったお前が、食う前の俺よりも腹空かしてるんだ?」
 なゆみはおもむろに振り向いて、笑って誤魔化した。
「えっ、いえ、その、へへへへ」
「何がへへへへだ。お前あの外国人と何してたんだ?」
「ええっと、その、実は、ショーンに引っ張られて床屋に連れて行かれたんです」
「床屋? 何しに?」
「日本語が話せないから、私に通訳になってくれって、それで髪を切る間ずっと彼の側にいました」
「それで飯食う暇がなかったって訳か」
「はい」
「お前、どこまでお人よしなんだよ。折角の休憩だろうが。しかも昼飯食べないと腹が空くことくらいわかってるだろ」
「でも、ショーン、いつも自分の思い通りの髪型にならないから困ってたし、それに私も英語の勉強になるし、一食くらい抜いても平気です」
 氷室はまた呆れてしまった。
 そんな時にタイミングよくなゆみのの腹の虫が騒ぎだし、なゆみは恥ずかしげに顔を逸らして、なかったことのように振る舞った。
「どうすんだよ、夜までまだ長いぞ」
「大丈夫です。仕事に集中したらこれくらい忘れます」
「お前は無理をしてまで、なんとかしようとするからな。そして無茶をしては勝手に思い込んで暴走する」
「無理なんてしてません。氷室さんには関係のないことです」
 今までがそうだっただけに、今更言われるのが辛い。
「なんだよ、急に怒って。もしかしてまだ根にもってるとか」
「なんのことですか」
「昨日、伊勢君を怒らせてしまったからね」
「えっ、あ、ジンジャ…… そ、そんなこと関係ありません。それよりも氷室さんはご自身のことをご心配なさったらどうですか。昨日のあれはお見合いだったんでしょ。今はその返事でやきもきでしょうし……」
 言いたくない事を言ってしまった事がまた辛い。
「誰が心配だあんなもん。あれは無理やり父親にあそこに座らされたんだ。父に借りがあったから断れなかっただけだ」
「借り? もしかしてそれって、あの時宗教から私を助けるために、電話で名前を借りるとか言ってたことですか?」
「うーん、まあ、そういうことになるかな」
「ご、ごめんなさい。私のせいで」
「いや、別にお前を責めてる訳ではない。いつかはこうなるとはわかっていた。ずっと前から見合いしろって言われてたから」
「でも、これがきっかけでいい具合に働くといいですよね。そしたら私も少しは気が楽に…… (なるの?、えっ?)」
 なゆみはその後黙り込んだ。
 氷室のお見合いが上手く行くと思うとなんだか胸がざわめく。
「馬鹿やろう。勝手にくっつけるな。だけどお前達はくっついたみたいだな。結局はお前の騒ぎはなんだったんだ?」
「えっ、あれは、やっぱり私の勘違いでした。勝手に思い込んで一人で騒いでました」
「ふーん。雨降って地固まるでいいんじゃないか。でもお前はアメリカに留学だろ。その間どうすんだよ」
「ジンジャは待ってるって言ってくれました」
「よかったじゃないか。テンポラリーラブじゃなくて」
「えっ?」
「だけど1年は長いな。その間に伊勢君が浮気したらどうすんだ。帰って来たら新しい女がいたりして」
 氷室の目が細まり、ほくそ笑んでいる。
 なゆみは困ったように下を向いてじっと黙り続けていた。
 氷室は自分の厭らしさにはっとして我に返った。
「ごめん、ちょっと意地悪になってしまった。俺の癖だ、許せ。伊勢君はお前のこと絶対待ってるよ。心配するな」
「違うんです。私がもし他の人を好きになってしまったらって思ったら何も言えなくて」
「はっ? どうした斉藤。一途なお前がそんなこというなんて。まさか他に気になる奴がいるとか」
「えっ?」
 なゆみはドキッとして、思わず氷室の顔をじっと見てしまう。
「それがさっきのショーンとか言うんじゃないだろうな。倉石さんからも聞いたぞ。お前、結構もてるんだってな」
「いえ、滅相もない、そんなことありません」
「でもまだ二十歳だし、真剣な恋なんて考えられないのかもな」
「そんな。年なんて関係ないと思います。愛するって言う気持ちは年取らないとわからないんですか?」
 なゆみはなんだかムキになってしまった。
「いや、そんなことはないけど、年取ってから愛だの恋だのってかなり慎重になりすぎて、寧ろ難しいもんだ。年取ってから恋に落ちるって冒険なんだぞ。だから若いうちは一杯経験積んでおいた方がいいっていう例えだ」
「それって氷室さんの経験談ですか?」
「えっ、なんで俺の経験談なんだよ。おいっ、お客さんだぞ」
 氷室もまたドキッとしていた。
 客が来たことで話が中断して助かってほっとしていた。
 確かに32歳にもなって20歳の女の子に夢中になるほどの恋をするのは、氷室には冒険以上の戦いだった。
 自分で言っておきながら、その通りだと動揺していた。
 なゆみはアメリカに一年留学し、その長い間も待てると言うほどの彼氏もできた。
 氷室はなゆみに隠れてため息を吐く。
 本当にどうしようもない恋だと自分で自覚している。
 一人店内の隅で、背中に暗い影を背負ってセンチメンタルになっていた。
「氷室さん! 氷室さんてば」
 なゆみが呼んでいる。
 自分の世界に入り込んでいた氷室は、我に返ってあたふたしだした。
「な、なんだ!」
「手伝って下さい」
 振り返れば急にお客が増えていた。
 氷室は急いでショーウィンドウの前に立ち、なゆみの隣に立って接客をしだした。
 客が続く限り氷室はなゆみの側にいられた。
 忙しいのも悪くなかった。
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