Temporary Love3

第二章


 氷室が我に返ってなゆみを追いかけたことも知らず、なゆみもまたその場に流されてしまっていた。
 凌雅の車に勢いで乗ってしまったものの、自分のことで精一杯なため何も話せず、なゆみは傷心を抱いて助手席でずっと俯いていた。
 それを見かねて凌雅が元気つけようと試みる。
「なあ、ナユ、今からカラオケ行かないか。こういうときは大声で歌えばすっきりするもんさ」
「カラオケ? 私、歌える歌あまりない」
「絶対ナユの知ってる歌があるって。幼稚園児でも歌えるような歌が入ってるんだぜ。このまま帰ってもずっとそのままんまなら、ちょっと気晴らしして いこう」
 なゆみは凌雅が音楽の才能に長けていることを思い出した。
「凌ちゃん、音楽が好きなんだよね。そしたら凌ちゃんの歌聴いてみたいな」
「よっしゃ! 任しとけ。ナユのためになんでも歌ってやるよ。こう見えても俺、バンド組んでたときボーカルだった」
「嘘! バンド組んでたの? すごい」
「ライブなんかもやってたぜ。結構ファンもいたんだけど、俺は途中で辞めちゃった」
「そうだったの」
「俺も久しく歌ってないから、今日は思いっきり歌おう。行くぞ、ナユ」
「うん」
 自分のことを思って気を遣ってくれる凌雅の気持ちに、なゆみは素直に甘えることにした。
 一人になれば氷室のことを考えて、きっともっと落ち込んでしまう。
 なんで、こんなことになってしまったのだろう。
 全ては自分がスコットと過ごして、氷室に余計なプレッシャーを与えてしまったからだと充分理解していた。
 軽率な自分の行動が招いた事が原因で氷室に非があるとは思えない。
 だからといって、氷室が自棄を起こして自分を無理やり抱こうとした行為は不本意だった。
 以前はそれを望んで、氷室の前では何も怖いことなどなかったはずだった。
 そして留学中もずっと氷室のことを思っていたのに、自分でもわか らないくらいあの時は素直に氷室に飛び込んでいけなかった。
 朝、言われた母親の言葉が急に思い出される。
『氷室さんの前ではそんな顔しちゃだめよ。嫌われちゃうからね』
 このままでは氷室に嫌われてしまう。
 なゆみの心は焦りが生じ、解決方法もわからず途方にくれてしまった。
 それは何か奥深い心の闇に取り憑かれてしまうようだった。
 このままでいけないとわかっていても、日本に戻ってきてすぐのこの環境では複雑な思いが絡んで氷室の気持ちを考える余裕がないといった具合に──。

 凌雅は車を運転しながら、時々なゆみの様子を見て思いに耽る。
 なぜ五年も前に借りた本をわざわざこの日に返しにいったのか。
 凌雅は氷室がなゆみと必ず会ってることを承知でわざわざそうしていた。
 最初から邪魔をするつもりで現れていた。
 本を返すこともただの口実で、無理やり探して見つけ、借りたといってもすっかり忘れていて返すつもりなどはなっからなかったほどだった。
 邪魔をするつもりだったが、氷室が予想外に無理やりなゆみを抱こうとして、なゆみが嫌がっていたとは思わなかった。
 二人はてっきりそれを望み、すぐにでもいちゃつきたいと思っていただけに、この状況は想定外だった。
 しかし、これを歓迎すべきことなのか迷いながら、堂々となゆみを誘えて二人っきりになれることに凌雅も戸惑う。
(本当にこんなことしていいのだろうか)
 だが、悲しい目をしてどこを見る訳でもなく、ぼーっとしているなゆみを放っておくことはできそうになかった。

「今日は空いてそうだ」
 凌雅の言葉でなゆみが顔を上げると、目の前に派手な看板をつけて光り輝いている建物が目に入った。
 車を駐車後、なゆみに思いっきり笑顔を向けながら凌雅はカラオケ店へと案内する。
 少しでも元気つけようとしてくれる凌雅の気持ちが伝わり、なゆみも合わせるように笑顔を作った。
「そうそう、ナユは笑った方がかわいい。アメリカで撮った写真を見たときもいつも笑顔で写ってた。やっぱり笑ってる顔の方が俺は好きだ。今日は俺がナユを ハッピーにしてやる」
 凌雅に励まされてなゆみはどんなときも笑っていた自分を思い出す。
 辛いときこそ笑顔で乗り越える。いつも自分がしていたことだったのに、すっかり忘れていた。
 日本に戻ってきたとたん笑顔が消え、母親にもそのことを指摘され、本来の自分を見失っていた。
 これではいけないと自分を奮い立たせ、さっきよりも自然な笑みを凌雅に向けた。
「凌ちゃん、ありがとう」
 その時凌雅の手がなゆみの頭をくしゃっと撫ぜた。
 氷室と同じ事をされて、なゆみは「あっ」という声が漏れてしまう。
「どうした? ナユ」
「ううん、なんでも」
 なゆみは咄嗟に誤魔化したが、凌雅は顔は違えど氷室と似ていると思ってしまった。

 ホテルのロビーのような受付で凌雅が女性スタッフと話していると、奥から店長らしき男性が顔をだした。
「よぉ、凌雅じゃないか。久し振りだな」
「店長、お久し振りです」
「おっ、新しい彼女? なんか趣味変わったね」
「違いますって。でもそうだったら嬉しいんですけどね」
 凌雅はなゆみを一瞬見て笑顔を見せた。
 なゆみはそのときは何も深く考えていなかった。 
 店長と凌雅は少し話をしてから、その後案内係が部屋に通してくれた。
 小さな部屋だったが小奇麗で、ソファーもふかふかとして座り心地がよかった。
 凌雅とテーブルを挟んで向かい合わせに座り、早速分厚い本を手に取りなゆみはパラパラと目を通す。
「あっ、アニメの曲もあるんだ」
「だろ、遠慮なくなんでも歌え。とことん付き合ってやるよ。兄ちゃんといると年も離れてるからジジ臭くなるだろ。我侭で自分主義なところもあるし、一緒に 居ると疲れてくるんじゃないか?」
「そんなことないです。氷室さん、いつも私のこと助けてくれて、そして頼りになります。確かに俺様なところがあるけど、私にはそれくらい無茶な注文をつ けて引っ張ってくれるような人じゃないとダメなような気がする」
「じゃあ、なんで今日は無理やりナユの嫌がることなんかしてんだよ」
「えっ、ああ、その、嫌とかじゃなくて、その、今日は私がスコットと会ってしまったから、それで氷室さん自棄になっちゃって暴走したんです。初めてのこと だし、そ ん な気持ちでするのが私は嫌だったんです」
「えっ、初めて?」
「あっ! その、あの、えーと、あの、アー」
 なゆみは口が滑ってしまったとはいえ、これは言うべきことではなかったと、恥ずかしくて顔を真っ赤にしていた。
 凌雅も聞いてしまった以上、無視できなかった。なゆみが誤魔化せば誤魔化すほど、その発言は真実味を帯びる。
 暫く会話がなくなった。
 そしてタイミングよく飲み物が運ばれて来て、なゆみはすぐにグラスを手に取り、赤くなった顔を冷やすように一気に飲みだす。
 穴があったら入りたい気分だった。
 スタッフが部屋から出て行くと、凌雅はまた穿り返す。
「兄ちゃんとナユ、まだ寝てないのか」
 その言葉で飲み物が喉につかえて、なゆみは咳き込んでしまう。
「おいおい、大丈夫かよ」
「はい、だ、大丈夫、ゲホゲホ」
「別に恥ずかしがることないと…… 思うけど……」
 凌雅も声がだんだん小さくなっていた。なゆみと話す話題ではないことはわかっていた。
「でも、あの兄ちゃんがまだ手だしてないなんて。そりゃ焦るわ。なるほど、なんで兄ちゃんがムキになってたのかわかったよ」
「だから、もう忘れて下さい」
「兄ちゃん、我慢してたんだ。そっか、そういうことか。だからあの箱が未開封だったのか」
 凌雅は納得するように腕を組んで何度も首を縦に振っていた。
「だから、そのチャンスは一杯あったの。私も心を許してたし、でもタイミングが悪くて」
 さっきまで敬語を使っていたが、一度に全てがぶっ飛んでしまい、なゆみは凌雅と同じ目線で話してしまう。
 説明すればするほど墓穴を掘り、こういう話はするべきものじゃないとまた自己嫌悪に陥り、自分の言ったことにくらくらしていた。
「ナユ、俺も邪魔してごめんな」
 初めてのことだとは知らなかったとはいえ、邪魔をしようとわざとやったことなので凌雅は一応謝っていた。
「えっ、そんな。だけど、今日の氷室さんは私、嫌だった。原因は私が作ってしまったこととはいえ、気持ちの整理がつかず拒否してしまった……」
「まあ、兄ちゃんを弁護するわけじゃないけど、男は一度その気になってしまって、それが中断されると不完全燃焼を起こして、苛立つんだ。あれは兄ちゃんの 本当の姿じゃない。男の本能が理性を支配してしまってただけ。だけど他の男を引き合いにして兄ちゃんが無理やりしようとしたことは許されないね。そんな思 いぶつけられたら、誰だって戸惑うよ。まあでも気にすんな。兄ちゃんのことだ、今頃猛烈に反省しているはずだ。とにかくいい薬になってるから、ナユ は何も心配しなくていいよ。さあてと、そんなナユを励ますためにも、まず俺から歌うぜ」
 凌雅はリモコンを手にして曲の番号を入れた。
 そしてイントロが流れると立ち上がりマイクを持って準備しだした。
 なゆみはなんだか圧倒される。
 そして凌雅が歌いだすと、一瞬で驚きの表情に変わった。
 なんとも透明感ある声で力強く歌いだした。
「凌ちゃん、ほんとに歌上手い」
 凌雅はニコッと微笑んで、熱唱する。
 なゆみの知らない歌だったが、凌雅の才能に素直に感動し尊敬の眼差しを向けていた。
 氷室と違ってやんちゃな部分が見られて、自分も一緒に暴走できるとばかりにノリがよくなる。
 サビの部分がなんだか盛り上がり、鳥肌も立つ。
「すごい。やっぱり氷室兄弟すごい」
 凌雅も調子にのり、笑顔を見せながら親指を立てて応えていた。
 なゆみと凌雅の距離は一気に縮まり、なゆみは凌雅に心許していく。
 凌雅の気持ちもどんどん高まっていった。
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