Temporary Love3

第一章 フリクエントリー


 八月に入ったばかりの頃。
 日が落ちても湿気が篭った熱された空気は冷やされることなく、じわっと汗を誘う そんな夕方。
 社長から買い物を頼まれ、氷室は事務所の近くのコンビニでアルコールが入った飲み物を買っていた。
 それらが入ったビニール袋を手にして、暑いとばかりに額の汗を拭い、再び事務所に戻って奥の社長室に入ろうとドアノブに手をかけようとしたとき、何やら アダルトビデオのような女性が悶える喘ぎ声が小さく漏れたような気がした。
 またどこかで同じことを何度も経験したとばかりに、今度はさすがに慣れてしまい、あまり驚かなかった。
 事が終わるのを待ってから中に入ろうと気遣いし、そっと離れようとすると話し声が聞こえてきた。
「氷室ちゃんは遅いな」
 嶋村清、この建築設計事務所の社長の声だった。
「だから、そ、そこは……」
 どうやらこの事務所の雑用係兼事務の笠井順子の声も聞こえる。
(社長の相手はこの人なのか)
 氷室は少したじろいだ。
「いいじゃないか、少しくらい我慢しなさい。これくらいで根をあげてどうする。折角のチャンスだ、この機会逃しはしないぞ。私も男だ」
「社長の意地悪、うん、もう」
「うーん、順子ちゃんが苦しんでる姿を見るのはいいね。しかし二人だとつまらないね。今日は氷室ちゃんも加わってもらおうと思ってるんだけど」
「三人プレーですか。氷室さんも結構やり手で上手そうですから、私益々困っちゃいます。でも相手してくれるでしょうか」
 氷室はその会話を聞いて血の気が引いた。
 自分もアレの行為に勝手に参加表明させられ、しかも三人一緒にと言われてそれは目が飛び出るくらい驚いた。
 笠井順子は自分の継母と代わらないくらいの年齢でもある。
 そんな女を社長と一緒にアレをするなんてと思うと、なんというところに就職をしたんだと後悔しまくる。
 飲み物が入ったビニール袋をドアの前にそっと置いて、逃げる体制になったとき、事務所に誰かが入って来た。
「お待たせしました。ご注文の寿司持って来ました」
 寿司桶を持った若いアルバイトの男の子が元気な声を出した。
 氷室は思わず、口に指を押さえてシーっとしたが、すでに遅し。
 社長室から順子が出てきた。
「あら、氷室さん、帰ってたの。社長奥で待ってるわよ」
 そういいながら、出前の寿司を受け取り、代金を払っていた。
 代金を受け取ったアルバイトの男の子は「ありがとうございます」と元気よく声を出し事務所を出て行くのを尻目に、氷室は逃げられず呆然とその場に固まっ て立っていた。
「あら、どうしたの? さあ、早くいらっしゃいよ。ほら」
 順子に背中を押されて、氷室はなす術もなく社長室に入った。
 眼鏡を掛けた社長と目が合い、レンズの奥から怪しげな光を出したような瞳を向けられる。そして口元はニターと笑っているその顔は恐怖を植えつける何物で もなかっ た。
「社、社長、お、俺はこれで失礼します」
「おい、おい、氷室ちゃん。今日は順子ちゃんの誕生日なんだから、一緒にお祝いしてあげようよ」
 社長はわかってるだろと意味ありげに言うと、半ば強制的なものを感じた。
「社長がこれだから、私も遠慮することなく社長に甘えちゃおうって思って、今日は楽しむわよ。氷室さんも折角だから私のために一肌脱いでね」
 順子は氷室にウィンクをした。
「お、俺、こ、困ります。3人でそのアレをするなんて」
 氷室は素っ頓狂な声を出した。
「アレ? もしかしてこれのことか。氷室ちゃんは、こういうの好きじゃなかった?」
 社長が指差したその先にはモノポリーのゲームボードがコーヒーテーブルの上に乗っていた。
「えっ? モノポリー?」
「そうなのよ、私が孫と遊べるようにって社長がプレゼントしてくれたの。それで早速遊んでたって訳。社長ったら意地悪で、早速ここに家を建ててお金を沢山 取ろうとするのよ。そこに駒が止まっちゃうとほんとすぐ負けちゃう」
 順子が嬉しそうに言うと、氷室はさっき想像していた自分の勘違いに呆れてひっくり返りそうになった。
「なんだ、そうだったんですか。いやーそれなら喜んで加わります」
「まあ、まずは一杯といって、寿司でもつまもう」
 社長の言葉で、氷室は買ってきたドリンクを取りに戻り、そして三人は一つずつ手にして乾杯をした。
「順子さん、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう、氷室さん」
 夫を早くに亡くし、一人で娘を育ててきた順子は、社長や氷室に誕生日を祝ってもらえるのが嬉しくて、少し涙ぐむ。
 氷室の継母の敦子と違って庶民的ではあるが、 おっとりとしていておばさんながらも癒し系の雰囲気を持つ女性だった。
「本当に社長に拾って貰って、私は幸せです」
「何を言うんだ、順子ちゃん。順子ちゃんのお陰でこの事務所もスムーズに動くんだ。それに今年は氷室ちゃんも来てくれて、このシマムラ建築設計事務所も転 機だよ」
 二人は息のぴったり合った様子で語り合い、缶チューハイを飲んでいた。
 氷室は二人の様子を見ながら寿司をつまむ。
 確かに、この事務所はアットホームで働きやすい。
 給料は目立ったほどの高額ではないがそこそこ稼げ、そして仕事はやりがいがある。
 そして何よりこの業界にブランクがありながら中途採用で雇ってくれた嶋村清は仕事の面でも尊敬ができた。
 小柄で人のよさそうなおじさんだが、仕事の腕は氷室も認める程確かな才能を備え持っている。
 氷室もまた感銘を受け、刺激にもなり、負けたくないというライバル意識まで起こさせた。
 更に人の意見をよく聞き、最善の策へと導くような人だった。
 以前働いていた会社の上司とは比べ物にならないくらい、氷室はこの社長の言うことは素直に聞けた。
 そしていつか自分も独立してそうなりたいと野心も湧く。
 すべてにおいてとても刺激的な就職先だった。
(なゆみ、お前が戻ってきたら、今俺が思いのままに感じてやってることを一緒に喜んでくれるだろ?)
 氷室はなゆみの笑顔を思い浮かべながらぐっと缶チュウハイを飲んだ。
「氷室ちゃん、もうすぐ彼女が留学から帰ってくるんだろ。そのときは私にも紹介してくれよ。一体どんな女の子なんだろう」
「もちろんかわいい子に決まってるじゃないですか、社長。いいわね、氷室さんみたいな人に好かれてるなんて。私も若ければ、氷室さんも放っておかなかった かもね」
「順子ちゃん、今でも相当若くてきれいだよ」
「いやですわ、社長ったら」
 順子は未亡人だし、社長はずっと独身を貫いたまま。年もそう変わらないでいる。二人は氷室の目から見ると結婚すればいいのになんて気軽に思ってしまうほ どお似合いに見えた。
 だが自分が口にすることではないと、そこは一歩引いてこの二人を見守っていた。
「そういえば、氷室さん、最近体がやけに締まったんじゃない?」
 順子が半そでのシャツから出ていた氷室の腕を擦る。
「いや、そ、そうですか。ちょっと鍛えたからかな」
 氷室は苦笑いになっていた。
「若い女の子を相手にしないといけないんだから、男は常にたくましく元気じゃないとね。氷室ちゃんはその点、そういうところは努力家だね」
 氷室は良いように勘違いされて、もうそうだと言い切ってしまった。
 社長室に笑い声が響いて、その場は益々和んでいた。

 順子を祝った後、氷室はある場所に来ていた。
 作業着に着替え、道具を手にして馴染みのある顔と挨拶を交わす。
「よっ、氷室! 今晩も頑張ろうぜ」
 少し気の荒そうないかつい顔をした男だが、氷室を見るとニコッと爽やかに笑い、肩を数回叩く。
「ブルさん、いつも元気ですね」
 氷室がその対応が気持ち良いとばかりに笑みを返すと、ブルと呼ばれた男はアハハと豪快に笑っていた。
 ブルはニックネームだが、ブルドーザーのように逞しく働き、またいかつい顔はブルドッグのようなイメージからどちらも引っ掛けてブルと呼ばれている。
 年は氷室より少し上だが、非常に貫禄があり誰からも一目置かれている男だった。
 このブルがリーダーとなり、ここでの作業が始まる。
 氷室は夜間道路工事で時々働いていた。
 体が締まったといわれたのも、ここで力仕事をしていたからであった。
 なぜそうしているか、氷室には父親に返さないといけない借金があり、またなゆみへの婚約指輪も買いたいし結婚資金も貯めたい。
 そのためにはお金がいるので、なゆみに会いにアメリカに行って帰ってきてからはなりふり構わず仕事をいくつも掛け持ち、結構過酷な労働をしていた。
 お金は沢山あったことに越したことはないが、以前ラスベガスのカジノで稼いだ金には全く未練はなかった。
 自らの力で汗を流して手に入れたお金でこそ価値がある。
 そんな思いを抱いて、氷室は必死に働いていた。
 なゆみが帰ってくるその日を待ちながら──。
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