第一章
5
料亭のかしこまった立派な門をくぐると、景色よく植えられた緑が目に飛び込み落ち着いた雰囲気が漂う。足元には踏み石が敷かれ、まわりは丸みを帯びた小
石で
埋まっていた。
そこを一同ぞろぞろと歩いていると、鹿威しの音がどこからカコーンと心地よく響いてきた。
夕暮れ時の日が落ちかけた中、計算されたように設置されている柔らかなオレンジ系統の光を放つライトが、建物を幻想的に照らし高級感を漂わしている。
静穏な空間がすぐに味わえる反面、慣れてないものにはその格式の高さが却って緊張させるかもしれない。
そこは一般の客が気軽に足を運べない空気に包まれていた。
スコットは日本らしいその雰囲気をいかにも外国人受けする観光名物のように素直に楽しみ、着物を着て出迎えた女性に予約したものだと伝えていた。
出迎えた女性は誰だか把握すると、一層引き締まり最上級の振る舞いを試み、スコットがVIP級のお客と見なされたようだった。
中に入って靴を脱ぐと、氷室は「ああー!」と驚きの声をあげた。
「どうしたんですか、氷室さん?」
なゆみが振り返ると氷室は足をじたばたとしていた。
「兄ちゃん、靴下の色が片方違う。緑と青?」
「ヒムロ、ハズカシー」
スコットが茶化した。
「氷室さん、気にしない気にしない。よく見ないとわかりません」
なゆみはそういいつつも、体を曲げて笑ってしまった。
氷室は脱ぐわけもいかず、仕方がないとがっくりと背中を丸めて諦めた。
なゆみが元気付けようと氷室の耳元でそっと囁く。
「氷室さん、そんな氷室さんが大好きです。早く二人っきりになりたい」
「おい、なんか俺スイッチ入ったぞ」
なゆみはにっこりと笑みを見せて案内係りの後をついていく。
氷室はすっかり女らしくなったなゆみの後姿を目を細めて見つめていた。
部屋へと案内され途中廊下から中庭の日本庭園が見えた。
「おい、兄ちゃん、なんかすごいことになってきたな。大丈夫か」
凌雅は小声で氷室に耳打ちする。
料亭の雰囲気に圧倒されたのもあるが、スコットがこういう場所を簡単に提供できることに何かを企んでいるとそれとなく警告していた。
「ああ、大丈夫だ」
氷室の声を聞いてなゆみが振り返り笑顔を見せる。
氷室は応えるようにしっかりと見つめ返した。
自分がしっかりしているところをわかってもらいたかったのもあるが、これから両親に会う覚悟もできていると自分の決意の固さも示していた。
案内役の女性がひざまずき「失礼します」と声を発して優雅な物腰で襖を開けた。
そしてスコットたちを中に通し「後に係りのものが参ります」と言ってからまた静かに襖を閉めて去っていった。
その部屋には確かになゆみの両親がテーブルの前に座っていた。
「おお、やっと来たか」
なゆみの父親、虎二が待ちくたびれたという風に言った。
頑固親父らしく、眉毛が太く角刈りの短い髪型で年は取っているが昔ながらの男前な鼻筋の通った顔
立ちだっ
た。どことなくなゆみの雰囲気があったので、なゆみは父親似だとわかる。
「なゆみ。お帰り」
母親の竜子が久しぶりに会う娘の顔を見て無事に帰ってきたことを喜んだ。髪は少し派手に茶髪に染めたショートだったが顔つきは優しく、こちらも年は取っ
ているが笑顔にはどこかあどけなさが残っている。
なゆみの明るい元気な性格は母親譲りなのがみえるようだった。
「お父さん、お母さん、ただいま。だけどなんでこんなことになってるのよ」
なゆみは久しぶりの再会の喜びよりも、スコットが絡んでいることに立腹の気持ちをぶつけた。
「スーさんがなゆみを迎えにいっている間待ってろって、有無を言わさずにスーさんの知り合いの人にここに連れて来られたんだよ。わしにもさっぱりわから
ん」
「ええ、それってやっぱり誘拐じゃない」
なゆみはスコットを睨み、また無茶なことをすると責め立てる。
「ノーノー、これはなゆみのウエルカムパーティ。虎二さんや竜子さんにはいつもお世話になってる。僕のお礼」
「だけどあんたのやり方はいつも強引なのよ」
なゆみが怒りだすと、竜子が慌てて中に入る。
「なゆみ、スーさんを責めちゃだめ。スーさんはなゆみのためにやってくれたのよ。それにお父さんの店でもいつも一生懸命働いてくれてね、ほんとにいい人な
んだから」
「そうだよ、スーさんはアメリカ人だけど今時の日本人より礼儀をわきまえて日本のことをよくわかってる。わしも関心してるくらいだ。この人はいい人だぞ。
スーさんだったら婿に来てわしの店を継いでもらいたいくらいだ」
「えー!」
なゆみは口を大きく開けて叫びすぎて、閉じられないほど驚愕していた。自分の両親がスコットに手懐けられている。
後ろで氷室も恐怖を感じるほどに震撼していた。これはもう偶然で片付けられない。
スコットは日本に滞在している間にあらゆるなゆみの情報を集め何もかも計算し、そしてなゆみの両親をすでに丸め込んでいた。
「ああ……」
小さく氷室の声が震えるように漏れていた。想定外、油断していた。
「兄ちゃん、やっぱりスコットすげーや。怖〜」
凌雅もこの状況を目の前にして驚きを隠せない。
そして涼しげに勝利を得たようにスコットだけが口元を少し上げて笑っていた。
「ちょっと、スーさん、スーさんって、軽々しく呼んでるけど、この男の本当の正体をお父さんも、お母さんも知らないのよ。この人はアメリカで──」
なゆみが自分がされたほんとのことを言おうとすると、スコットが遮った。
「ちょうどいい機会だから、僕から言います。僕は虎二さんたちに嘘をついてました。留学生じゃないんです。僕はアメリカでなゆみと知り合って、なゆみを好
きになってしまいました。気持ちをわかってもらう為にもなゆみが日本に戻ってくる前に日本語勉強して、そして自分がこれから何ができるか考えました。幸い
僕の父はアメリカでも有名な会社の社長で、僕はそこの副社長です。そこでジャパニーズレストランをアメリカで展開しようと閃いて、虎二さんのところで無理
を言って修行させて貰いました。それは虎二さんの料理に感動したからです。そしたら偶然にもなゆみのお父さんだった。これは運命としか思えません。そこで
咄嗟に日本に興味を持った留学生のフリをしてしまい、虎二さんの弟子にしてもらいました。虎二さ
んには本当の僕を見て欲しかったんです。だけど嘘をついてごめんなさい」
なぜかこの台詞だけは長いのにも関わらずスムーズにぺらぺらと話していた。かなり前から想定して練習していた様子が伺える。
「スコット、正体ってそのことじゃないでしょ」
なゆみが突っ込むと同時に虎二がそれよりも大きな声を発した。
「そんな身分のお方がわしなんかに尽くしてくれてたなんて。確かに軽々しくスーさんなんて呼んですまなかった」
「お父さん、突っ込むところはそこじゃない!」
「なゆみ、アメリカでいい人と知り合ってたのね。留学させてよかった」
竜子はなぜか涙ぐむ。
「お母さん! なんで泣くの」
「えっ、だってこんなハンサムで、立派で、そして金持ちで……」
「結局はお金なの! 違うでしょ」
なゆみは両親のずれた思い込みに躍起になってしまった。
「母さん、国際結婚もいいよな」
「そうですよね、孫もハーフできっとかわいいでしょうし」
「お父さん、お母さん! あのね、スコットに騙されちゃだめ!」
なゆみたちが話をしている蚊帳の外で氷室と凌雅が忘れ去れたように何もできずにただ驚いて突っ立っていた。
「ところで、その後ろの人たちは誰なんだ?」
虎二がやっと氷室たちに焦点を合わせた。
竜子も視線を後ろに移すと顔を明るくして「あらっ」と声を発した。
なゆみはこれで本題に入るとばかりにここぞと力を入れる。
「お母さん、以前言ったでしょ、真剣に付き合ってる人がいるって。その人があの人なの」
なゆみは氷室を指差していた。
「付き合ってる? わしはそんな話聞いてないぞ」
父親が驚いた。
「まあ、あの人がそうなの。あら、あちらもなんてハンサムな」
氷室は母親の好意的な言葉に少し安心したのも束の間、目線が自分と合っていない。
「ん?」と思って隣の凌雅を見てみれば、凌雅は自分で人差し指を向けて竜子の目線の先の確認を取っていた。
竜子は「うんうん」と頷き、凌雅をうっとりと見つめていた。
「やだ、なゆみもお母さんと趣味が似てるのね。やっぱり親子だわ。美少年でほんとしびれちゃう」
竜子は年甲斐もなくミーハーで若いハンサムに弱い。
「えっ? ち、違う! お母さん。その人は弟さん。私の好きな人はその隣の人」
なゆみはもどかしいとばかりに氷室に近寄り、腕を取った。
「私の付き合っている人はこの人」
なゆみが苛立って吼えるように紹介すると、氷室は慌てて頭を下げた。
しかし動揺しすぎて声が出ず、ここ一番というときに挨拶すらできなかった。
その部屋に静寂さが広がり、遠くで鹿威しがカコーンと響く。
その音が氷室には『なゆみの両親と最悪の初対面となりました』と言われているように聞こえた。