Temporary Love2

第三章


 氷室は何も考えられず放心状態でソファーに座り込んだまま一夜を過ごす。そして気がつけば朝になっていた。
 髭がうっすらと生え、目の下にクマまで作りげっそりとやつれては、どんよりとした眼で窓から差し込む朝の光を静かに見つめていた。
 なゆみも夜が明けるとぬぼっとした表情で寝室から出てきた。
 元気なくソファーに座り込んでいる氷室が一夜にして老け込んだように見え、朝から悲しくなってくる。
「氷室さん、帰りましょうか」
「そうだな」
 どちらも疲れきっている様子を隠すことなく、同時にため息をついていた。

 氷室がフロントに電話をいれ、ロドニーの名前を出して事情を話すと話はすぐに通じ、暫くしてからノックの音が部屋に響いた。
 氷室がドアを開ければ、バートランが背筋を伸ばしてプロフェッショナルに微笑んで立っていた。
「(氷室様、おはようございます。昨晩は良く寝られましたか)」
 氷室は一瞬にして襲われたことが鮮明に蘇り、「あー」と叫ぶと後ずさりしてつい逃げ腰になってしまう。
 それでもバートランは礼儀を忘れず、課せられた使命のごとく自分の役目をしっかりと果たそうと、何事もなかったように氷室に接していた。
 バートランは二人を空港まで案内するも、きびきびとした動作でぬかりはなかった。何事もなかったように氷室に接するのは仕事と割り切っているのだろう か。
 そのところはさすが訓練されたプロだと氷室はつい感心してしまうが、空港について車から降りたその時、その油断した一瞬、バートランに怪しく見つめられ てしまった。
 しっかりとお互いの目がばちっと合ってしまい、その時バートランに色目を使ったウインクを返され氷室の背筋はインスタントに凍った。
 思わずなゆみに寄りかかり震えてしまう。
 なゆみもその光景を目の当たりにして、二人が絡んでいたシーンをまた思い出しては、じわっと涙が目に溜まっていった。
 あと少しの辛抱だと、二人はひたすら我慢していた。

 ロドニーが予め用意していた自家用飛行機に案内されると、二人はそそくさと飛行機めがけて小走りになった。
「(氷室様、どうかお元気で。あなたのことは忘れません)」
 バートランが後ろで叫びながら必死に手を振っている。
「もう忘れてくれ〜」
 氷室は嘆きながら逃げるように飛行機に乗り込む。
 なゆみも「あーん」と嘆いていた。
 離陸したときはやっと悪夢から解放されるとばかり、別れを告げるようにラスベガスの町を見下ろす。
 暫しの空の旅。二人は沈黙していた。
 しかし元はと言えば自分が引き起こしたことだと、なゆみは反省して氷室に話しかける。
「氷室さん、本当にごめんなさい。私が悪いんです」
「いや、もう忘れよう。俺達はラスベガスに行かなかった。それでいいだろ」
「はい。夢を見ただけですよね。悪夢と言う嫌な夢を」
「しかし、ドレスとスーツ持ってきちまったな。これ捨てようか」
「あっ、それならマリアとジェイカブにあげましょう」
「そうだな。あっ、そうだ、マリアとジェイカブで思い出した」
 氷室はズボンのポケットからエンジェルのネックレスを取り出し、なゆみの目の前に垂らした。
「それは……」 
「ああ、なゆみにと思って買ってきた」
 氷室はなゆみの首にかけてやる。
「ありがとう、氷室さん。ちゃんと私達のイニシャルが入ってるんだ」
「これでこのエンジェルがなゆみを守ってくれる」
「うん」
 なゆみが嬉しそうに瞳を輝かせながら氷室を見つめると、氷室はそっと顔を近づけた。
 二人は広大な景色を見下ろしながら空の上のキスを楽しんだ。
 窓から差し込んだ太陽の光がなゆみの胸元のエンジェルのハートを照らし、透き通ったように赤く輝くと、あたかも二人の愛がその中に入り込んだようだっ た。
 空港に着き、タラップから降りると、社長のロドニーがじきじきに出迎えてくれた。気を使って話をしてきたが、氷室もなゆみも愛想程度にしか答えられず、 ロドニーも二人があまり楽しんでいない様子に残念な表情を滲ませた。
 ロドニーに付き添われ、空港の外に出ると氷室のレンタカーがそこで待っていた。わざわざここまで運んできてくれていた。ロドニーの秘書らしき人からなゆ みの鞄もそこで手渡された。
「(もし、この先何か困ったことがあれば、遠慮なく頼って欲しい。いつでも君達の力になりたい)」
 ロドニーからビジネスカードを渡される。
「(もう関わらない方がお互いのためかもしれません)」
 なゆみはそう言っても、ロドニーはそういう訳にはいかないと二人に握手を求めていた。彼には訴えられるという弱みがあり、それはどうしても避けたかっ た。
 ロドニーの誠意を理解しようとなゆみと氷室は折れて笑顔を見せていた。
 二人は車に乗り込み、空港を後にする。最後までロドニーはその場で見送り誠意を見せ続けていた。

「やっと終わったな」
 氷室は車を走らせながらため息を吐くように呟く。
「氷室さん、私、家に戻って着替えたいです」
 なゆみは氷室から貰ったネックレスに触れながら、やっとこれで元に戻れると笑顔を見せた。
「分かった」
「氷室さんもかなり疲れてますよね。今日はホテルでゆっくり休んで下さい」
「それじゃお前も一緒にだ。今日こそは俺はお前を抱きたい」
 氷室には迷いも遠慮も恥ずかしさもなく、ひたすら本能がむき出しになり意気込んだ力強さが声に現れていた。
 露骨に言われて、なゆみはドキッとしたものの、少しはにかんで首を一回縦に振った。
 なんとなくこれで雨降って地固まるような気分になった。
 氷室は運転しながら、右手を差し出してなゆみの手を握った。
 なゆみも、もう何も心配することはないと氷室の手を強く握り返していた。
 そしてバーバラの家に戻れば、オスカーが氷室を見つけ無我夢中で走り寄って来た。
「ムロ、ムロ」
「(どうしたオスカー?)」
 オスカーは氷室に甘えていた。抱っこされると自分の手を氷室の首に回して強く抱きつく。
 エリックが困った顔をしながらやってきて事情を話す。
「(明日、帰ることになったんだ。それでそれをオスカーに伝えたら、コトヤと離れたくないって。よほどコトヤのこと気に入ったみたいだよ)」
「(オスカー、そうか。ありがとうな。俺も寂しいよ)」
「ムロ、ムロ。プレイ ウィズ ミー」
「OK」
 簡単に遊ぶと承諾したが、結局切り上げるタイミングを逃し夜まで過ごすこととなってしまった。あんなに意気込んでいたのに、なゆみを抱くと言う話はいつ の間にか流れていた。
 氷室はまたチャンスを逃し、オスカーと遊びながら隠れて嘆いていた。
 その晩、バーバラがご馳走を作り、気がつけば皆でホームパーティのように団欒する羽目になった。
 そしてテレビからニュースが流れ、エリックが唸りながら呟く。
「(ちょっとこのニュースすごい。昨日ラスベガスのルーレットで巨額な金を稼いだのに、なんとそれを辞退した男がいたんだって。勿体無い)」
 飲み物を飲んでいた氷室は、それを聞いてブーっと軽く吹いてしまった。
(わざわざそんなことニュースにするなよ)
 またラスベガスの嫌な思い出が蘇ってしまった。
「(その人いくら稼いだんだ)」
 バーバラが興味深く聞く。
「テンミリオンダラーズ」とエリックが言うとそこに居たバーバラもベッキーもアンも声を合わせて「テンミリオンダラーズ!?」と同時に繰り返していた。
 なゆみはいくらか想像もつかず、氷室にぼそりと聞く。
「氷室さん、10ミリオンダラーズって日本円にしていくらですか?」
「えっ、そ、そうだな。大雑把に換算したら10億円くらいってとこか」
「ええっ! そんなに稼いだの? それを辞退したなんて。なんて、なんて、馬鹿なの!」
 なゆみの言葉に氷室は面食らう。
「でもさ、なんか嫌なことがあったんじゃないのか?」
「そんな、10億円ですよ。どんなことがあっても私なら受け取る」
「おいっ……」
 氷室は爆発して遠くに吹き飛ばされた気になった。
「(ほんと勿体ないわね。それだけあったら一生楽できるのに。こんな弱気の男、私なら嫌だな)」
 レベッカがアビーを抱きながら「(ねぇ〜)」と物語を語るようにあやしている。
「(もしこの男の妻だったら、私なら愛想尽かす)」
 バーバラまであきれ返る。
「(馬鹿よね)」
 アンは一言で片付けた。
 氷室は部屋の隅で一人生気を失って、じめっといじけながら立ち竦んでいた。
「(でも、よく考えたらお金で幸せは買えません。辞退したのはそういうことを知っていた人なんじゃないですか。なんか勿体無いけど、私はそこに潔い男らし さ感じます。 私ならそういう人と結婚したいかも。なーんて。へへへ)」
 なゆみがおどけながら言うと、みんなは和んで部屋に笑い声が広がった。
「なゆみ」
 氷室はじーんとして、なゆみを後ろから抱きしめた。
「どうしたんですか、氷室さん」
「なあ、なゆみ、もしそれが俺だったらどうする」
「ん? いやーそれはありえないですよ。氷室さんはこんなに勝てません。どうせ昨日負けたからちょっと羨ましいんでしょ」
「えっ、そ、そうだな」
 氷室は苦笑いになっていた。
(それ、ほんとに俺だよ、俺! 俺なんだよ!)
 氷室は信じてもらえないことにすっきりしなかったが、それでも結果的にはこれでよかったと一人笑みを浮かべていた。
「なゆみ、今晩俺のところに来い」
 後ろから抱いたまま甘く耳元で囁く。
 なゆみは頬を淡く桜色にしながら、氷室に振り向いた。
「それが、先にオスカーと一緒に寝る約束しちゃいました」
「おいっ、オスカーと寝るのかよ。なんでだよ」
「だって、最後の夜だからって、オスカーが私と一緒に寝たいって言うんだもん。あんなかわいい顔して誘われたら断れません」
「おい、俺はどうなるんだよ。俺もお前と一緒に寝たいのに。オスカー、俺の女取りやがって」
 氷室はオスカーを突然追い掛け回した。オスカーは遊んでくれてると思い嬉しそうにキャッキャッと走り回る。
 しかし氷室には半分本気が混じっているのか、追いかける目が怖かった。そして勢い余って壁に突進してぶつかってしまった。
「痛ー」
 皆はそれを見て笑っていたが、どこまでもタイミングが悪く、氷室はついてないと涙目になっていた。
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