Temporary Love

第六章


「ひ、氷室さん、ちょっ、ちょっと」
 氷室は抱き枕を抱くようになゆみを包み込む。
 力強く抱かれると、じたばたしていたなゆみの力は抜けてしまい、されるがままに身を委ねてしまった。
 氷室の素肌に自ら体を摺り寄せ、一緒にベッドに寝転がった。
「今だけ、今だけだから」
 そういい聞かして、そっと目を閉じた。
 しんと静まり返る部屋の中で、氷室の胸の鼓動が聞こえてくる。
 暫くその音に耳を澄ませ、氷室のことだけを考える。
 厚くて温かいその胸になゆみは抱かれながら、氷室と過ごした日々を一つ一つ思い出していた。
 酔いつぶれていることをいいことに、なゆみは大胆にもそっと氷室の胸にキスをしてみた。
 そこにはこれまでのお礼と自分の本当の気持ちを含ませて、愛しいものに唇で触れることが最上級の行為とでも言うかのように思いを込めていた。
 お別れを口にしてさようならと思っていただけに、最後で氷室に抱きしめられてなゆみは満足だった。
 いつしか部屋は涼しくなり、氷室の熱が次第に心地よくなってくる。
 いつまでもいつまでもずっとこうしていたいとなゆみは思ってしまった。
 氷室もまた同じような気持ちでいたのか、うわごとのように呟く。
「斉藤、行……くな。頼むから、側に居て……くれ」
 どこまで本気なのか、なゆみには氷室のうわごとの真意は分からなかったが、それでも充分満足だった。

 なゆみが閉店間際に本店に寄ったとき、氷室は声を掛けるどころか、振り向くことすらできずじまいだった。
 傷つくのを恐れ、これ以上の悲しみを抱えたくないと逃げる選択をしてしまった。
 どうすることもできない思いを抱えたまま、嵐が過ぎ去るのをなす術もなく、ただ恐怖心だけ抱いてじっと耐えているような気持ちだった。
 これで最後だとなゆみとの別れを突き付けられると、簡単にどん底に落ちてしまった。
 それこそなゆみが言っていたテンポラリーラブだと、期間限定の暫しの仮の恋の終わりを、氷室は迎える準備をしていた。
 それには一言も言葉を交わさず、終わりは早い方がいいに決まってる。
 最後は飲んで飲んで飲みまくって、何もかも忘れる。
 だから氷室は一人無言で飲み続けた。
 深く海に沈みこみ、そしてもうそこから出てこないつもりで飲んでいた。
 普段酒に溺れない氷室が、酒に溺れてしまったのは、また挫折して諦める道を選んでいたからだった。
 まさかその酔ったことで、こうやってなゆみを抱いているとは皮肉なもんだった。
 本人は果たしてどこまで覚えているのか、それは氷室が起きた時にしかわからない。
 
 氷室は安心したかのようになゆみを抱えたまますっかり寝入ってしまった。
 鼾が聞こえると、なゆみを抱いていた腕が緩んできた。
 なゆみはそれが合図のように思えて、そっと氷室の胸から離れ、そして布団をかけてやった。
「氷室さん、それじゃ失礼します。今まで本当にありがとうございました」
 氷室の寝顔を寂しげになゆみは見ていた。
 氷室はなゆみが去っていく事も知らず、無防備に眠りこけている。
 そんな姿を見つめながら、なゆみは言いたい気持ちも本人に告げられず、その代わりにじわっと涙がこみ上げた。
 それを止めようとして最後に飛びっきりの笑顔を氷室に向けるが、無理に笑っても涙は頬を伝っていた。
 これ以上側に居れば大泣きしてしまう。
 なゆみは振り切るようにそこを立ち去り、最後に部屋の電気を消して、玄関に向かった。
 そこに置いていたリュックを手に取ったとき、ふとキティのマスコットが目に入った。
 一時は封印していたものだったが、再び自分らしさのシンボルのようにつけていたキティのマスコット。
 何かある度に一緒に揺れて、自分と共に過ごしてきたものだった。
 暫くキティを見つめて考える。
 自分が氷室と別れても、このキティだけは氷室と過ごして欲しいと、リュックからキティのマスコットをはずし、なゆみはそれを下駄箱の上に置いていた鍵の隣に並べた。
 そして静かにドアを開けて出て行く。
 オートロックのドアはカチャリと音を立て閉まった。
 なゆみはもう氷室の部屋へ戻れなくなった。
 それと同時にさっきまで我慢していた涙が一度に溢れ出す。
 それを拭いながら、早足でそこを去ってエレベーターに乗り込む。
 マンションの外に出たとき、建物を振り返りもせず、全ての思いを断ち切るように大通りに向かって走っていった。
 なゆみは自分の行くべき道だけを探すように、怖がることなく思った道を背筋を伸ばして進んでいく。
 やがて駅が見えた時、涙も乾きこれでよかったとぐっとお腹に力を込めていた。
 
 朝になり氷室は眠りから覚め、ぶるっと体を震わせた。
 どうやって帰って来たのか全く覚えてない。
 起き上れば、頭がガンガンと痛み出し、顔をしかめていた。
 歪んだ顔つきで辺りを見回し、暫くぼーっとそのままの姿勢でいると、なゆみの事を思い出した。
「斉藤……」
 一人闇雲に飲んでいた酒。
 なゆみと話すこともせず、別れの言葉もあいさつもなくそして何もかも終わってしまった。
「The End(ジ エンド)」
 氷室は映画の終わりを告げる最後のシーンのように呟いた。
「くそっ」
 自ら全てを放棄したとはいえ、二日酔いも影響してこの上ない最悪の気分だった。
 ベッドから起き上がり、狭い廊下へ出て、小さなキッチンに添えつけていた棚の中からグラスを取り出し、勢いよく蛇口から水を出す。
 それをグラスに注いで、ぐっと飲み干した。
 そのグラスをシンクに置いて、玄関の方を見れば、白いものがぼわっと小さく点のように目に入ってきた。
 なんだろうと下駄箱の上を見て、そこにキティちゃんのマスコットを見つけはっとした。
 それを掴み暫く呆然と見つめては、込みあがる感情が爆発し力の限りそれを握り締めた。
「斉藤が俺をここまで連れてきたのか」
 氷室は押さえ切れない思いを歯で噛み砕くように食いしばる。
 どうすることもできない思いは、行き先を見失って体の中で固まっていく。
 まるでそれは石のように重く圧し掛かっていた。

 その日の昼すぎ、父親から電話が入った。
「コトヤ、いい加減に返事をしたらどうだ。見合いをして付き合うというのはもう結婚を前提としていることだ。幸江さんも26歳だし、焦るところもあるだろう。きっと早くその言葉を聞きたいと思ってるぞ。いつまでも待たせるのは失礼だ。すぐにプロポーズしなさい」
 氷室は言葉の意味を深く考えていなかった。
 父親がまたうるさく小言を言っているくらいにしか捉えていない。
 結婚という事自体軽々しく思えてきた。
 自棄になった勢いで、自分でも馬鹿なことを口走っていると思いながら答えていた。
「そうだな。でも俺、婚約指輪買うほどのまとまった金なんてないや」
「おっ、結婚を意識しているってことなんだな。わかったそれくらいの金、私が出してやろう。幸江さんに親から貰ったなんて言わなければわからないさ。お前が拘るのなら、出世払いで後で返してくれてもいい」
「分かった。今度俺の銀行口座にでも振り込んでおいてくれ」
 電話を切った後、氷室は益々生気が抜けたようになっていた。
「俺、本当に結婚しちまうのか」
 まるで他人事のように思っていた。
 だがこのときの氷室には正常な判断などできる訳がなかった。
 なゆみが去ってしまった後、何もやる気はなく、それならば将来を約束された安易な道を辿った方が楽に思えてきた。
 勢いで結婚して、そして幸江の父親の会社を手に入れて、適当に人生を過ごすのも一つの手かもしれないとそんなことまで考えだしていた。
 リストラにあって落ち込んでいたとき、純貴に勧められて簡単に就職したように──
 困難にぶち当たればいつも逃げ道を探してしまう。
 また同じ道を辿っていく自分が本当の自分に思えてしまった。
「所詮俺は弱い人間さ」
 氷室はキティのマスコットをこのときずっと握り締めていた。
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