Temporary Love

第六章


 次の日の月曜日。
 氷室は出勤してもどんよりとして口数は少なく、仕事も投げやりに荒っぽくキーボードを叩いていた。
 時々従業員の女の子が話しかけるが、全く無愛想に対応し、口をきかなければ良かったと皆を後悔させるほどに態度が悪かった。
 睨みを利かした目で見つめられれば、怒ってるとしか思えない。
 用事があるときは腫れ物に触るように、どの従業員も、神経を尖らして氷室に接していた。
 よっぽどのことがなければ近寄りたくないと、女の子達はできるだけ距離を置いて避けていた。
 氷室は黙々とデスクで仕事をこなすが、溜息の数が多すぎて、その周りがどんどん曇っていきそうだった。
 純貴が見るに見かね、熱い茶を入れた湯飲みを氷室のデスクに置いた。
「おい、コトヤン、なんか疲れてる? 少しは息抜きでもしたらどうだ。なんかピリピリしすぎて周りの者が怯えてるぞ」
「えっ、それは大げさだろ」
 全く自分が何をしているのか自覚を持ってない氷室は、純貴から苦言を呈されてやっと気がついた。
 落ち着こうと、純貴が入れてくれたお茶に氷室は口をつけた。
「もしかしたら、斉藤さんが辞めたことが関係してるのか?」
 純貴にストレートに言われ、氷室は思わずお茶を吹いてしまっては、誤魔化そうと熱くて飲めなかったことにしておいた。
 結構わざとらしい。
「馬鹿いえ、そんなことじゃないよ」
 氷室が言いにくいことを言うときは常に口先が尖る。
「じゃあなんだよ」
 はっきりしろと純貴の声が少し苛立っていた。
 氷室は少し小声になりながら、尤もらしい理由を適当に言って話をはぐらかそうとする。
「見合い相手のことさ。父親が早く結婚の意志を伝えろってうるさくてさ、それで本当に結婚してしまうのかなって思ってな」
 これも氷室には悩むところでもあったので、全くの嘘ではなかった。
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって、よく軽々しく言えるな」
「コトヤンも32だろ。いい加減結婚しちまえよ。大したことないぜ」
「おい、純貴」
「結婚したって、気に入ったのが出てきたらバレずに手を出せばいいこと」
「純貴、お前いつか罰当たるぞ。しかもこんなところで話題にする話か」
 氷室は周りを見渡す。
 従業員は接客で忙しそうにしていたので、二人の話には気にも留めてなかった。
「まあそのときはそのときさ」
 どこまでもあっけらかんとしている純貴に、氷室はお手上げだった。
「でもさ、コトヤンだっていつかそうなるかもな」
「俺はそんな風には……」
「おい、だってお見合いだろ。元々好きじゃない女と結婚のためだけに一生を共にするなんてつまんないじゃないか。いつか心から惚れた女が出てきたら、お前も奇麗事なんて言ってられないぜ」
 氷室は黙り込んだ。
 一体なんのために結婚するのだろうと疑念が湧き上がる。
 なゆみへの思いを断ち切るため。
 安易に将来の安定を手に入れるため。
 ヤケクソで動いているのは判っているが、全ては後の祭りだった。
 ズズーっとお茶を飲んで、自分の気持ちを濁した。
「純貴、このお茶結構美味だな。どこの茶だ」
「ああ、それ、斉藤さんがもってきてくれた茶だ」
「……」
 氷室はその後、無言でお茶を飲み干した。
 それはまるでなゆみへの思いを飲み込んでしまうようだった。

 そして一日また一日と過ぎていく。
 明るく輝いていた太陽は軌道を外れて違う星へと旅立った。
 光を一杯浴びずにいる氷室は、折角やる気になっていた夢を追いかける気持ちも、すっかり色褪せてしまい、また振り出しに戻っていた。
 なゆみが居ないと元気も出てこない。
 そんな時は、なゆみが持ってきたお茶を何度も飲んでしまうのだった。
「あー、上野原さん、斉藤はいつアメリカ出発なんだ。もう行っちゃったのか」
 側を通ったミナに声を掛けていた。
「いえ、今週の土曜日ですよ。確か夕方4時のフライトだったかな。仕事がなかったら見送りに行ったんですけどね」
「そっか明後日か」
 それまではまだ日本にいる。
 氷室は無性に会いたくなってきた。
 しかし実家の住所も電話番号も分からない。
 それをミナに尋ねたくとも勇気が出ず、ミナが側を通る度に訊こうか迷っていると、挙動不審になって益々距離を置かれてしまった。
 出発の前日も、氷室は勇気を振り絞ってミナからなゆみの電話番号を聞き出そうと何度も接近を試みるが、そういうときに限ってタイミングが合わず、客が押 し寄せたり、ミナは他の従業員に呼ばれたりと、ことごとく氷室は取り残された。
 ミナがだめなら千恵がいたと、電話をすれば、ここでも川野が邪魔をしてきた。
 タイミングが合っても、果たして訊き出せるかといえば、そうする自信もなく、氷室は悶々と過ごしていた。
 
 土曜日の朝、とうとうなゆみの出発の日がやってきた。
 氷室は益々不貞腐れてどんよりとしていた。
 何度も時計の針を見て、フライト時間を気にする。
 昼休み、氷室はあまりの落ち着きのなさにビルの中をうろつき回っていた。
 その時なゆみが通っていた英会話学校を思い出し、なゆみの面影を求めてふらりとその周辺を立ち寄った。
 二階のビルの角に位置し、昼間ということもあり人気も少なく、入り口は静かにひっそりとしている。
 覗こうにも不審者と思われても嫌なので、すぐその場を去ろうと踵を返した。
 そこでジンジャとばったり出くわしてしまい、氷室は思わず叫んでいた。
「伊勢君! こんなところで何をしているんだ」
「氷室さんこそ」
「今日は斉藤の出発日じゃなかったのか。どうして見送りにいかないんだ。一年も会えなくなるんだぞ」
「ああ、もういいんですよ」
 あまりにも軽々しい態度に氷室はカチンときた。
「どういうことだ」
「タフクが来なくていいって言ったから。それに俺たち、友達に戻ったんです」
「それって別れたってことなのか」
「うーん、なんていうんだろう。結果的にはそうなりますけど、お互い話し合って納得した上で決めたことなんです」
「それはいつの話だ。いつ別れたんだ」
 まさかの話に氷室は詳しく聞きたいと問い詰める。
「ずっと前に氷室さんが女性と歩いていて、そのときに偶然出会ったでしょ。あの後です」
「ちょっと、待った。お前、それって斉藤を弄んだってことか」
 氷室の顔が強張った。
「ちょっと待って下さい。何も弄んだりしてません」
「じゃあなんであの時ホテルに入ったんだ。お前達が出てくるところを俺は見たぞ」
「えっ、ああ、あれですか。でも氷室さんどこで見てたんですか?」
「あれ…… だと」
 氷室の怒りは頂点に達し、握り締めた拳がぶるぶると震える。
「氷室さん、ちょっと待って下さい。まるで殴りかかってきそうだ。落ち着いて下さい。こうなったのも氷室さんのせいなんですよ。殴りたいのは俺の方なんですから。それに俺たちホテルには入りましたが、何もしてません」
「えっ?」
 一瞬で氷室の震えが止まった。
「あの時、タフクが氷室さんの姿を見て急に態度がおかしくなったんです。なぜか暴走して自棄になって自ら『ホテルに行こう』って俺を誘いました。あれは何 か理由があって無茶な行動に走っただけです。彼女はそんなこと望んでもいなかったくせに。俺はそれに気づきました。だから彼女の言う通りに中に入ったんで す。彼女は極限まで追い込まれないと自分が何をしでかしているか気がつかない。それは氷室さんもよくご存知じゃないでしょうか?」
 氷室もそれには同意して、小さく声が漏れるように 「ああ」と答えていた。
「だから俺が気づかせたんですよ。タフクの本当の気持ちはなんなのか」
 氷室の意識は飛んで放心したように立っていた。

 あの日、なゆみはジンジャとホテルに入り、勢いだけで事を起こしていた。
 ジンジャにキスをされ、腕の中でぎゅっと抱きしめられた後、ベッドの上に押し倒された。
 そしてジンジャのなすがままに身を委ねていたはずだった。
 それは自分で決心したことであり、後には引けないと自らそう思い込んでいた。
 Tシャツが上に捲くれ上がり、ジンジャがブラジャーを外そうとしたとき、どうしてもそれ以上できずに震えを生じ、ずっと突っ走って無理していた気持ちが突然崩れ落ちてしまった。
 それと同時に心の中の真の気持ちがつるっと剥けるように表れた。
「ジンジャ、やめて」
 自分がしでかしている事の大きな間違いに気がつくと、なゆみは両手で顔を覆って泣き出してしまった。
 ジンジャの手はそこで止まった。
「ごめん、ジンジャ、やっぱり私できない。私、このままじゃジンジャも傷つけてしまう」
 ジンジャはなゆみのTシャツの位置を戻して、起き上がった。
「ほら、起き上がれるか」
 ジンジャが労わるようになゆみの体を起こした。
 なゆみは泣きながらベッドの端に腰掛けると、ジンジャも寄り添って座った。
「ほら、泣かなくていいんだよ。もう分かってたよ。タフクが無理をしていることくらい。そして原因が氷室だってことも。奴が気になるんだろ。俺もそれは前から気にしていたことだったよ。 だけどそうじゃないって自分でも否定しているところがあったんだ」
「ジンジャ」
「荒っぽかったけど、これくらいしないとお前は絶対に自分の気持ちに正直にならないからな。俺は試したんだよ。タフクが本当に好きなのは誰かってね」
「えっ」
「俺ではタフクを繋ぎとめることはできない。一年待つとか行ったけど、俺にはお前を繋ぎとめておけないってわかったよ」
「ジンジャ、ごめん」
「何も謝ることはないさ。タフクと出会ってからはレッスン受けるのが楽しみだったし、タフクと話してたらすごく元気が出たし、いつもタフクのこと考えてた よ。またそれが心の中がふわふわして気持ちよかった。何が悪いって俺が一番悪いんだ。タフクの気持ち分かっていたのに、勇気がなくて行動に移せなかった」
「ジンジャ、私も楽しかった。ジンジャに構って欲しくて追いかけた自分にも満足して、恋をするって幸せだなって思ってた。ジンジャは私にとても大切なものを与えてくれた」
 二人は顔を見合わせて、お互いを思いながら笑顔を見せ合った。
 ジンジャは落ち着いた優しい眼差しをなゆみに見せて呟いた。
「俺たち、恋をすることを楽しんでいたんだろうな」
「恋をすることを楽しむ…… うん、確かにそれはあったと思う。ジンジャに恋をして私ほんと楽しかった」
「俺たちまた友達に戻ろう。タフクも俺なんかに縛られないで、アメリカでもっと自由にしてこいよ。タフクは自分の思うように飛び回って来い。俺はいつも明るく元気なタフクが好きだったんだよ。そうじゃないとタフクじゃない。俺が縛り付けてたらダメにしてしまいそうだ」
「ジンジャ…… ありがとう」
 二人は暫く英会話学校での思い出話をして、楽しかった日々を語り合っていた。
 これで終わりじゃなく、それぞれの出発の日としてお互いを見送ろうとしていた。
 なゆみとジンジャが寄り添ってホテルから出てきた時、二人はただお互いを思いやって歩いていただけだった。
 別れた後、気まずくなりそうなのを必死でそうじゃないと、お互い納得しようとしていた。
 最後まで好きだった気持ちを大切にしたくて、お互い傷つけたくなくて、あの時二人はかけがえのない思い出を一緒に分かち合ったと言い聞かせて別れていた。
 
 全てを知った時、いろんな感情が渦巻いて、氷室の体が震えていた。
 真実は氷室の心を揺さぶった。
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