第一章
9
氷室は時差ぼけが抜けてないため、ビーチの上に寝転がっているといつのまにか寝息を立てていた。
なゆみはその寝顔を優しく見つめ、過去のすれ違ったことを思い出してしまう。
氷室が自分を追いかけてここまでやってきてくれた。
色々とあったが、あの時何か一つ欠けていてもこの今の状況がなかったんだと思うとやはり運命と言うべきものを感じられずにはいられなかった。
ここにある現在は過去から繋がったものであり、そういう風に導かれていたんだと苦しかったことですらこの結果を目にすれば、その道を歩んでよかったと
思っ
ていた。
目が離せないくらいなゆみは氷室を見つめていると、氷室の安心しきっている寝顔ですら心満たされていくようだった。
その時、風に吹かれて転がるようにくしゃっと丸めた紙がなゆみの側に寄ってきた。
手を伸ばしてそれを掴み、何気なく広げて見てみると鉛筆で描かれたこの辺りの風景のスケッチが現れた。
なゆみはそれを見てはっとする。
「このタッチはジェイクが描いたものに似ている。もしかして彼がここに居るの?」
なゆみは立ち上がり、辺りをキョロキョロし、そして紙が転がってきた方向に向かって歩きだした。
海とビーチの境目は温度差があるのか、少し霧が発生し視界が霞みを帯びたようになっている。なゆみはそのまま突き進み、やがてその中に薄っすらと人のシ
ルエットを目にした。
近寄って見ると、はっきりと男性の姿が現れ、しかも小脇にスケッチブックを抱えている。間違いないと躊躇なくなゆみは声を掛ける。
「(すみません)」
その人は振り返るが、それはジェイクではなく少し白髪交じりのくたびれた感じのする初老の男性だった。
「(何か?)」
「(いえ、あの、これはあなたが描いたんですか)」
なゆみが絵を見せると、その男性は頷いた。
「(どうして捨てちゃうんですか。こんなに素晴らしい絵なのに)」
「(もう描いても意味がないってわかったからです)」
「(私、あなたと同じような絵を描く人を知ってます。その人もスケッチブックを捨ててしまいました)」
「(そうですか、その人もよほど辛いことがあったのでしょう。でもその人はまだやり直せるかもしれない。それにもしかしたら、捨ててしまったことを後悔し
ているかも、いや、きっと後悔してるはずだ。この私のように。私も過去に絵描きになるのを諦めてしまいました。今はとても後悔しているんです。折角引き止
めてくれた人もいたんですけど、私は自分に自信がなかった)」
とても悲しそうなどこにも焦点が合っていないその目は、過去の自分の行いを悔いている様子が伝わる。なゆみは何も言えずにその老人を哀れんでしまった。
そ
して慰めようと言葉を選んだ。
「(あの、絵を描くのはこれからもできるんじゃないでしょうか。今からでも描けばいいと思うんですが……)」
「(絵を描いたとしても、一番見て欲しい人に見てもらえないと意味がないんです。その人は先日事故で亡くなってしまったんです。ずっと喧嘩したままで仲直
りすることもなく、彼女は先に逝ってしまいました)」
「(そ、それは残念でお気の毒です)」
「(そのスケッチブックを捨てた人はあなたのお友達ですか? もしそうなら今からでも遅くない、諦めるなと説得してあげて下さい。きっとそう言われるの
待ってると思いますよ。私もあの時、彼女がこんな私でも支えて一緒に結婚したいなんて言ってくれたのに、苦労かけると思って断ってしまったこと後悔してる
んです。彼女はそんな私の情けない態度に嫌気がさして怒ってしまいました)」
なゆみはどこまでも悲しい話をするこの老人がお気の毒でたまらなくなった。
「(あの、この絵、貰っていいですか?)」
「(そんな絵でよかったらどうぞ。あなた、名前はなんていうんですか?)」
「ナユミ」
「(わたしはジェイカブです。お会いできてよかったです。それでは失礼します)」
なゆみは靄の中にすーっと消えていくように去っていくジェイカブをじっと見つめていた。そして、マリアとジェイクのことを思い出すと、いてもたってもい
られなくなった。
ジェイカブとジェイクの名前も半分被って、どちらも絵を描くという共通点がある。
ジェイクが年を取ったとき、ジェイカブのようにならないためにもどうしても救いたくなった。
マリアとジェイクが喧嘩したところを見てるだけに、仲直りさせなくてはと自分の使命のようにまで感じてしまう始末。
すぐに氷室のところに戻り、氷室の体を揺り動かした。
「氷室さん、起きて」
「ん? なんだ。俺、寝てたのか、すまない」
「それはいいの、あのスケッチブック早く持ち主に返さなければ」
なゆみの慌てた態度に、氷室はまた何か巻き込まれたのかとどきっとした。
「どうした? 何があったんだ?」
なゆみはさっき会ったジェイカブの話を聞かせ、マリアとジェイクのことを説明しだした。
自ら首を突っ込み問題を招き入れるのがなゆみらしいと、自分が側
に居れば大丈夫だという確信もあったので、氷室はなゆみの気が済むまでとことんそれに付き合うことにした。
「わかったよ。あのスケッチブック取りにホテルに戻ろう」
二人は車に乗り込む。
なゆみは暫くジェイカブが捨てた絵を広げてじっと見つめていた。
氷室はその隣で車を運転しつつ、また一生懸命のスイッチが入ってしまったと半ば諦め気味でなゆみを見守る。
この先どうなるのか正直分からなかった。
なるようになるとまだ氷室は軽く考えていたが、これがきっかけでここから二人の冒険が始まるのだった。
いや、試練といった方がいいのかもしれない。
ホテルに戻り、スケッチブックを手にして、なゆみはもう一度、中身を確認した。
「どうだ、何か見つける手がかりはあるか」
氷室が尋ねると、なゆみは難しい顔をした。
「ここに描かれている絵の場所を探して、マリアのスケッチを見せたら、知ってる人は見つけられるかもしれない。でも、これらの場所がどこにあるかわからな
い」
「どれ、見せてみろ。まず一枚目の絵だ。これは四つ角になった交差点らしき風景を斜めから捉えている。所々に看板の文字が判明できる。これの手前の一番大
きく書かれている建物を見てみろ。この部分なんかの店だ。
Albert(アルバート)、いや、待てよ、ライムらしきものが添えられたボトルの絵も一緒に描かれている。これはコロナビールの絵だ」
「コロナビール? 何それ?」
「メキシコのビールだ。ライムを入れて飲むんだよ。ということはこれはメキシカンレストランだぞ。するとアルベルトと読むのが正しい」
「アルベルト? あっ」
「どうした?」
「バーバラが以前、美味しいメキシカンの店を見つけたって言ってた。バーバラ、スペイン語話せるから、確かアルベルトって言ってたような気がする。そこの
コニーアサダっていうブリトーが美味しいんだって」
「すぐに、バーバラのところに行こう。これを見せたら場所がきっと分かる」
「でも、氷室さんすごい。すぐにヒントを見つけちゃった」
なゆみは思わず抱きついて喜んでしまうと氷室は照れて笑っていた。
「(ナユミ、やっと彼氏連れてきたか。早く私に紹介せんかい)」
家に着くなりバーバラは待ちきれなかったとなゆみに面白半分に叱ったフリをしていた。
氷室は改めて礼儀正しく自己紹介をすると、バーバラは陽気な笑顔で大歓迎した。
「(バーバラ、聞きたいことがあるんだけど、この場所どこか分かる?)」
バーバラにスケッチブックを見せると、すぐに知っているという顔になった。
「(これはすごい絵だね。誰が描いたんだい?)」
「(だから今、その持ち主を探しているの)」
氷室は地図を持ち出して、バーバラに場所を聞く。そこが分かると二人は飛び出すように玄関に向かった。
「(なゆみ、コトヤにお茶も出さずにもう行っちゃうのかい?)」
「(また後でゆっくりね)」
まるで推理ゲームを楽しんでいるかのようになゆみは興奮していた。
そしてアルベルトのレストランはバーバラのお陰で簡単に見つかった。
「ああ、ほんとだ。この絵と、全く同じ場所だ」
「きっとこの辺から見て描いたんだろう。それにしても正確に描けている。これはかなりの才能の持ち主だよ」
二人はアルベルトのレストランの中に入り、氷室が店員にマリアの絵を見せて見たことあるかと聞いた。
しかし場所はしっかり分かったものの、マリアとジェイクに関する情報は全く得られなかった。
ついでに他の絵も見せたが、何一つ分からないと首を横に振られた。
また振り出しに戻ったと、なゆみは先ほどの興奮もすっかり冷めて肩を落として店から出てきた。
「ここまでとんとん拍子だったから、つい上手く行くって勝手に思い込んでいた。なんかすごく残念」
「気を落とすなって。まだ他の絵もあるだろ。同じように見つければ必ず何かが分かるはずだ。それに探偵になったみたいで面白いじゃないか。俺がシャーロッ
クホームズだ。そしてお前が助手のワトソン」
「私、やっぱり男役ですか? それよりも、氷室さんがルパンで、私が峰不二子じゃだめですか?」
「それって、泥棒だろ」
「あっ、そうでした。でも何かを見つけるっていうのはなんか合ってるような」
「お前は峰不二子っていうキャラじゃないよな。イメージ的には、バカボン? ほっぺに渦巻き描いたらなんとなく……」
「ええー、嫌だ。そんなの。酷い」
「じゃあ、何を言えば満足だよ」
「せめて、キャンディと呼んで下さい。そしたら氷室さんのことテリーと呼ばさせて頂きます」
「なんだよ、それは」
「ちょっと古い漫画なんですけどね、昔友達に貸してもらって読んだことがあるんです。なんか氷室さんテリーに似たような感じだなって思ったから」
「おい、俺達一体何の話してるんだ?」
「あっ、そうでした。ごめんなさい」
「とりあえず、ホテルに戻って対策練り直すか」
「はい」
二人は見つけられなかったことで残念な気持ちを抱きながらも、ちょっとした冒険心を刺激されてきっと上手く探し出せると信じて止まなかった。
お互い顔を見合わせて、微笑んでそれを確認しあった。