Temporary Love2

第一章


「あっ、コトヤさん。来てらしたの?」
「敦子さん、ご無沙汰してます。お元気そうで何よりです」
 氷室は深々と丁寧に礼をした。
 敦子は53歳だが、いつもこぎれいにしているので、実際の年齢よりも若く見え、またお洒落にも気を遣い、生活に疲れたような庶民的なもの は全く見当たらない。
 背筋をいつも伸ばしているのも、人とは違う上流階級にいるという自分のプライドの表れが出ているようだった。
 凌雅は母親似であるが、ハンサムなのはこの母親の美貌を譲り受け、特にシャープなあごの線が母子ともにそっくりで、きりりとした締まった美しさが強調さ れていた。
「もう帰られるの? せめてお父さんが戻るまでいらっしゃればいいのに」
 敦子は口では引き止めていたが、無表情で問いかける言葉は社交辞令に過ぎない。
 氷室はそれを充分に分かっているので、落ち着いた笑みを返した。
「凌雅、それじゃまたな」
 氷室は小さいながらも日本庭園のような庭に敷き詰めた石をガシャガシャと音を立てて踏みながら去っていく。
 門を出たとき振り返ると、昔は大きく見えた純和風の家も、古ぼけてこじんまりとしたようにみえた。
 そろそろ家に置いてある自分の荷物を全て処分しなくてはと敦子を見て強く感じてしまった。
 氷室は過去のことを振り返る。
 氷室の母親が亡くなった時、氷室はまだ幼く死というものを理解するのは難しく、どこかに母が居るのではと家中を探しまわり、どこにも居ないことを知ると 悲し さがどんどんと膨らむ毎日を過ごしていた。
 二度と会えないということが死だと気づいたとき、氷室は寂しさで胸が押しつぶされそうだった。
 特に暗い夜が来て、母を恋しがる気持ちに襲われるとき、必死で我慢しようと涙を堪えて布団に潜る。
 子供心ながらどうしようもない現実をすでに分かっていた。
 父親は小さい事務所を抱えたばかりで、伴侶を失った悲しみを紛らわすためにも、仕事を軌道に乗せようと必死になり過ぎて、氷室のことまで構えな かった。
 氷室はそんなときに親戚や父親の知り合いの家に次々と預けられては絶えず孤独な思いをしていた。
 以前氷室の父親が幸江の家族に世話になったと言っていたが、氷室が預けられた知り合いの家の中に幸江の家族が含まれていたということだった。子供の頃何 度か面倒を見てもらっていたのである。
 氷室の父親の元に仕事の依頼として幸江の父親が来たことをきっかけに、当時多忙だった父親の仕事を潤滑に進めるためにも氷室を何度か預かるという話の流 れになった。
 その頃まだ幸江は赤ちゃんであり、まさかそのときすでに対面していたとは氷室は全く気がつくこともなくお見合いをしてしまっていた。
 氷室が建築に興味を持ったのも幸江の父親が図面を見せたのがきっかけだった。
 元々絵を描いたり、物を作り上げる図工が好きだったこともあり、幸江の父親が目の前で図面を描いてるのを見たときは、氷室は感銘を受けた。そして見よう 見真似で作った図面を幸江の父親に褒められてあっという間に興味を抱くこととなった。
 子供の頃の記憶が曖昧になり、幸江の父親に影響を受けたことなど氷室はすっかり忘れているが、幸江の両親が氷室を気に入っていたのも昔から知っていて可 愛がっていたからだった。
 見合いは上手くいかなかったが、そういう過去の恩を思い出したところで氷室がなゆみに思いを寄せる限り、このときの氷室には誰が現れても同じ結果だった に違いない。
 そして父親の仕事が軌道に乗り始めた頃、ようやく周りのことが落ち着いてみられるようになり、その頃父親は弁護士の助手として働いていた敦子と次第に親 密に なっていった。
 氷室の父親の事情をよく知り、また氷室とも面識があったので、新しい母親ができれば氷室も寂しくなくなると父親はあっさりと結婚を決めてしまった。
 父親もまだ若く、一人の男だったのである。いくら最愛の妻を亡くしたからといって、その後の一生を独身で暮らせるほどでもなかった。
 氷室はまた仕方のないことだと、父親の再婚を子供心ながら半ば諦めて受け入れるが、敦子には心を許すほど慕うことはなかった。
 父親は割り切って考えられても、どうしても自分の母親への思いが残り、その代わりは誰にもできないと頑なに思っていた。
 敦子もまた、氷室が懐かないことで亡き前妻への存在を常に感じ、再婚という後妻の立場が常にコンプレックスとなってしまう。
 そこに自分の子供ができたことで、前妻との間にできた氷室など可愛がろうという気持ちなど微塵もなくなった。
 凌雅が可愛くて仕方ない愛情は氷室の前でも当てつけのように見せてしまい、そして前妻を超えたいがために、自分の息子の方が氷室よりも優れているところ を見せ付けたかった。
 父親は仕事で常に忙しく、家のことは敦子に全て任せていたので、氷室が抱いた苦しみも気がつくことなどなかった。
 父親にしてみればどちらも自分の息子達であり可愛いがることにしては差がなかったが、敦子は氷室が父親に可愛がられているのを見るのは亡き前妻の影を感 じて 嫌がった。
 そんなときは小さな凌雅を側に連れて行き必ず邪魔をしていた。
 10歳も年が離れてると、どうしても小さい子供が中心となってしまう。そこに敦子が身を置くと今度は氷室が疎外感を感じ、本当の家族ではないと寂しさを 感じて益々敦子と氷室の間は悪循環になっていく。
 氷室が中学生になる頃は多感な年頃でもあり、不満を口に出すようになっていった。
 敦子に向かって暴言を吐いたときは、父親に殴られてしまい、その頃から反抗心は強くなり氷室は誰にも味方されずに頼れないことを身をもって学んでいた。
 だからこそ一人で努力をして早く家を出たいと自分で必死に勉強をして、いい結果が出ると、自分にやってやれないことはないと自らふてぶてしく横柄になっ ていく。
 自分の我を通し、引き際を知らずに融通を通して強引さも増していく。
 謙虚な気持ちを持つよりも、攻撃的にやりたいことをやる。それが氷室の突き進む道だと信じて、努力したことが全て実を結び良い大学へ行き、さらに就職も 楽勝で、難しいと言われていた一級建築士の資格さえも一発で合格するという幸運に恵まれた。
 そこまでは良かったのだが、挫折を知らずに生意気に突っ走ってきたのが災いして、社会ではそれが煙たがられるという結果を招くようになってしまった。
 リストラされたときはプライドが許せず、反省するどころか首を切った上司への恨みつらつらと自分の非を決して認めたくなかった。
 どんどん性格は歪み、自分で自分の首を絞めて立ち直れなくなったところへ、純貴からの仕事をヤケクソで受けてしまい、その後はなゆみとの出会いに繋がる のだが、このときだからこそはっきりと思えることがあった。
「失敗してよかった」
 声を大にして言いたかった。
 もうすぐまたなゆみに会える。
 氷室はスーツケースをちらりと見ては楽しみで仕方ないとばかりに、ニヤケが止まらなかった。
「俺が急に現れたら、あいつどんな顔をするだろうか」
 抱きしめるイメージトレーニングまでしてしまうほど氷室の頭の中はなゆみのことで一杯だった。
 出発の日を指折りに数えて氷室は渡米を心待ちにしていた。
 そして出発の前夜のこと、凌雅が氷室のマンションにひょっこり顔を出した。
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