第三章 フューチャー
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エリックは気を使っているのか、時折自分の体験を交えて氷室の機嫌を直そうとわざと面白おかしく自分と妻ベッキーの喧嘩のことを語っているが、顔には直
接出
してないとはいえ、それが余計に氷室には負担となる。
このとき抱いている気持ちが人の経験談を聞いたからといって、素直に変化を伴うほど受け入れられない。
そんなことがすぐにできるのならその場で自分で解決していると、氷室は聞いているフリだけをしてビールをごくりと飲み干した。
なゆみが奥の部屋からでてくるかもしれないと視線は時々そちらへ向くが、一向にそういう気配もなく、このまま意地の張り合いだと馬鹿げていながらも妥協
できない自分にも腹を立ててしまう。
ここにいれば何も解決できない。空になったビール瓶をテーブルに静かに置いて立ち上がった。
「(今日のところは疲れたので帰る。エリック、とにかくありがとう」
形ばかりの礼を述べると、氷室はドアに向かった。
もうそれ以上何も手助けできないとエリックは残念がって眉を顰めたが「(またあとで)」と氷室の肩を二度叩いた。
それが妙に氷室の肩を重くし、このまま帰ることが間違いだと言われているようだった。
それでも氷室は充分頭では理解していても、素直になれないためになゆみに会わずにホテルへと戻っていった。
氷室が帰るときバーバラがなゆみの部屋まで知らせに来たが、氷室が直接来なかったことでまだ怒っていると思い、なゆみも自ら氷室に会いに行けず、ずっと
部屋に
篭ることを選んだ。
バーバラは直接本人たちにうるさく言わなかったものの、「(意地っ張りだね)」と素直になれない二人に皮肉っぽく小さく呟いた。
いい雰囲気だったのにあっという間に壊れてしまい、このままでは別れという文字もちらついてしまう。
なゆみも氷室もその夜は眠れないまま、それぞれベッドの中でため息をついていた。
朝になり、なゆみは学校に行くためにバス停でバスを待っていた。
寝不足と氷室と喧嘩した心の不安はなゆみの体をボロボロに侵食していた。
前夜は夕食も碌にとらず、そして朝ご飯も元々食べない習慣なため、体の中にはエネルギーを出すようなものが残っていなかった。
体がふらふらして弱っているときに、心も同じような状態ではなゆみは立っているのがやっとだった。
少し肌寒く空は曇りどんよりとしている。
朝早いとは言え、バスを待つ乗客は数名おり、更に黒い革ジャンを着た男性がバス停に近寄ってきた。
なゆみがその男性を見た瞬間、はっとすると共に冷や汗がでて、前日の記憶がぱっと蘇る。
今頃になって自分がどういう立場だったのか改めて思い出す。
その男性は革ジャンの懐に手を突っ込み何かを取り出そうをするしぐさをしたとき、なゆみの胸がドキドキと怯えるように騒ぎ出した。
実際に触ってしまった本物の銃。それがまた出てくるのではと恐怖心が湧き起こり震えてしまった。
そんな状態のまま、バスは到着し、搭乗が始まる。
なゆみが乗り込んだとき、バスの中を見渡すとめまいがするほど中が歪んでみえてしまった。
なゆみの真後ろに黒い革ジャンの男が続いたとき、なゆみはパニックになり呼吸困難に陥る。
お金を機械に通そうとするが、手が震え上手く行かない、黒い革ジャンの男が遅いと「チェッ」と舌打ちしてイライラしている様子がなゆみの背中から伝わ
る。
そして後ろを振り返ってしまい、そのとき前日に見た男の顔とダブって見え、なゆみは極度の緊張に襲われて、それが体の限界だったように、すーっと谷底へ
落ちるように意識がなくなってしまった。
それと同時にドンと何かが落ちるようになゆみは床に転がってしまった、乗客たちはその光景に騒然とした。
その朝、氷室もまた悶々と落ち着かない。
起きて目についたのが、ベッドの隣に置いてあったジェイクに描いてもらった絵だった。
その絵の中では二人は最高に幸せの笑顔でお互いのことを思って笑っている。
その絵をじっと見つめながら氷室は絵の中の自分に嫉妬する。
絵の中のもう一人の自分なら、こんなにも強情をはらずに常にどうすればお互い笑っていられるかその答えを知っているように思えたからだった。
それなのに現実の自分は意地を張ることを選んでしまい、なゆみを泣かせたまま置き去りにしてきてしまった。
心配のあまりなゆみに怒鳴ってしまったことを充分後悔しつつも、なゆみが危険な目に遭いながらそれを自分に隠し通そうとし
たことがどうしても腹立たしい。
それがいつものなゆみの悪い癖であり、人に迷惑をかけないようにと極限になるまで我慢を決め込むその態度は、度が過ぎるとなゆみが壊れてしまうことを氷
室は良く知っている。
馬鹿なことをするなと口を酸っぱくして言っているが、なゆみも充分それが分かっている。
しかし、巻き込まれやすい体質はどうにもならずに、今回これほどの危険に巻き込まれてしまったことに氷室は心配のあまり気が狂いそうになっていた。
だからこそそれを隠されて、平然と装っているなゆみを見ると無性に腹が立って仕方がなかった。
「あいつは俺が知らなければそれでいいと思いやがって」
氷室はまだイライラしてしまう。
ベッドの淵に座り、暫くあの絵をじっと見つめていた。
絵の中のなゆみの笑顔。
初めて会ったときも常に笑っていたことを思い出す。どんなときもくじけず立ち向かい、負けまいと常に笑顔を作っては自分で解決しようと努力する姿勢。
それを考えるとなゆみの気持ちも分からなくもなかった。
ここまで追い詰めてしまったのは自分にも責任があるのではと、なゆみが隠そうとしたその気持ちもこの頃になって少し考えてみる。
「俺も意地張ってる場合じゃないか。もうすぐまた離れ離れになる。なゆみに謝らないとな。このままではマリアと喧嘩した後のジェイクと同じじゃないか。あ
れだけジェイクの前ではえらっそうに言っておきながら結局人のこと言えた義理じゃないな。くそー」
まだ授業が開始される前になゆみに会わなければと、氷室は勢いでベッドから立ち上がり身支度を済ませるとすぐに学校に向かった。
学校では、一時間目の授業が始まるまで、生徒達が教室の外や中庭に溢れていた。
なゆみを探そうと辺りを歩き、教室まで氷室は覗いたが、姿が見当たらない。
まだ来ていないのかと、キョロキョロしていたとき、聡子が氷室の前に現れた。
「あの、氷室さんでしたよね」
「ああ、聡子さん。ちょうどよかった、なゆみ見ませんでした?」
「えっ? 氷室さんもなゆみを探してるんですか? あの、今ね、他の生徒から聞いたんですけど、朝、バスでアジア人の生徒が倒れて救急車で運ばれたんで
す。
話をしてた生徒はそのバスにたまたま乗っていて見てたらしいんですけど、そ
れが髪の短い女の子だったって。しかもなゆみがいつも乗っているバスなんですよ。まだなゆみの姿も見てないし、もしかしてまさかそれがなゆみだったらと思
うと心配で」
氷室の顔から血の気が引いた。目を見開き手が震え、心臓が危険を伝えるくらいに激しく脈打っている。唾をごくりと飲んで、聡子の顔を見つめていた。
聡子は何かの間違いであって欲しいと思いつつ、氷室の反応を慎重深く見ていた。
「どこの病院に運ばれたんですか」
震える声で氷室は問いかける。
「いえ、そこまではわかりません」
氷室は聡子からなゆみが乗っていたバスの路線番号を聞くと、すぐさまそこを後にした。
なゆみの持ち物を調べて、バーバラの自宅に連絡が入ってるかもしれない。
氷室はとにかくまずバーバラの家を目指した。
「(コトヤ、どうしたんだ。なんか顔色悪い)」
バーバラが玄関で対応する。氷室は一部始終を話し、連絡がなかったか聞くが、バーバラは首を横に振る。
「(バス会社に問い合わせたい。どうすればいいんだ。どこに電話をすればいい?)」
「(落ち着きなさい。それがなゆみとも限らないし、もしそうだとしても病院に運ばれたのなら大丈夫に決まってる)」
バーバラは取り乱す氷室の腕を押さえつけていた。
部屋の奥からエリックとオスカーも出てくると、異様な雰囲気に顔を顰めていた。
「(ムロ、どうしたの?)」
オスカーが氷室の側に寄って足元に抱きついた。
氷室はオスカーの顔をみて無理に笑いを作ると、それで少し落ち着きを取り戻す。
エリックも事情を知ると、力になろうと電話帳を引っ張りだし、片っ端から病院に電話をし出した。
バスで倒れた日本人の女の子が運び込まれてないかと訊いて数件電話した後に、その病院が判明した。身元の確認が取れたことで病院側も喜んでいる様子だっ
た。
エリックは電話を切って氷室に伝える。
「(コトヤ、見つかった。今はまだ意識が戻ってないそうだが、心配するな命には別状ないらしい)」
氷室は場所と行き方を聞くとすぐに病院に向かった。
大丈夫だといわれても異国の土地であり、自分の目で確認するまでは落ち着くことができない。
自分が前夜怒鳴らなければこんなことにならなかったと思えば思うほど、後悔の念が次から次へと湧き出てくる。
「なゆみ、すまない」
そう何度も呟きながら、車を走らせていた。
病院に着くなり、受付で事情を話してなゆみの居所を聞くと、足がもつれそうになるくらい慌ててそこに向かう。
病室の番号を確かめ、カーテンで遮っているだけの入り口を恐る恐る覗き込むとベッドの端が見えた。
中に入り奥を確認すればそこには本当になゆみが寝ていた。側では看護師が点滴の用意をしているところだった。
「(家族の方ですか?)」
看護師に問いかけられ、言葉もでないまま首をとにかく縦に二回振った。
「(なゆみは、彼女は大丈夫なんでしょうか?)」
「(気を失ってるだけですが、何かストレスを強く感じて呼吸に乱れがありました。貧血気味でもあり、免疫も低下して弱ってますが、命には別状ないです。気
がつけば自宅にすぐに帰れます。あとは家で安静にして、栄養をつければ回復するでしょう)」
「(ありがとうございます)」
「(それでは受付で、早速書類の手続きして貰えませんか。案内します。こちらです)」
氷室はなゆみから離れたくなかったが、看護師に言われて渋々とついていった。
なれない上に英語での書類は氷室も一苦労した。まどろっこしくなかなかスムーズに行かず、説明を受けながら半時間ほど掛かってしまった。
そして氷室が再び病室に戻ってきたとき、なゆみは目を覚ましていた。
「なゆみ!」
「あっ、氷室さん…… 私どうしたの?」
氷室は意識を取り戻したなゆみにとりあえずは安堵したが、青白い顔をして弱弱しくベッドで寝ているなゆみの姿は痛々しい。
完全に不安が払拭されないまま恐る恐る
近づき、なゆみの頬を大きな手でそっと触れてみたが、まだ頬が冷たいことに氷室の瞳が憂愁に閉ざされた。
「なゆみ、怒ってすまなかった。こんなになったのは俺のせいだ」
「ううん、氷室さんのせいじゃないです。私が悪いんです」
なゆみは自分の頬を包み込む氷室の手に触れ、氷室の瞳があまりにも物悲しく、そんな思いをさせてしまったことに悲泣してしまう。
氷室の瞳もじわりと涙の膜がはり水面のようになっていた。
もう喧嘩はしたくない。
口に出さなくともお互いそう思っていた。