第六章
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「氷室さん、タフクのことどう思ってます? タフクには、しっかりと見守って、寛容に支えてくれるような人じゃないといけないんです。そして時には厳しいことも遠慮なく言えて、正しい道に導いてくれるような人。そうじゃないとタフクはいつまでもふらふらしたままで、
危なっかしいこと一杯やってしまうんです。それができるのは俺じゃなかったってことなんです」
ジンジャは氷室の目を見て、言葉の裏の意味を読み取れと訴える。
「伊勢君、用事を思い出したので失礼するよ」
氷室は腕時計を覗き込み、一目散に走り出した。
ジンジャは一仕事終えたように、息を漏らした。
そしてぐっと背筋を伸ばして英会話学校へと足を向ける。
まだ完全になゆみへの思いはふっきれた訳ではない。
思い出が詰まった場所に一人残されれば、彼女のことを否が応でも思い出してしまう。
それでもなゆみを好きでいた気持ちは、彼女のために応援してやりたいという気持ちに変わっていく。
まるで風船の紐を自ら放してしまうことで、大空に飛ばしてどこまで高く上っていくのか見てみたいというような気持ちだった。
それでもこのときはかっこつけてキザな役回りを演じ、そしてそんな自分に酔うことで乗り切ろうとしていた。
明るく別れるのも楽しい恋の経験の一つになればいい。
まだまだ沢山の恋がこれからできるとばかりに、ジンジャは眼鏡を抑えながら二枚目俳優を気取って微笑みを口元に浮かべていた。
氷室はエスカレーターを駆け下り、ドアを突き破るようにビルの外に出て、大通りへと駆け出した。
一刻の時間も無駄にはできないと焦る気持ちでタクシーを探す。
無我夢中に走って空車のタクシーを見つけたときは、手でタクシーのボンネットを押さえ込むように捕まえた。
息をはあはあさせながら、必死の形相で「空港まで大至急」と叫んだ。
タクシーは氷室を乗せてすっと走り出す。
──間に合ってくれ!
力が、ぐっと漲り、逃したくないチャンスに氷室は邁進する。
胸がドキドキと高鳴っていた。
運良くタクシーは渋滞などにも巻き込まれずに順調に走っていた。
しつこく腕時計を見つめ、時間との勝負に氷室は間に合ってくれと心の中で何度も呟く。
そしてなゆみに会った時を想像して、どのように何を言うべきか頭の中で整理していた。
必ず会えると信じて、氷室は突き進んでいた。
空港に着いた時は2時半を過ぎたころだった。
間に合う!
氷室はタクシーを降りて、国際線のフロアー目指して全速力で走り、なゆみの姿を求めて探し回った。
「斉藤、どのエアラインだ。カリフォルニアというのはサンフランシスコ行きなのかそれともロスアンジェルス行きなのかどっちなんだ」
空港内は土曜日ということもあり人が多く混雑している。
その間をもどかしそうに避けながら進んでいた。
髪が短い女性を見る度、ドキッとするが、人違いだと分かるとがっかりする。
氷室はどうしてもなゆみを探し出せないでいた。
詳しいことを何も知らずに、どこのエアラインかも分からず氷室は焦りだした。
携帯電話を取り出して、職場に電話を掛けた。
「純貴か」
「おっ、コトヤン。どうした? 休憩時間とっくに過ぎてるぞ」
「すまん。今日はもう早退させてもらう」
「何があったんだ」
「悠長に喋ってる暇はないんだ。上野原さんを出してくれ。早く」
純貴は訳が分からずにミナを呼んだ。
「もしもし、お電話変わりました。上野原です」
「教えてくれ、斉藤の乗る飛行機はなんだ。あいつはまずどこへ行くんだ」
「えっ? えーと」
ミナは咄嗟に質問されてすぐに思い出せなかった。
氷室は焦る気持ちの中、体を震わせてミナの言葉を待っていた。
「あっ、確か、ユナイテッドのロス行きだったかと」
「わかった。ありがとう」
氷室は電話をすぐに切り、ユナイテッド航空のカウンターめがけて一目散に走った。
会えると期待が高まる中、カウンターに来てみれば目の前の光景に落胆してしまった。
そこにはなゆみの姿どころか、ガラガラに空いて、乗客すらほとんどいない。
ロスアンジェルス行きの飛行機の時間をチェックして氷室は唖然としてしまった。
時間変更がされ、出発時間が3時20分となっている。
その隣にはオンボードと表示され、すでに搭乗は始まっていた。
「そんな」
チケットを持たないものは搭乗口など行けるはずがない。
ましてや国際線。
なす術もなく、氷室は空港内で迷子にでもなったように、途方に暮れた。
先ほどの胸高鳴った興奮もすっかり凍りつき、谷底に容赦なく落とされ絶望していた。
空いている椅子にふらふらと座り、首をうなだれて暫くそこで動かずじっとしていた。
なぜもっと早く素直になれなかったのか、一言勇気を出して聞けばそれでよかったはずだった。
それなのに簡単に諦めて酒に溺れることで方をつけようとした自分が腹立たしく、悔やんでも悔やみきれないでいた。
「くそっ」
近づけなくとも、まだこの同じ場所になゆみがいると思うと、なかなか空港を去る気にはなれなかった。
飛行機の出発時刻が過ぎてしまった頃、氷室はようやく立ち上がる。
なゆみが飛行機に乗って飛び立ってしまった以上、もう無事に向こうに着いてくれることを願うしかなかった。
氷室は揺ら揺らとふらつきながら歩き出し、陽炎のようにいつ消えてしまってもおかしくないくらいに自分の存在価値を否定する。
あれだけの思いが一瞬のうちに消え去り、諦めるほかに道は残されず、重たい足を引きずるように、氷室は空港を後にした。
「何もかも終わってしまった」
その夜、氷室はベッドの上に横になり、キティのマスコットを目の前に垂らして見ていた。
振り子のように揺らして、その揺れ具合をひたすら見つめている。
「あいつのリュックではいつもこうやって揺れていた」
なゆみの姿が目に浮かぶと苦しさでキティをぎゅっと握り締めてしまった。
自分が逃げてきたことへの結果を責めまくる。
だったらもう仕方がないと、氷室は全てを受け入れた。
これ以上苦しむのが辛すぎて、この思いから逃れたくて仕方がなかった。
ベッドから立ち上がり、キティのマスコットを、物入れの引き出しの中にしまいこんだ。
もうなゆみのことを考えないように、時が経てばこの思いもどこかへ飛んでいくことを願っていた。
汗を掻いた服を脱ぎ、狭いユニットバスに入って、熱いお湯を出す。
頭から勢いよくシャワーを浴びては顔を上げた。
そのまま暫く熱いお湯をいつまでも顔で受けていた。
そしてかつてなゆみに言った言葉を思い出した。
『ガキだね。どうせ告白もしてないんだろ。勝手に相手に好きな奴がいると一人で思い込んで、そして自分は悲劇のヒロインになって泣いてしまっただけだろ』
このとき自分の言った言葉が、そっくりそのまま返ってきた。
今までのツケが一気に訪れ罰が当たった。
氷室は暫くお湯から顔を逸らすことができなかった。