第一章
3
「嘘だろ」
氷室は呆然とした。
驚きすぎて体が縛られたように動かないが、目だけは大きく見開いている。
(あいつはスコット…… それじゃあの女の子は本当になゆみ?)
目の前に居る女の子は氷室が知っているなゆみのイメージとは程遠い。
もしかしたら同じ名前で、スコットは他人の空似なのではと訳が分からなくなっていた。
しかし、女の子はやっとの思いで抱きしめられていた腕から逃れた。
「(スコット、なんであなたがここにいるのよ)」
そのとき氷室にもはっきりと顔が見えた。
髪型は違うけど、よく見ればナユミだった。首元には自分がプレゼントしたエンジェルのネックレスが赤くチラッと光ったのに気がついた。
ずっと髪の短い姿を思い浮かべていただけに、髪が伸びていることを考えていなかった。
そして体つきがなんだかグラマーになっている。
丸みを帯びて、あの高校生を連想させるような姿ではなく大人っぽくなっていた。少女から女といった具合に。
「兄ちゃん、あの外人、あの女の子に向かってなゆみって言わなかったか? あれ、もしかしてなゆみなのか? なあ、兄ちゃん?」
凌雅の言葉など氷室の耳に入ってなかった。氷室はまだ放心状態のまま突っ立っている。
なゆみはまた抱きつこうとしているスコットを突き放し、辺りを見回した。
そして風見鶏が指し示すように体がピタッと探すべき場所を見つけると顔がぱっと明るくなる。
氷室を見つけた。
スーツケースを転がし、満面の笑みを浮かべて走り寄って来る。
「氷室さん! ただいま」
あの元気な声で、あの笑顔を向けて氷室の胸に素直に飛び込んだ。
なゆみは会えた嬉しさから目が涙ぐむ。
ぎゅっと氷室を抱きしめ、氷室の胸に顔をうずめていた。
「なゆみ……」
自分にしっかりと抱きつくその光景を上から見下ろし、氷室はやっと状況が把握できた。
そして、しっかりと抱き返す。しかし思いが強く表れ力を入れすぎた。
「ひ、氷室さん、く、苦しい」
それでもなゆみは氷室に抱きしめられていることに幸せを感じていた。
「ヒムロ!」
スコットが近づき怒りを露にしていた。
「(スコット! なんでお前がここにいるんだ)」
「ナユミ、迎えに来た」
「お前、いつの間に日本語を」
「この時のために、とっても覚えた。なゆみ、僕と行こう。お父さん、お母さん、待ってる」
「ちょっと待て。なんの話だ」
「なゆみのお父さん、お母さんとなゆみと僕で一緒に食事する」
「だから、なんでスコットがなゆみの両親を知ってるんだ」
氷室はなゆみの顔を見るが、なゆみも訳が分からないとスコットの顔を見た。
スコットは涼しい顔でこのときを待っていたかのように笑みを添えて答えた。
「僕、虎二さんの弟子」
今度はその言葉になゆみが驚くように反応した。
「えっ、スコットが弟子? それじゃお父さんが弟子にしたって言ってた外国人の留学生ってスコットのことだったの?」
「おい、訳が分かるように話してくれ。一体どうなってるんだ」
前回経験した悪夢が蘇るや否や、氷室の試練がまた始まり、顔から血の気が引いていく。
そしてその三人のやり取りを卓球の試合のピンポン玉を追いかけるように凌雅は追っていた。
「あのさ、俺だけが全く部外者なんですけど。っていうより、兄ちゃん、俺の紹介は?」
点でばらばらに4人の話がちぐはぐで何から片付けて良いのか誰もがわからなくなっていた。
スコットが氷室を睨みつけ、それに対抗するように氷室もスコットを睨み付けた。
両者引けを取らずに暫く火花が散る。そして言い争いが始まった。
なゆみは長時間のフライトで疲れており、この状況をどうして良いのか咄嗟に判断ができない。
「ねぇ、なゆみちゃん」
凌雅はなゆみの腕を引っ張り少し後ろに下がった。
「俺、弟の凌雅。よろしく。兄ちゃんが紹介してくれないから自分でするよ」
凌雅はニタっと人懐こい笑顔を向けた。
「あっ、ど、どうも。初めまして」
条件反射でなゆみは挨拶を交わした。
「なんかややこしいことになってるみたいだね。俺にはさっぱりどうなってるのかわからないよ」
「私もちょっと混乱してます」
「だけど、なんかすっかり雰囲気変わったね。写真見たときと全然違う」
「そ、そうなんです。ちょっと太ってしまいました。でもこれから痩せます」
「えっ、全然太ってないけど。写真で見たときより、今の方が絶対いいよ。すごく大人びて色気がでてるよ」
「キャー、今なんて。大人びて色気が出ているって言いました?」
「ああ、そう言ったけど、おいっ」
なゆみは素直に喜び、嬉しさのあまりつい凌雅に抱きついていた。
その反応に凌雅はドキッとしてしまった。
「あっ、凌雅さん、ごめんなさい。つい嬉しくて感情が爆発して何かを抱きしめずにはいられませんでした」
「ああ、そんなの構わないよ。なんだったらいつでも兄ちゃんの変わりになってもいいよ」
素直に感情を表すなゆみに凌雅は気に入られたくなった。
「えっ、そこまでは。でもありがとうございます。凌雅さん、ノリがいいですね。こんなことに気遣ってもらえるなんて、なんだかとっても気が合いそうです」
「そう言って貰えると、俺もなんだか嬉しいよ。それならさ、俺のこと”さん”付けで呼ばずに凌雅って呼んでくれ。その方がもっと仲良くなれそうだ」
「氷室さんの弟さんを呼び捨てにするのは抵抗あるな。だったら凌ちゃんって呼んでいいですか?」
「凌ちゃんか、なんかそれもいいね。じゃあ俺はナユって呼んじゃおう」
氷室とスコットが刃をむき出しにして対立しあってる横で、凌雅となゆみはすっかり意気投合していた。
「兄ちゃんたち、なんか別の時空に飛んじゃってるみたいだね。このまま放っておいて、俺が家まで送ってやろうか。長時間のフライトで疲れてるだろ」
「確かに飛行機で疲れましたけど、でも氷室さんに会えたから元気回復です。他の時空に飛んじゃってるなら、私連れ戻してきます。こんなことしてても解決で
きませんし」
なゆみは氷室のあの大きな手をそっと愛しく繋いだ。
氷室はもちろんだが、その瞬間スコットもはっとして、そしてなぜか凌雅までもがなゆみのその行動に軽く「あっ」と声を漏らしていた。
なゆみが大切に氷室の手を握って、氷室を見つめる姿には誰も入り込めず、そしてそうされることが羨ましいと思わせる気持ちを周りの男達に植え付けるよう
だった。
「氷室さん、睨み合っていても埒があきません。とにかく両親がそこに居るのならスコットの言うようについて行きます」
「だったら俺も一緒だ。スコットとなゆみを二人っきりになんてさせられるか。なんせこいつは前科があるからな」
「ゼンカ? どういう意味それ?」
スコットは首を傾げた。
「忘れたとは言わさないぞ、あの時なゆみを誘拐しやがって、そんでもってあんなことも」
氷室の怒りがまたぶり返し、片方の拳がぶるぶると震えていた。
「あれは僕もハンセーです。イッショケンメーなり過ぎました。ごめんなさいです。僕、心入れ替えました。日本語もイッパイ勉強して、ずっとなゆみのこと
思ってました。これからは好かれるようにガンバリます。だからなゆみも僕を見て。モイチド、チャンス下さい」
「だから、それはありえないって言ってるだろうが」
話が堂々巡りになり、氷室のイラツキは手まで出てきそうになった。拳をブルブルと震わしている。
「スコット、とにかく父と母はどこにいるの?」
「高いジャパニーズフードのレストラン。僕が招待した。なゆみのキコクを一緒に祝う」
「じゃあ、そこに行きましょう。もちろんここにいる二人も一緒よ。いいでしょ」
嫌そうな顔を氷室に向けながらスコットは渋々と頷いた。
氷室はこれから何が起こるんだと不安と不快が混じりこんだ表情でいると、なゆみは氷室の手を強く握り、ぴったりと体を側に寄せて微笑を向ける。
以前よりも一段とかわいくなっているなゆみの笑顔に氷室は癒され、知らずと顔が綻んでいた。
スコットはぶすっとしながらなゆみのスーツケースを運び時々後ろから氷室にぶつけていた。
「スコット、いい加減にしろよ」
「ヒムロのバーカ」
小学生レベルの争いになっていた。
なゆみはその間も氷室の手を離さずしっかりと握っている。
その様子を一番後ろで凌雅は黙ってじっと見ていた。