第三章
8
次の日の日曜日、朝からエリック達が帰る準備でバタバタと騒がしく家の中はあたふためいている。
なゆみもそれに手伝わされるようにベッキーが荷物を整理している間、腕の中にアビーを抱いていた。
すやすやと眠る姿はかわいらしいが、まだ生まれて間もない小さなその存在に非常に重みを感じる。首もぐらぐらとして今にも壊れそうだと思うと抱いている
のが怖く、気を遣い
すぎて腕に知らずと力が入り攣りそうだった。
いつか自分も子供を産むときがくるのだろうかと、自分が産んだときを想像しながら、ぎこちないながらも腕を軽く揺らして母親のフリをしてみた。
そこに氷室もオスカー達と最後のお別れにと朝からやって来て、赤ちゃんを抱きながらなゆみはドアを開け氷室を家の中に入れた。
「おっ、アビーのお守りを任されたのか」
「そうなの。でも生まれて間もない赤ちゃんだけになんだか不安」
氷室は挨拶のつもりで軽くアビーの頬をつつく。アビーはそれに刺激されていきなり泣き出してしまった。
「もう、氷室さん、余計なことしないで下さい」
なゆみは慌てて体を揺らしてアビーの機嫌取りをする。
「すまない。おーい、アビー、泣いちゃだめだ。ほらほら」
氷室も何とかしようと近くにあった玩具を手に取り必死にあやす。しかし一度泣き出したアビーは中々泣き止まなかった。
なゆみも氷室も焦り、二人して慌てまくっていた。
「もしかしたら腹すかしてるんじゃないか。それかオムツが汚れて気持ち悪いとか」
自分が泣かしたと思いたくない氷室は適当に理由をつける。
「それ、どっちもさっき済ませました。オスカーの時も思いましたけど、子供育てるって本当に大変ですね」
「大丈夫、大丈夫、俺達の子供ならなんとか育てられるさ」
氷室はさらりといいながら、アビーをあやしていた。
なゆみはそんな氷室の顔をじっと見つめて、いつかこういう生活をしている未来の姿を頭に描いていた。
ふと肩の力が抜けて笑顔になると、自然と落ち着いてアビーを自分の体により一層密着させ優しく抱いた。
するとアビーは安心したかのように泣くのを止め、またすやすやと眠りについた。
なんとなくだが、なゆみは母になる気持ちが分かったような気になった。
氷室となゆみは泣き止んだアビーの顔を覗き込むようにみては、二人で微笑みあった。
氷室はその後、オスカーの相手をして帰る直前まで遊んでやった。
そして準備が整い、空港行きのシャトルバスが来ると別れが辛くなる。
氷室はオスカーを抱き上げ、もし今度会うときがあればこの子はどれだけでかく成長しているのだろうと、じっと見つめていた。
「オスカー、Be a man!(しっかりした男になれよ)」
「ムロ、シー ユー アゲイン」
エリックとベッキーもなゆみと氷室にハグをして、そしてシャトルバスに乗り込み去っていった。
バーバラが寂しそうな目をして最後まで手を振って見送っている。
彼らが去ってしまうと一度に静けさがやってきて、燃え尽きたような寂寥感がどっと押し寄せたようだった。
「(あんたらには世話になったね。色々とありがとうね)」
バーバラがなゆみたちに礼をいう。
「(ううん、すごく楽しかったよ)」
なゆみの言葉に同意するように氷室も頷いて笑みを返していた。
「(さあ、掃除でもしてくるよ)」
バーバラは気合を入れながら腕まくりをして家の中に入っていった。
「明後日は俺の番だな」
氷室が寂しげな目つきでなゆみを見る。
「氷室さんが帰っちゃうなんて嫌だな」
「おいおい、お前と一緒にここで留学なんてできっこないだろう。それに俺は帰って仕事見つけなきゃ。今度こそ自分のやりたいことができるように頑張るよ」
「私もここで負けないように頑張る」
「うーん、お前の場合、あまり力入れるな。またなんか変なの招きいれそうだ」
「えっ、そんな。だけど、これつけてますから、きっと守ってくれます」
なゆみはエンジェルのネックレスに愛しく触れる。
「俺も、あのキティちゃんに守ってもらおう」
「あれ? あれは人質じゃなかったんですか?」
「俺とお前を繋ぐ絆に昇格だ。だからお前は絶対俺のところに戻ってくるだろ」
「もちろん。だから氷室さん浮気なんてしないで下さいね。例え相手が男でも嫌ですから」
「当たり前だ! 俺も男なんか嫌だ。あーまた思い出してしまった」
バートランに襲われてよほど怖かったのか、氷室は頭を掻き毟っていた。
なゆみはくすっと笑いながら、氷室を見つめると心に思ったことが口から出る。
「氷室さん、今から私を抱いて下さい」
笑顔を見せてさらりとなゆみは声に出していた。
氷室の手元が止まり、目をぱちくりしてなゆみの言葉に意表をつかれた。
そして優しい瞳でなゆみを見つめ、ぎゅっと腕の中に包み込んだ。
「ああ、それじゃ遠慮なく」
氷室は甘く耳元で囁いていた。
二人はホテルに戻り、そしてなゆみがまたシャワーを浴びると言ってバスルームに入っていく。
氷室は今度は寝てはいけないとテレビをつけた。
暫くそれを見ていたが、気がつけば一番組観終わってしまった。
なゆみがなかなかバスルームから出てこない。
(まさか、また気を失って倒れているとかじゃないよな)
氷室はバスルームのドアをノックする。
「なゆみ、大丈夫か。なんかあったのか」
「氷室さん、ごめんなさい」
なゆみの涙声が聞こえてくる。
「どうした。とにかく早く出て来い」
なゆみがドアを少し開いて顔を覗かせ、困った様子で氷室を恐る恐る見ていた。
「おい、何があったんだ。そんな顔をしてたら心配するじゃないか」
「氷室さん、私、私、やっぱり今日もできません」
やはりまだ心の準備ができてないのだろう。氷室がもうすぐ帰国だからといって、焦って無理をしていただけだったに違いない。氷室はなゆみが怖気ついたと
思った。
氷室は気にするなとなゆみを安心させるためにニコッとしてやった。
「すまなかったな、プレッシャー与えて。無理するな。お前はそういうところがあるから」
「違うんです。そうじゃないんです。私だって、私だって、氷室さんと……」
「どうした、とにかくバスルームから出て来い。なんででてこれないんだ」
「だって、その、あの」
なゆみはものすごく恥じらいでいた。
氷室ははっとした。
「お前、もしかしてあの日か」
なゆみは顔を両手で覆ってしまった。
なんというタイミングだろう。とことん氷室はタイミングの悪さにここまでくると拍手ものだった。
「私の鞄とってきて下さい」
氷室は鞄を渡すと、またバスルームのドアがバタンとしまった。
そしてなゆみがもじもじしながらバスルームから出てくると、氷室は抱きしめてやった。
「いつもより来るのが早くて……」
「いいじゃないか。これでお前も子供が産めるってことだ。何も恥ずかしがることじゃない」
そういう話ができることも愛されているようでなゆみはほっとした顔を見せていた。
「今日は大人しく、思い出話でも語ろうか。お前と初めて会ったときの事なんてどうだ」
「氷室さんと初めて会った日か……」
二人はベッドの上に寝転がって寄り添っては体をぴったりとくっつけ、当時のことを思い出して懐かしがっていた。
二人の知らなかったすれ違っていたときのお互いの気持ちがこのとき初めて語られる。
それを話す方も聞く方もドキドキが蘇り二人の心は一つになっていた。それはまるでエクスタシーを感じジンジンと心が揺さぶらるくらい重なり合っていた。
二人は心の満足感で満たされた。
次の日、なゆみが朝授業を受けている間に氷室はジェイクに会いに行った。
マリアも一緒に居て、慌しく荷物を整理している。これから二人で住むらしく引越しの準備をしていたところだった。
氷室は翌日に帰ることを話し、そしてラスベガスで手に入れた服を二人に手渡した。
「(コトヤ、本当にありがとう。君たちの事は決して忘れない)」
「(俺もさ。ジェイク、マリアと幸せになれよ)」
「(ああ)」
氷室はジェイクと固く握手を交わした。
ぐっと熱いものが込みあがり、満足した気持ちで二人に別れを告げて、アパートを後にした。
「カリフォルニアともこれでお別れか」
氷室は空を見上げながら停車していた車のところまで歩いていた。
まだ天気は良く、時々雲が太陽を覆い、太陽の光が差し込まないとあっという間に寒さを感じたが、日本はもっと寒くなっているだろうと氷室はこれから
帰る日本のこ
とを考えていた。
夜は怖いと思っていた人気のない場所も昼はまだ明かりがあるせいで危機感が薄れ、氷室はそのとき油断していた。
ポケットに手を突っ込み、車のキーを取り出そうとしたとき後ろから「フリーズ」と声を発せられた。
氷室の緊張が走り、ゆっくりと振り返ると、至近距離から震える手で銃を持った男が立っていた。
無精ひげが生え、生活に疲れた情けない中年の親父に見えた。
「(金を出せ、または車の鍵をよこせ)」
強盗をするのは初めてといった行き当たりばったりの素人臭さが見える。
そして氷室はその男が持っていた銃をじっと見ていた。
太陽が再び現れて光が差し込んだとき、氷室は口を開いた。
「(やめとけ、そんなことをしてもすぐに捕まるぞ。銃を下ろせ)」
「(うるさい。ごちゃごちゃ言ってると撃つぞ。早く金を出せ)」
「(あのさ、一体どうしてそんなことをするんだ。見たところ悪いことするようには見えないんだけど)」
「(金が要るんだ。仕事もなく、家族を養う金がない。食べ物も碌に買えない」
「(だったらそんな奴が、本物の銃なんて買える訳ないよな。そんなこと止めとけ)」
「(これは本物の銃だ)」
氷室は怖がりもせず、近づいて男の持ってる銃を上から押さえつけた。
「(偽物さ。ほら早くしまえ)」
男は目を見開き、暫くじっと氷室を見ていたが、氷室がニコッと笑うと、観念して構えてた手を下に下ろしてしまった。
「(なぜ偽物とわかったんだ)」
「(まず銃口にライフリングが見えなかった。それに太陽が照りつけたとき、鉄製であるはずの銃が光を反射しなかった。それは玩具だ)」
そしてサイフを取り出して持ってるだけの札を男に渡した。
「(あんまり現金もってないけど、これでよかったら持っていってくれ)」
二百数十ドルくらいの金を男に渡そうとするが、男は唖然として動けなかった。
氷室は男の手を取り、お金を握らせてやった。
「(あんた、銃が偽物と分かってるのに、どうしてこんなことを)」
「(明日日本へ帰るし、ドルはもういらない)」
男は目に涙を溜めだした。そして思い直して心を入れ替えたのか口を一文字に結ぶと受け取れないとお金をつき返してきた。
「(なんだよ、さっきは脅してたくせに。分かった分かった。だったらその玩具の銃をくれ。それを俺に売ったということでいいじゃないか)」
氷室は男から銃を奪った。
「(じゃあ、急いでいるので。とにかく馬鹿なことをしないで頑張れ)」
氷室は車に乗り込み、さっさと去っていってしまった。
男は放心したようにじっと氷室の車を見えなくなるまで見つめていた。
氷室はすっかり運転慣れた左ハンドルを軽やかに切りながら呟く。
「ちょっとカッコつけすぎたかな。まあいいや。これが最後の締めだ。こうしてヒーロー氷室はアメリカを去っていくのでした。めでたしめでたし。ジ エン
ド」
自分でも馬鹿なことをしているとは思っていたが、いろんなことがありすぎて、なんでもありとばかりに最後までそれに乗せられてやろうと自ら状況を作る。
玩具の銃はグローブボックスに仕舞い込み、上機嫌で氷室はなゆみの元へと向かった。