Temporary Love

第五章


 トンカツの店に入れば、店のオーナーが嬉しそうに声を掛けてきた。
「おっ、いつしかの少年のようなお姉さん。またいらっしゃい」
「おい、まだ言うか」
 氷室がキッと睨みを利かした目つきを返した。
「いやいや、これはかたじけなかったでござる。しかし、女にしておくのはもったいないくらい、美少年になれる顔立ちだ」
「あの、それって褒め言葉なんでしょうか?」
 なゆみはオーナーの例えがよくわからない。
「この人はちょっと変わってるんだ。感性が人と違うというのか拘りが強いというのか、この店のデザインを決めるときも大変だったんだ。何度も口を挟まれてやり直しだった」
「だから、氷室さんにしか頼めなかったんですよ。氷室さんは妥協することなく私の意見を取り入れて、何度もやり直しをしてくれた。感謝してますよ。 お陰でこの店も繁盛ですから」
「確かに俺もやり甲斐があった。だけど上司が上から圧力かけて、あの時は大変だったんだぞ。予算のこともあったから、いくらなんでも注文が細かすぎるって。会社がもう少しで断るところだったんだぞ。それを俺が必死に抵抗してギリギリの予算で進めたんだから」
「ほんとに氷室さんはいい仕事をしてくれた。大儀であった」
「あんた一体どこのお殿様だ」
 オーナーはアハハハと笑って厨房に入っていった。
 なゆみは氷室の服を引っ張って囁いた。
「あの人きっと他の星からきた王様なんですよ」
「そうかもな」
 二人はテーブルに向かい合わせになって座った。
 ウエイトレスが運んできたお茶を手にして、ほっと一息ついていた。
「少しは落ち着いたか」
 氷室が尋ねる。
「はい。もう大丈夫です。ここに来たらすごく元気がでました」
「無理するなよ」
 言葉少なかったが、氷室の声がいつもより優しくて、なゆみは心開いて安心しきっていた。
 あんなに苦手だったのに、氷室を知れば知るほど氷室の優しさに触れていく。
 一人っ子で鍵っ子でもあったなゆみは、共働きの両親に放ったらかしにされて育ってきた。
 それは別に嫌ではなかったが、何でも一人で考えて自由気ままな毎日を送っては、人に頼るということなど考えたこともなかった。
 だけどいい子ぶって、いつも一人で解決しようとする癖がついてしまった。
 前向きな印象も与える反面、自分のことに関しては融通の利かない曲げられない性格でもあった。
 だが、氷室を前にしていると、道を正されているようで、大きな包容力で包まれている気分になる。
 それがとても心地いい。
 怖いことがあったあとでも、自然に笑みがこぼれていた。
 その笑顔につられ、氷室も照れて、少年のようにあどけなく笑っている。
 例えば、クラスの女の子から優しくしてもらって、戸惑いながらもありがとうとお礼を言って、痒くもないのに持っていきようのない思いを誤魔化すために、照れて頭を掻き毟っているような高校生の気分だった。
 無理に言葉を交わさなくても二人は落ち着きを払って、いい雰囲気を感じていた。
「私も氷室さんにいつかキッチンをデザインして欲しいな。私だけの使いやすいキッチン」
「例えば、どんな感じ?」
「私、背が高いから、シンクも高めにするの。色は明るくて楽しくなりそうなカラフルな感じで、収納箇所が一杯あっておとぎの国のような夢のあるキッチンがいい」
「まるで子供のおままごとみたいなキッチンだな」
「うん、そういうのがいい。大人になっても夢を忘れないようなもの」
 なゆみは隣の椅子に置いていた、リュックにぶら下がってるキティちゃんを何気に触れた。
「キティちゃんが好きなのか?」
「うん、大好き。きっとおばあちゃんになっても大好きだと思う。私はずっと変わらずにこのままだから」
「初めて会ったとき、リュックにそれ付いてなかったよな」
「すごい。ちゃんと見てたんですね。あの時、私、背伸びしようとしてた。大人の女性になりたいって思って、子供っぽいものを封印してたの。でも好きなものってやっぱり無理やり遠ざけちゃいけないって思った。好きなら正直に好きって私は嘘偽りなく言いたい」
 なゆみは真剣に氷室の顔を見ていた。
 無意識ながら、その瞳の奥には口にはできない真実が映っている。
 氷室の本心もまたその瞳に吸い寄せられるように、心の扉が大きく開く。
 そして気持ちを言うには今しかないと、勇気が腹の底から突然湧き上がった。
「なあ、斉藤……」
 だが、無情にも熱々揚げたてのトンカツがやってきた。
 なゆみもタイミングが悪かった。
 昼食を抜いて腹が減りすぎて食欲には勝てず、トンカツに視線が向いて笑顔で見ていた。
 氷室の開いた心の扉に、ひゅーっと風が吹き込んで、勝手にバタンと閉められてしまった。
(くそぉ、トンカツに負けた……)
「氷室さん、今なんか言いかけました?」
「いや、その、トンカツはカツ(勝つ)だけあって強いなと」
「どうしたんですか? トンカツのジョークですか? すみません、笑えませんでした」
「俺もだよ…… でも負けて泣けてくる」
「氷室さん、トンカツと何の勝負してるんですか?」
「いや、なんでもない。とにかく食おう」
「はい。頂きまーす」
 なゆみはわくわくした顔つきをしていた。
 それとは対照的に氷室はトンカツを睨んでいた。
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