Temporary Love

第五章


 ヒヤッと背筋が凍りつき、なゆみは恐ろしさのあまり声が咄嗟に出ない。
 毛穴が開き切ったようにぞっとして、戦慄していた。
 男がナイフを持った手を伸ばしてじりじりと迫ってくると、なゆみも後ずさる。
 給湯室のような狭い場所ではすぐに追い詰められ、逃げ場がなくなった。
 背中が壁にへばりついたなゆみは、極度の緊張感で足ががくがくと震えだした。
「大人しくしろ」
 マスクの下から篭った声と共に、性的に興奮した荒い息遣いが聞こえる。
 そこにナイフを振るように見せつけ、男はなゆみを怖がらせることを楽しんでいた。
 その男は小柄だが、ナイフという武器を印象づけると、いかにも自分の力を誇示していた。
 なゆみは現実に起こっている事とは思えず、気が動転してきた。
 暫し、チカンと対峙し、一触即発の危機に絶体絶命だった。

「遅い。あいつ5分で帰るとかいいながらもう10分経ってるけど、大丈夫だろうか。もしかしたらほんとにこけて倒れてるんじゃないだろうな」
 氷室は胸騒ぎを覚え、様子を見に行った。
 階段を降りている途中で、喧嘩でもしているような大きな声が、突然耳に入って来た。
「ちょっと何するのよ。あんたなんか、あんたなんか。このぉー!」
 なゆみの叫ぶ声だった。
 それを聞くや否や、氷室は一気に階段を下りた。
「斉藤!」
 最後は飛ぶようにジャンプして、給湯室に向かえば、そこから出てきた男とぶつかった。
「なんだお前、ここで何している」
 男は氷室の小脇をすり抜けて逃げていく。
 氷室は追いかけようとしたが、なゆみの事の方が心配で給湯室に駆け込んだ。
「おい、斉藤、大丈夫か!」
 なゆみは、床でへたり込んでいた。
 その顔は真っ青だった。
「一体何があったんだ」
 氷室はなゆみを抱え上げ、自分に引き寄せた。
 力が抜けていたなゆみは、ふらつき、氷室の胸に倒れ掛かった。
 氷室を見て安心した途端、なゆみの目から涙が溢れてしまう。
「何かされたのか」
 なゆみは首を横に振った。
「でもびっくりした。すみません。もう大丈夫ですから」
 氷室から離れ、なゆみは一人で立とうとした。
「おい、無理するな」
 その時、なゆみの左の手、ちょうど親指の付け根辺りが切れて、血が出てるのを氷室は見つけ、目を見張った。
「その怪我、まさか、さっきの男に襲われたのか」
「襲われかけたけど、何もされてません」
「でも血がでてるじゃないか」
「ああ、これ、はずみで切っちゃったんでしょうね。大したことないです」
「とにかく、店に戻ろう。歩けるか?」
「はい」
 気丈にも洗い物を忘れずに、洗い桶をしっかりと手にしていた。
 氷室はなゆみの肩を抱いてやり、ゆっくりと階段を上っていく。
 店に戻り、なゆみを椅子に座らせて、常備していた救急箱を取り出すと、絆創膏を怪我したところに貼ってやった。
「警察に連絡した方がいいな。これは歴とした傷害罪だ」
「もういいです。無事でしたし、犯人も逃げてしまいましたし、警察が来てもすでに手遅れです。それに、警察が来たら、帰れなくなりそうですし」
「しかしだな、これは犯罪だぞ」
 それでもなゆみは、警察に係わるのを嫌がった。
 仕方がないので氷室はビルの管理責任者に電話を掛けて、変質者が出たことを報告しておいた。
 そんなことくらいしかできない事を氷室は悔やんでいた。
「すまないな、俺、犯人とすれ違ったのに捕まえることできなかった」
「ううん、大丈夫です。私思いっきり蹴り入れましたから」
「えっ?」
「私、許せなかったんです。こんなところで変質者に襲われて怪我して留学できなくなったらどうしようって思ったら、急に怒りが爆発して、戦いました。私が ものすごい形相で男の両手首を掴んだので、男は少し怯んで、その時ついでに腹部を足蹴りしちゃいました。ついでに噛んでやろうかと思ったんですけど、ちょ うどその時氷室さんの声が聞こえたから、あの男慌てて逃げていきました」
 なゆみは淡々と語っていた。
「お前…… なんと無茶な」
「なんとなくあの人、川野さんに見えちゃって、そしたら、今までの鬱憤を晴らしたくなって、遠慮なく蹴れました」
 こんなときにまで冗談を言おうとするなゆみの健気なさが、氷室の感情を爆発させた。
 氷室はなゆみをなりふり構わず思いっきり抱きしめた。
「バカヤロー! だから無理をするなって言ってるだろ。お前はどうしてそんなに無茶をするんだ。もし、取り返しのつかないことになってたらどうするんだ。 かすり傷ですんだからよかったけど、お前にもし何かあったら、何かあったら……」
 思わず本音が漏れていた。
 それに当てられてなゆみもたがが外れて、泣き出してしまった。
「氷室さん、氷室さーん、あーん、ほんとは怖かったよ」
 
 なゆみは氷室に抱きしめられながらおんおんと素直に泣いた。
 ずっと突っ張っていた頑張りが、このときふにゃっと折れ曲がって、誰かにすがり付いて甘えたくてどうしようもなかった。
 氷室の胸はとても厚くがっしりと大きくて、その胸で思いっきり泣けるのがとても心地よかった。
 氷室も力強くそれを受け止めるように両腕にしっかりとなゆみを抱きかかえている。
 なゆみは安心感を体全体で感じていた。
 その時なゆみのお腹の虫が「キュルルルル」と鳴ってしまった。
「あっ、お腹空いた」
 泣き声交じりに小さく笑いも添えられて呟く。
 氷室もふっと息が漏れた笑いをしていた。
「どんなときもやっぱりお前らしい。ほら、早く服着替えて来い。飯食いに行こう」
「はい」
 なゆみは素直に言うことを聞いた。
 控え室に入り、ロッカーを開ける。
 扉の部分に付いた鏡を見ながら、涙を拭った。
 すっきりした自分が映っていた。
「何か食べたいものあるか」
 控え室の向こう側で氷室の声が聞こえる。
「トンカツ」
「またあそこに行きたいのか」
「はい」
 氷室がデザインしたものをもう一度見てみたかった。
 氷室と一緒に。
 そこが自分にも特別な場所に思えてならなかった。
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