第三章
2
なゆみが家に戻ってもいいと許可がでたのは、日が暮れかける夕方になってからだった。
ゆっくりと氷室に労われながら病室を後にする。
氷室にしっかりと握られた手は、離すまいという気持ちと自分がずっと守るんだという力強さが感じられるようだった。
そして氷室のぬくもりもしっかりと伝わる。
なゆみもまた頼るように氷室に寄り添った。
言葉なくとも、触れ合っているだけで安らいでいたが、実際のところ心の中の気持ちを言葉にできないほど気持ちが大量に溢れ返り、胸が一杯で何も言えな
かった。
病院の外に出ると、空の色が目に見えるようにどんどん薄暗くなっていく中、星が顔を出し始めていた。
なゆみが空を見上げると氷室もそれに合わせるように空を見つめる。
まだ薄明かりがあるために星ははっきりとは見えなかったが、それでも常にそこで輝いて夜になるのを待っているようだった。
「星、でてきましたね」
「ああ、そうだな」
まだ喧嘩した話題に触れられなかったが、このときはそれが精一杯の交わした二人の会話だった。
お互い見つめあうと、改めて恥ずかしくはにかんだ笑顔になり、どちらも口には出さなかったもののまた元に戻れて嬉しく、喧嘩はもうしないと誓っているよ
うだった。
そして車に乗り込み、すでに暗くなってはっきりと現れた星々が輝く星空の下、二人はなゆみの滞在している家に戻っていった。
家に戻れば、バーバラ達が安堵の表情を見せ、なゆみが無事だったことを喜んだ。
大騒ぎになってしまったことをなゆみは申し訳なく思ったが、ベッキーとエリックがお互い様という言葉を発したお陰で救われた。
なゆみは帰るなり自分のベッドに横たわり、そしてすることもなくぼーっと天井を見ていた。体の調子はそんなに悪くはなく、全く動けない程でもない。
だが、起き上がって動き回れば氷室が心配する。これ以上の心配はかけたくないとそれだけで大人しく寝ていた。
ドアがノックされなゆみが入ってもいいと許可を出したとき、氷室が優しい笑顔を覗かせた。
手にはトレイを持ち、湯気が出たスープボールがのっている。
「なんか食べた方がいいと思って、バーバラに台所借りてスープ作ってきた。雑炊みたいなもんだ。これなら食えるだろ」
「氷室さん、ごめんなさい」
「何も気にするな」
なゆみはベッドから体を起こし、氷室からトレイごとスープを受け取る。
ふーふと冷ましながら、口に入れ「美味しい」と伝えると氷室はいつものようになゆみの頭に手を置いた。
ベッドの端に腰掛けて、氷室はふーっと息をつく。
「なんか、俺達試されてるんだろうな。どこまで二人で乗り越えられるか、そしてこの先暫く会えなくても大丈夫なように絆を強くしてるんだよ。だからありえ
ないことが次々起こる」
「でも、私疫病神だったりして。なんかいつも氷室さんを振り回してません?」
「そんな訳ないだろ。お前はエンジェルなんだ。自分でもジェイクにそう言ってたじゃないか」
「あっ、あれは言葉のあやです。なんかあのとき思いついたままになんでも口から飛び出してしまいました」
「いや、案外当たってるぞ。お前はいつも人を救おうとするからな。お前の使命だから次々に何かがふりかかる。俺もそう考えることにした。だから何が起こっ
てももう俺に隠すな。わかったな」
「はい。これからは逐一報告します」
「ほら、冷める前に食え」
なゆみは形が不ぞろいに切られた野菜を見て、そしてそれをスプーンですくう。氷室が料理をしている姿を思い浮かべ、あの大きな手で切られた野菜だと思う
と、なんだか胸がきゅんとしてしまった。
「どうした、ニンジン嫌いなのか」
「いえ、野菜に萌えを感じてしまって……」
なゆみはそれを口に入れると「あん」とわざと悶えた声を出した。
「おい、俺が次萌えちまうだろうが」
なゆみが調子に乗ってスプーンを口にする度エロい声を出すので、氷室は自分が作ったスープを「アダルトスープ」と命名してやった。
「おい、なんだか俺もたまらなくなってきたじゃないか。そのスプーンよこせ」
なゆみからスプーンを取り上げ、氷室はスープをすくうとなゆみの口に入れた。なゆみはサービスのように喘ぎ声を出していた。
「ほら、これはどうだ。これでどうだ」
氷室も怒鳴ってしまったことを償うかのように調子にのりまくり、暫くそのやり取りは続く。
ちょうどドアの外を通りかかったバーバラの耳に入ると、首を横に振りながら呆れていた。
次の日、週末の金曜日、折角だから学校を休めとバーバラに言われたが、なゆみは二日もすでに学校を休んでしまい、これ以上休むのは気が引けた。
体の調子は悪くない。ただバスに乗るのは多少怖い気もしたが、バスに乗らなければこの先学校にもいけない。
得意の前向き精神で、無理をしてでもバスに乗り込む。
乗ってしまえばなんとかなるもんだと、できるだけ事件のことを考えないようにバスドライバーの後ろの横がけの椅子に座っていた。
すると後ろの方から移動してわざわざなゆみの隣に座った男性が声を掛けてきた。
見れば、初めて会った気もしないではなかった。見た目はかっこよく、一般の中では目立つ顔立ちだった。
さらりとした金髪をさっと掻き揚げ青い瞳をなゆみに向け、白い歯を見せて爽
やかに笑っている。
「(君、名前は?)」
いきなり名前を聞かれても、なゆみは唖然として答えられないでいた。
「(ごめん、怪しいものじゃないんだ。この間、君と一緒にあのバスジャックされたバスに乗っていたんだ。君のお陰で助かったから、つい名前が知りたくて。
あの時はありがと
う。君はヒーローだよ)」
「えっ?」
あの時のバスに一緒に乗り合わせていたと言われても、あまり思い出したくない。なゆみがしどろもどろになっていると、男性は優しく微笑む。
「(ごめん、益々驚かせてしまったようだね。僕はスコット。君の名前教えてもらえるかな?)」
なゆみはじっと見つめられては何も答えないわけにはいかないと「ナユミ」と小さく自分の名前を呟いてしまった。
「(なゆみだね。よかったら今から僕と付き合わない? この間のお礼をしたいな)」
「(別に、結構です。気にしないで下さい。あれはただの偶然で。私それに学校がありますので)」
迷惑だとなゆみなりに意思表示したつもりだった。
スコットももちろんそれは心得ている。見知らぬ自分が誘えば拒絶されるくらいちゃんと計算に入れていた。
だからここで直球を投げる。それはあまりも無謀といってもいい言葉だった。
「(単刀直入に言うよ、あの勇気ある行動を見て、実は僕、君に惚れちゃった。一目ぼれだよ。またこうやって会えるなんて思わなかった。だからこのチャンス
を逃したくな
い。まさに運命だよ)」
「(いや、その、困ります。私、好きな人いますし……)」
「(その手は食わないよ。断るためのよくある言い回しだ)」
なゆみはもうこれ以上巻き込まれるのはごめんだと、首を横にプイと向け無視を決め込む。
スコットは少しがっかりとした表情をしながらなゆみの様子を伺っていた。
暫くするとスコットは急にお腹を押さえだし、苦しそうに呻き声をあげた。
あまりにもそれがタイミングよすぎて、気を引くためにわざとしているものだと最初は無視していたが、スコットの息が荒くなり、苦しんでいるその様はまん
ざら嘘でもなさそうでなゆみには無視できないレベルになってきた。
「(あの、大丈夫ですか)」
「(ああ、大丈夫だ。急にこの辺りに強い痛みを感じて。実はさっきからちょっと痛かったんだ)」
右の腹部を押さえぐっと前屈みになり、顔を歪める。
「(まさか盲腸ってことは)」
場所が場所だけに急性盲腸炎を想像してなゆみは心配になりだした。
「(僕、次でバスを降りるよ)」
「(一人で大丈夫ですか?)」
「(ああ、大丈…… 夫……)」
顔を歪め、相当な痛みを抱えているスコットを見ていると、なゆみは放って置けなくなった。
「(あの、お手伝いしましょうか)」
「(すまないが、タクシーを拾うのを手伝ってくれたら嬉しい)」
「(は、はい)」
なゆみはすっかりスコットのペースにはまってしまい、次の停留所で一緒にバスを降りてしまった。
病人を抱えてどうしようと焦る中、スコットに肩を貸して寄り添ってタクシーを捜し歩き回る。
歩く度にスコットが苦しそうに喘ぐ。
ドラマなどではすぐにタクシーが見つかるが、そんな簡単に上手い具合に目の前に現れることがなかった。
「(スコット、救急車呼んだ方がいいかも)」
「(いや、救急車は高い)」
そういえば、なゆみも病院を出るとき、救急車の使用料を払うと知らされて驚いた。救急車は乗ったものがお金を払う。きっちりと保険に入ってたので病院に
運ばれても支払いはある程度カバーされるが、アメリカでは気軽に救急車
は呼べない。
「(スコット、ちょっと待ってて)」
店の前にあった花壇の植え込みのようなブロックの端に座らせて、なゆみはその店に入った。そこでタクシーを呼ぶのを手伝ってもらうことにした。
その間もスコットは体を丸めてお腹を押さえている。その様子を店の中からガラス窓を通じで見ながら、店の店員に事情を話してタクシーを電話で呼んでも
らった。
そしてすぐにまたスコットのところに戻って、大丈夫だと安心させ励まそうとする。
「(今、お店の人にここまでタクシーを呼んで貰いました。すぐ来ますから、あともう少し頑張って下さい)」
「(なゆみはやっぱりすごいな。見ず知らずの僕にこんなに親切にしてくれるなんて。やっぱり見込んだことだけはある。あの時バスの中でも乗り合わせた僕
に”ハーイ”って挨拶してくれたのも嬉しかったんだ)」
それを聞いて、そう言えばあのバスに乗り込んだ時挨拶をしたと、自分から声を掛けたことをなゆみは思い出した。確かにスコットはあのバスに一緒に乗って
いた。
タクシーがやってきたとき、スコットはまたお願いをする。
「(すまないが、一緒に来てもらえないだろうか。気を失いそうなくらい痛くなってきた)」
なゆみは迷ったが、人を助けたい純粋な気持ちもありここまできたら病院行っても同じだと思うと、一緒についていくことにした。やはりなゆみはまだまだ甘
かった。
タクシーに乗り込み、スコットは場所を告げる。なゆみの耳には”なんたらカンパニー”と会社の名前のように聞こえた。そういう名前の病院なんだろうかと
思いながら、タクシーに大
人しく乗っていると着いた先はダウンタウンにある大きなビルの前だった。
スコットはお金を払い、そして普通に降りる。なゆみもそれに続いて降りたが、急に腕を掴まれて目の前のビルの中に引っ張られて連れ込まれてしまった。
「(スコット、病院じゃなかったの? それにお腹痛くないの?)」
さっきまで苦しく喘いでいたのに、今では背筋を伸ばして堂々としている。そしてビルの中では会う人必ず挨拶をして、スコットは威厳を持ってそれに答えて
いた。
あっけに取られて抵抗する暇もなくエレベーターの中に引っ張り込まれ、なゆみは訳が分からずスコットを責め立てた。
「(一体どうなってるの?)」
「(ごめん。こうでもしないと君は僕に付き合ってくれなかっただろ)」
「(えっ、それじゃお腹が痛いのは嘘だったの?)」
スコットはにっこりとして頷いた。そしてエレベーターが止まり、また腕を握られてなゆみは引っ張られる。
「(ちょっと待ってよ、これって誘拐じゃない。私、帰る)」
「(違うよ、君が勝手に判断してついてきたんだろ。心配するな、危害を加えるようなことはしない。それに君は僕を好きになるよ。まずは自分の目でここがど
こなのか確かめて欲しい)」
引っ張っていたなゆみの腕から手を離し、真っ白い歯を見せてにこっとスコットは優しく穏やかに笑う。
背筋を伸ばし、キリリとした立ち振る舞い、そして廊下をすれ違う人がスコットに敬うように礼儀を見せている。
威厳溢れるその姿に誠実な部分が映り、なゆみの危機感が薄れていく。
悪い人じゃない。
なゆみはついそう思ってしまい、言われるようにここがどこなのか確かめたい気持ちもあり、案内されるままに廊下を迷いながらも歩いてしまった。
その先にあるドアを開いたとき、目の前に街が一望できる景色がガラス張りの窓から広がる。
眺めの良さは別世界に来たように圧倒させられた。
「(ここはどこ?)」
「(父の会社さ。厳密に言えば、将来は僕の会社になるけどね。今は副社長さ)」
「えっ?」
「(どうだい、僕のこと気に入っただろ。君はそんな僕に見初められたんだよ)」
「(そんな話信じられない。それにどうしてそんな人がバスに乗ってるの。普通、運転手つきの車に乗ってるんじゃないの?)」
「(僕は、一般の情報を掴むために、民間の交通手段を使うのさ。何が流行ってるか知るためにいつも周りを見ている。そして僕は君に出会った。やはり運命
だったと思ったよ)」
「(ちょっと待って。一方的に言われても困る。私やっぱり帰る!)」
とんでもないことになってしまった。
気づいたときは手遅れと心の中で苦い味を存分に味わい、ころっと雰囲気に飲まれて騙されてしまった自分が大バカとマジックで顔に書かれたくらいになゆみ
は
辛酸を舐めたような顔をしていた。
しかしまだ大事になる前に逃げられるとばかりに、なゆみは一目散にドアをめがけて走った。
「(なゆみ、どこへ行くんだ)」
スコットが引きとめようとしたとき、ドアが突然勝手に開いて誰かが中に入って来た。
なゆみはその人物を見て目が見開いた。