第六章
2
最後の日は平日のために、なゆみの送別会はその週の土曜日にずらされた。
気持ちだけでいいと何度も断ったのに、そうはいかない最後だからと、川野だけでなく純貴にも是非と勧められた。
なゆみは有難く受け入れた。
出勤最後の日は、特に変わりなく普段と同じ様に終えた。
ただ気持ちだけが極まっていた。
シャッターが閉まった後、川野が「お疲れさん」とにやけた顔を一層緩ませて、へへへと笑いながら言った。
千恵も一つため息をついて「終わっちゃったね」と寂しそうに呟く。
「本当に色々とお世話になりました」
なゆみは深々と頭を下げて挨拶した。
たった四ヶ月の出来事なのに、もう何年も一緒だったような気分だった。
終わりよければ全てよし。
とても楽しい日々だったと、終わってからじわじわ溢れてくる。
本当は辛いことも嫌なことも一杯あったのに、それすら忘れてしまえるほど、清々しい。
勢いよくタイムカードをレコーダーに入れ込む。
カチッという音ですら、胸に響いて、嗚呼という声が小さく漏れていた。
服を着替え、今度は脱いだ制服を手に取った。
氷室に似合ってないとストレートに言われた制服も、もう二度と着られないと思えばなんだか愛着が湧いてくる。
「サイトちゃん、そしたら土曜日にまたね」
「その日が斉藤との本当の別れになるんだな」
千恵と川野がしみじみと言い出す。
「でもまた一年後にアメリカから戻ってきたらここへ寄ります。そのときまでここに居て下さいよ」
二人は笑っていた。
千恵と川野に別れの挨拶をして、なゆみは制服を持って本店に急いだ。
専務である純貴に、仕事が終わったら挨拶をしたいと予め知らせていたので、待っていてくれているはずだった。
だからこそ早く行かなければならない。
しかし慌てすぎて、なゆみはしっかりと、その途中でこけてしまった。
「げー、やっちゃった。もう恥ずかしい」
ずべっと勢いよく転んで、周りの注目を存分に浴びた。
たまたまショートパンツだったのが災いして、しっかりと膝小僧をすりむいて血が滲んでいた。
むくっと立ち上がり、周りの人の反応をついでにちらりと恥かしげに見て、逃げるようにそそくさと去っていく。
少し足がヒリヒリと痛かった。
「ここでまたもう一回こけたらびっくりだな」と思って走ってたら、ほんとに躓いて一瞬ヒヤッとしたが、なんとか持ちこたえてよろけていた。
どこまでも抜けているとなゆみが情けない思いを抱いていた時、背中に背負っていたリュックについていたキティもよろけるように、後ろで揺れていた。
本店の端のシャッターが少し空いたところから光が漏れている。
そこを潜れば、純貴と氷室が談笑をしている姿があった。
「お疲れ様です。遅くなってすみません」
「おっ、斉藤さん。お疲れ様。今までありがとうね。ほんと寂しくなるな。なあコトヤン」
「まあな」
氷室にはそれが精一杯の言葉だった。
心の中では寂しさで一杯なのに正直に感情を表せず、不自然にならないように短く受け答えしていた。
なゆみは純貴にお礼を言って制服を返した。
その時氷室がなゆみの足を見てびっくりしていた。
「おい、お前、こけたのか。血が出てるぞ」
「はい、ちょっと最後にやってしまいました。かすり傷です」
なゆみは恥ずかしさをごまかすために笑っていた。
だが氷室は笑えなかった。
早く来ようとして無理して走ってきた姿が目に浮かぶ。
最後まで一生懸命なその姿勢は、初めて見たときから変わっていない。
氷室は感情が高ぶってぐっと体に力が入った。
「お前ここに座れ、消毒した方がいいぞ。ばい菌入って病気になって留学できないようになったらどうする」
「えっ? そんな大げさな」
「斉藤さん、コトヤンに手当てしてもらいな。そのままの格好で帰ったら、なんか恥ずかしいしさ」
純貴に言われ、膝小僧を見つめると、血が垂れかかっていた。
「そしたら、俺は先に帰るね。コトヤン、あと宜しくね。それから斉藤さんもまた土曜日にね」
「はっ、はい。本当にお世話になりました」
純貴はシャッターを潜って去っていった。
なゆみはまた氷室と二人っきりになって少しドキドキと落ち着かない。
「ほら、突っ立ってないで、ここに座れ」
しかしもうこれで最後だと思うと、素直に言うことを聞いた。
氷室がいつも座っている椅子。
そこになゆみが腰掛けると、氷室はしゃがんで救急箱から持ち出した消毒薬を遠慮なく振りかけた。
「痛ー」
「我慢しろ」
「本当にすみません。最後の日まで迷惑掛けっぱなしで……」
氷室は黙って、黙々と手当てをする。
最後の最後まであの大きな手にまた助けられてしまった。
足にガーゼを当ててその上からテープでとめると、最後に「終わりだ」とぱんと怪我した膝小僧を叩いていた。
「痛ーい」
それでも氷室は何も言わず、救急箱を整理して、それを棚の上に戻していた。
なゆみも話す話題も思いつかず、暫く膝小僧を見つめていた。
「さあ、帰るぞ」
「あっ、はい」
口数少なく、顔を合わせようとしない氷室の態度は、よそよそし過ぎて、なゆみのことを過去の人扱いにしているようだった。
なゆみは少し悲しくなり、思わず後ろから氷室のあの背中に抱きつきたくなる衝動に駆られてしまった。
そんなこともできるわけもなく氷室の後をなゆみは黙ってついていく。
店を出ると、氷室はシャッターを閉め鍵を掛けた。
なゆみはその大きな広い背中を、泣きたくなるような気持ちで見ていた。
「氷室さん、今まで本当にありがとうございました。氷室さんには本当に感謝してます」
「いいよ。こっちこそ楽しかったよ。お前みたいな奴はそう滅多に出会うこともないもんな」
氷室の本心だった。
(恋するほどに夢中になれたくらいだ。そうそう現れるもんじゃない)
「氷室さんだって、私が滅多に出会うような方じゃないです。氷室さんのことずっと忘れません」
「そっか」
氷室は光栄とばかりに笑みを口元に浮かべたが、目はかすかな悲しみを帯びていた。
そしてなゆみは右手を出した。
氷室は「ん?」と思っていると、なゆみは催促する。
「握手ですよ、握手。最後にお願いします」
「ああ、わかったよ」
氷室はなゆみの手をぎゅっと握った。
その手の感触は過去の色んなことを思い出させた。
なゆみも氷室の大きな手を最後の記念にしっかり握っていた。
この手が大好きだからどうしても触れたかった。
「それじゃここで失礼します」
「どこか行くのか?」
なゆみは特に答えることもなく、誤魔化すように笑っていた。
「そっか、伊勢君がいつもの場所に来てるんだな」
なゆみはにっこりと微笑み、踵を返して去っていった。
氷室には引きとめることもできなかった。