第六章
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一方なゆみは、アメリカの大地に根を下ろすような勢いで、憧れの異文化に順応していた。
場所や習慣が変わると、過去など振り返ってる暇はないように、常に突き進んでいる。
なゆみの気持ちに合わせるかのように、南カリフォルニアは11月に入っても、その太陽の眩しさは衰えることなく、からっとした清々しい青空が広がっていた。
青い空を見ていると気分も晴れてくるように気持ちがいい。
毎日がウキウキするほど楽しくて、力が漲っては出会う全ての人と楽しくおしゃべりをしている。
そのため必然的になゆみの周りはどこに行っても賑やかになり、沢山の色々な国の友達にも恵まれた。
大学のキャンパスは、一つの街を形成しているくらい大きくて、至る所に様々な生徒が散らばっていた。
その中に紛れていると、自分も勉強しているんだと気分が高揚し、なゆみはこの場所にいるだけで嬉しくなっていた。
目が合えば、見知らぬ人とでもハーイと声を掛け合うことも、なゆみにはたまらなく気分がいい。
これがアメリカなんだと、満足していたのだが、ふと寄り添っている恋人達を見てしまうと、なんだか寂しい気持ちが表れた。
そんな時、ここに氷室がいたらどんなに楽しいだろうとつい思ってしまう。
ジンジャと別れて、それから気がついたのは、自分が心底氷室に心を奪われているということだった。
困ったときに必ず手を差し伸べてくれた、懐の大きな存在。
自分がふらふらしていると、必ずあの大きな手でしっかりと支えてくれた。
それが安心感が芽生えて心地よく、そのまま甘えてしまいたいと心とろけてしまう。
いつも守ってくれて、それは騎士のようで、逞しくかっこいい。
氷室の存在の大きさを離れてからしみじみと感じていた。
しかし、もう別々の道を歩いてしまった。
氷室もきっと幸江と結婚をすることだろう。
なゆみは決して戻ることのない日々を振り返らないように、カリフォルニアの太陽を体一杯に受けた。
「頑張らなくっちゃ」
青い空に手を思いっきり掲げて体を伸ばしていた。
積極的ななゆみは、ここでも物怖じしない。
バイタリティ溢れる行動力で、思うように突き進んでいた。
だが、それが必ずしもいいことばかりではなく、時々厄介ごとも運んできてしまう。
なゆみは疑うことなく、誰にでも気軽にしゃべってしまうので、変な奴が付きまとうという問題も引き寄せていた。
それでも対処の仕方を知らずに、ここでは英語の勉強だといいように考えるために、つい相手してしまい、危機感が全くない。
気がついたときは手遅れだった。
その日の授業が終わった後、テーブルと椅子が沢山置かれたパティオと呼ばれる中庭で、なゆみは友達と適当に会話をして楽しんでいた。
いろんな国の人が溢れては、国籍関係なく皆気軽に話を交わしている。
習慣や文化は違うが、目的は英語を学ぶというだけで、親近感を抱き、国を超えて皆このひと時を大いにエンジョイしていた。
なゆみもその中に混じって大声で笑っている。
しかしそこにアイツが来てしまった。
一度バス停で声を掛けられ、喋っただけでもう友達気取りをされて、それから何度も顔を合わす羽目になった人物。
別の大学の生徒なのに、なゆみが通う大学にまで現れるようになってしまった。
見かけは決してかっこいいとはお世辞にも言えない白人だった。
アメリカで全く地元の女性に相手にされてないのか、なゆみが屈託のない笑顔を見せたばかりに、懐いてしまった。
なゆみの影響で日本人女性にすっかり興味をもってしまって、日本人女性ばかりに声をかけるものだから、ここのキャンパスでも気持ち悪いと敬遠されて要注意人物と皆が噂し合っている。
皆は露骨に嫌な顔をするために、そいつはそれ以上近寄らないが、なゆみの場合だけは違った。
一番仲のいい友達だと勘違いしていた。
「なゆみ、ほらまた来たよアイツ」
仲良くなった日本人の友達、聡子が知らせてきた。
「あっ、ほんとだ。マークだ。聡子、どうしよう」
「なゆみがはっきり嫌だって意思表示しないからだよ」
自分は巻き込まれたくないため、マークが近づくと聡子はすっーと逃げた。
しかしなゆみは逃げられないで、その場に立ち竦む。
「ハーイ、ナユミ」
マークが笑みを添えてなゆみの側にやってきた。
「(マーク、ここで何してるの?)」
「(なゆみに会いに来た)」
「(でもここはマークの学校じゃないでしょ)」
「(君に会いに来ちゃだめなのかい? 僕達は友達だろ?)」
ストレートにイエス、ノーの質問をされると、ノーとはなゆみは言えなかった。
またずるずると言えずに適当に相手することになりそうだった。
そしてどんどん、深みにはまって行く。
なゆみはこんなとき氷室がいてくれたらと強く願ってしまった。
そしたら氷室の背中の後ろに隠れて、守ってもらえる。
何かあるとどうしても氷室を思い出さずにはいられない。
なゆみはやっぱりここでも自分で解決しようと、無理をして頑張ろうとする。
またこの日も英語を話すためだと、マークと付き合う覚悟を決めて、我慢を決め込んだ。
すると視界が大きな塊に急に遮られ、目の前に熊が現れたように思えた。
その背中は大きく、見覚えがあった。
「(申し訳ないが、君、なゆみに付きまとわないでくれるか)」
聞き覚えのある声が耳に入る。
(この人誰?)
なゆみはそっと回り込んで前の人物を見た。
そして息が止まるほど驚いた。
「ひ、ひ、ひ、ひ……」
「おい、俺はヒヒか」
「氷室さん! なんで、どうして、ここに居るの?」
「居ちゃ悪いか」
「そ、そんな、だってここカリフォルニアだよ」
「だから、それがどうした?」
なゆみはもう何がなんだか分からず、ただ取りとめもなく涙が零れ落ちた。
そしてなりふり構わず、沢山の人が居るのも忘れて氷室に無我夢中で抱きついた。
「おいおい、まあ嬉しいけどな」
氷室も力を込めて抱きしめ返す。
ずっとそうしたかった思いが凝縮されて、しっかりとなゆみを自分の腕の中に深く包み込んでいた。
もちろん氷室も満面の笑みを浮かべている。
ハートが一杯飛び交うような甘い空間が出来上がり、そこだけほんわかとした優しい色となって、二人は誰の目からも恋人同士に見えていた。
それに当てられたのかマークは気まずい思いを抱いて、自然にどこかへと消えていた。
なゆみはしっかりと抱きしめて満足した後、顔を上げた。
氷室が優しく微笑んで、なゆみを澄んだ黒い瞳で愛しく見つめている。
「嘘みたい。氷室さんがここにいるなんて」
「バカヤロウ、あんな葉書き送られたら、黙っていられるか。何がモテて電話番号渡されただ。またこうやってトラブルに巻き込まれやがって」
「氷室さん……」
「それになんだあの隠れたメッセージは。俺にここに来いとお前が誘ったんだろうが」
氷室はなゆみから貰った絵葉書を取り出して見せた。
「俺にはすぐわかったよ。ほらここの部分」
葉書きにかかれたメッセージの最初の文字だけ縦に読むと『私待つ停ます寝』となりすなわち、『私待っていますね』というメッセージが浮かび上がってき
た。
「あっ、バレた?」
「何がバレただ」
氷室はなゆみの頭をこついていた。
二人は暫く見詰め合い、自分達の世界の中で思いを確かめ合っていた。
あの日、氷室はなゆみからのメッセージの意味を受け取ると、すぐに幸江に電話して自分には思い人が居ることを正直に話した。
幸江は以前から薄々感じていたために、取り乱すことなくそれを素直に受け止めた。
氷室に好きな人が居るならば仕方のないことであり、そんな他の女を思っているような男など自分の方から断りたくなっていた。
そこまでして氷室と結婚する意味がないと、幸江もプライドというものがあった。
落ち着きを払い、自分の方が立場が上だということを見せ付けるためにも、氷室の断りにも動じずに威厳を持って接していた。
氷室はその後で、幸江の両親に謝りに行き、全てのけじめをつけていた。
自分の父親のお世話になった人達だから邪険にはできないでいた。
父親に叱られるかと思ったが、意外とあっさりと「そっか、残念だった」としか返ってこず、まずは一安心だった。
その後に金を返せと催促されたが、それについてはもう少し待ってくれとはぐらかす。
そのお金があったから、氷室はこうしてアメリカに来ることができたのだった。
帰ったらどやされるだろうが、なゆみと会うことと引き換えても怒られるくらいなんともなかった。
純貴にも何もかも話し、仕事も一から出直すつもりだと伝え理解を得た。
なゆみとの将来をしっかり考えたい。
とにかくじっとしているよりはなゆみに直接会って話をしたい。
いずれは結婚のことも視野にいれて、なゆみを自分のものにする決意も固く、それだけで葉書きに書かれた住所を頼りに海を越えて本当にやってきてしまった。
自分でも無謀だと分かっていても、もう諦めたくはなかった。
どんなときでも夢を持ち続けてそれに向かって掴み取りたいと、なゆみの葉書きで再び情熱が湧き起こった。
氷室には常にそんな気持ちにさせてくれるなゆみが必要だった。
年なんて関係ない。
とにかく行動あるのみ。
氷室は自分の心のままにここまでやってきてしまったのだった。
周りがやけにうるさく何か言っている。
皆ノリで冷やかしていた。
なゆみは開き直って自慢するように、氷室に更にくっついた。
カリフォルニアの青い空の下、取り囲む陽気な人々、そして側に愛する人。
なゆみからは幸せ一杯の笑顔がこぼれる。
氷室は、それをすくうようにそっとなゆみの頬に触れた。
冷やかしにもめげずに二人の世界を作ると、周りは好きにしろと次第に興味をなくしていった。
静かになったところで二人もようやく落ち着きだした。
そこでなゆみは氷室のあの大きな手をそっと繋ぐと、氷室を引っ張る。
そして二人だけになりたいと、キャンパス内を一緒に歩きだした。
芝生が広がった学生達が集う広場に来たとき、なゆみと氷室も木陰の中に入って腰を下ろして寄り添った。
「ここがよく分かったね」
「斉藤の滞在している家に行ったら、家の人がこの学校のことを教えてくれたよ。そして来てみたら、変な男と一緒にいて、なんか困ってたし、またかって本気でびっくりした。ほんとにふらふらしてるな」
「ふらふらしてるつもりはないんだけど、なんかいつも変なのを引き寄せちゃう」
「そしたら俺もその変なものってことなのか」
「うん。そうなのかな」
「おい、調子に乗るな」
なゆみは氷室に怒られると、それが氷室らしいと舌を出しておどけて笑っていた。
氷室はおもむろにズボンのポケットからキティちゃんのマスコットを取りだした。
「あっ、それは」
「そうだお前が置いていったものだ。いいか、これからお前が変なことをする度にコイツを叩いてやる。こんな風にな」
氷室は指でキティをはじく。
キティは何も言わずゆらゆらと振り子のように揺れていた。
なゆみは唖然とそれを見ていた。
「いいか、コイツは人質だ。お前がちゃんとしなければ、コイツは痛い思いをするんだぞ」
「やだ氷室さん。それって脅し?」
「どうなんだ。キティちゃんが俺にいじめられてそれでいいのか?」
「もちろんヤダ」
しかしなゆみはプーっと噴出していた。
「だったら必ず俺のところに戻って来い。戻ってこなかったらコイツがどうなっても知らないからな」
なゆみは我慢できずにお腹を抱えて笑い出した。
「何がおかしい」
「だって、そんな子供じみたことを真顔で言うんだもん」
「俺は本気だぞ」
「氷室さん、その子大切にしてあげて下さいね」
「ああ、もちろんだ」
キティちゃんはなゆみの目の前でゆらゆら揺れていた。
なゆみはそっとキティにキスをする。
「今私の気持ちをその子に預けました。だから氷室さんも私の気持ち大切に持っていて下さい」
「分かった。それじゃ俺の気持ちも今くれてやる」
「えっ?」
氷室はなゆみに近づき、唇を優しく重ねた。
なゆみは静かに目を閉じた。
氷室の唇が柔らかくてなゆみはつい自分の唇で氷室の下唇を挟んでしまう。
「おいっ、大胆だな」
「だって大好きなんだもん。氷室さんが」
なゆみは氷室の腕を抱きしめ、しっかり体を密着させた。
なゆみが積極的に思いをぶつけてくるのはカリフォルニアの気候のせいかもしれないと、氷室は青い空を眩しそうに目を細めて眺めた。
確かに美しい真っ青な空を眺めていると、心を開放させるくらいの力を感じる。
風も一緒に受けて気持ちがいいと自然と顔も綻んだ。
目の前では自由に学生達が各々の時間を過ごしている。
フリスビーをする者、寝転がってる者、本を読んでる者、そして氷室やなゆみたちのように恋人同士がいちゃついてキスをしている者、誰も他人の行動など気に留めず、今ある人生のひと時を楽しんでいるように見えた。
それはずっとこの先も続くかのように──
氷室はつぶやく。
「ハッピリーエバーアフター」
「うん、いつまでも幸せにってことだよね。おとぎ話のハッピーエンドの決まり文句。めでたしめでたし」
「ああ、そうだな、なゆみ」
氷室はいつの間にか「なゆみ」と呼んでいた。
そして彼女の頬を大きな手で包み込み、おとぎ話の最後のシーンにふさわしいように王子様になりきって、もう一度なゆみに甘い濃厚なキスをしていた。
Happily Ever After──
The End