第六章
3
そして土曜日、なゆみの送別会の日がやってきた。
仕事が終わる時間を見計らって、閉店間際になゆみはもう一度店にやってくる。
手土産に、お茶のセットとお菓子も忘れず、支店、本店と二つ分用意していた。
先に本店に持っていき、ミナにそれらを渡し、横目でちらりと氷室の姿を見たが、氷室はこの時もやっぱり振り向いてはくれなかった。
氷室なら、足の怪我を気にして「膝小僧は治ったか」くらいは訊いてくれるんじゃないかと、なゆみはどこかで期待をしていた。
足の怪我は大したこともなく、カサブタになってる状態だが、氷室が手当てをしてくれただけに、そのことについて声を掛けてこないのは少し寂しかった。
ジーンズを穿いてたから、膝が隠れてすっかり忘れてしまってたのかもしれないが、仕事を辞めてから唯一この傷が氷室を思い出すものとなっていたので、家では見る度に氷室を感じていた。
仕事を辞めた者には、上司という役目も課せられず、義務が終了したということなのだろうか。
氷室がとても遠い存在のように思えてならなかった。
これが氷室との別れ。
それを現実に突き付けられ、あまりにも悲しい事実に胸が痛かった。
「じゃあ、ミナちゃん、私あっちで待ってるね」
なゆみは最後まで氷室のことが気になりながらも本店を出て行く。
その後で、氷室がなゆみの送別会に来てくれるのか確かめなかった事を気にした。
もう一度戻って確かめる気力もなく、なゆみは歯がゆい思いで去っていった。
その時、なゆみが去っていく姿をもどかしくなりながら氷室はしっかりと目で追っていた。
今更話をしたところでどうにもなるわけでもなく、このまま顔を会わせない方がいいと自ら無視を決め込んだ訳だが、それはいい訳で、本当は辛い思いをするのが嫌で逃げているだけに過ぎなかった。
なゆみの姿を見ること自体辛くなっている。
氷室は刻々と迫るなゆみとの別れに気持ちの処理ができず、心を閉ざしてしまった。
支店では、なゆみの代わりに新しい女の子が本店から移動していた。
どうやら社長が面接をしたらしい。
純貴が選ぶようなタイプではなかった。
なゆみとはまたタイプが違うが、真面目そうでしっかりした感じだった。
まだ入ったばかりで慣れてないのか戸惑っていて、少しおどおどしていた。
もしかしたら川野のネチネチにやられているのかもしれない。
失敗すれば何度も同じ事を注意される。
最初はあの温和そうな物腰に騙されて、びっくりすることだろう。
自分も辿った道だが、一緒にいれば慣れてくることもある。
直接アドバイスはできないけど、頑張って欲しいとなゆみは笑顔を見せて、その新しいアルバイトの女の子と挨拶を交わした。
千恵が居れば、例え川野が側にいてもきっと大丈夫な気がした。
そしてその川野をちらりと見れば、相変わらずにやけた顔をしている。
そういえば注意を受けたことはあったが、怒ったところは一度も見たことがなかった。
しつこくて苛つくこともあるが、それはビジネスが絡んでいることであって、本当は人当たりのいいおっさんなのかもしれない。
ただスケベだが……
店を辞めたこのときだから思うのかもしれないが、川野もいい人だったとなゆみは最後にいい評価をつけていた。
店の外から中を覗いたとき、自分があの制服を着て、あそこで働いていたんだと客観的に見られた。
ここでの全てが終わってしまった。
なゆみはすっかり巣立ったような気分になりながら、皆が働いている様子を笑顔で見つめていた。
送別会は歓迎会をしてもらった時と同じ店で予約を入れていた。
新しい人もなゆみとあまり面識がないながらも、折角だからと一緒に来てくれた。
どうせ送るのならたくさんの人に送ってもらう方が門出にいいと、川野が言い出した。
川野は最後の最後で、生暖かくなゆみの肩に触れた。
これももう最後だと思うと、なゆみは楽しく笑ってサービス旺盛に我慢するが、それが助長となって図に乗られてしまった。
「斉藤、飲んだ後は、ホテル行こ」
「嫌です」
最後までこれも川野らしいから、怒る気にもならなかった。
先に支店のみんなと、予約した居酒屋の前で待っていると、本店で働いている人が固まってこっちに向かってやってくるのが見えた。
そこに一番背が高い人が居たことでなゆみはほっとした。
氷室も一緒に来ていた。
この時は、氷室の隣に座りたいとなゆみはつい願ってしまった。
「よっ、斉藤さん。今夜は主役だからね。また一杯飲んでね」
純貴が声を掛けてきた。
側には愛想良く笑った美穂もいる。
この二人もまだそれなりの関係を続けているようだった。
そこには他になゆみとはあまり面識のない本店のアルバイトが二人いたが、その中に奈津子の姿はなかった。
なゆみより後に入りながら先に辞めていってしまった。
入れ替わりも激しく長続きしない職場だが、なゆみもまた四ヶ月しか働かなかったのに、こうやって宴会の席を用意してもらえるのは感謝すべきことだった。
前回と同じ奥のお座敷に案内され、懐かしくなってしまった。
純貴と美穂と氷室は前回と全く同じ場所に座ったが、なゆみが氷室の隣に行こうか躊躇している間に、新しく入った女の子が何も知らずに氷室の隣に座ってしまった。
なゆみは仕方なくその女の子の隣に座り、横には千恵とミナが続いて座った。
結局なゆみは前回と同じ位置に座る羽目になり、目の前には川野がやっぱりいた。
川野はニヤニヤとした顔つきでなゆみを見ながら、しょっぱなから「無礼講、無礼講」と言っては一人で盛り上がっていた。
飲み物がそれぞれに運ばれた時、純貴がなゆみに労いの言葉を言って音頭を取ると、一同はグラスを持って乾杯する。
なゆみは一人一人とグラスを重ね、そして最後に氷室にも積極的に自らグラスをぶつけた。
しかし氷室の反応が鈍い。
どうでもいいことのように氷室はなゆみとグラスを重ねた後、生ビールを一気に飲みだした。
「おっ、コトヤン、今日はすごい飲みっぷりだね。最初から飛ばすじゃないか」
「ああ、喉が渇いていたからな」
氷室がすぐに二杯目を頼めば、なゆみは過去の自分の姿と重なった。
「氷室さん、悪酔いしないで下さいよ。いつかの私みたいに」
なゆみは自分で言ってしまって、ミナや千恵に突っ込まれて、笑われた。
氷室は上の空で聞いていた。
和やかな酒の席だというのに、氷室は輪の中に溶け込もうともせず、誰も入り込めない雰囲気を作って、一人で飲み続ける。
体の大きな人はアルコールに強いだろうが、だからといって酔わないとは限らない。
その量は自分で分かっているとは思うが、それを気にせず氷室はガブガブと流し込んでいるように見えた。
それは手当たり次第に飲みまくり、酒を味わいながら楽しんでいる飲み方ではなかった。
なゆみは気になって何度も氷室に視線を合わせたが、氷室は完全に無視してなゆみが気にかけていても気にする素振りもなかった。
歓迎会で飲んだときと全く立場が逆になってしまっている。
なゆみが側で心配した態度を取っていると、千恵もまたチラチラと二人の様子を見ていた。
なゆみはウーロン茶しか飲まなかったが、それはそれで面白みに掛けると川野に突っ込まれた。
「斉藤、なんで飲まないんだ? 前はあんなに飲んで面白かったのに。最後なんだからもっと飲んだらどうだ?」
「私をまた酔わせたいんですか。もうお酒は懲り懲りです」
あの時の事は笑い話で済ませられるが、思い出せば恥ずかしくなってくる。
適当にあしらって、ウーロン茶を一口飲んだ。
なゆみ以外、皆適宜に飲んで、気持ちよい酔い方をして楽しんでいた。
しかし、そのテーブルの隅に座っていた氷室だけは、すでにできあがっているような酔い方をして、頭をふらふらさせて座っている。
それでも飲みたらないと、氷室は空のグラスを持ち上げて、さらに酒を注文していた。