Temporary Love3

第二章


 凌雅は車に乗り込んでから一言も話さず、ぶすっとした表情で運転をしていた。
 それが氷室を苛つかせ、愚痴もこぼしたくなった。
「お前、なんか俺に怒ってるのか? 俺の方がお前に腹立ってるんだぞ。勝手になゆみを連れ回しやがって」
「うるさいな。その原因を作ったのは自分だろうが。ナユがどれだけ悲しんでいたと思うんだ。あのまま放っておけるわけがないだろ」
「それは直接本人に謝ったよ。お前が怒ることじゃないぞ」
「大体、兄ちゃんは傲慢なんだよ。俺に対してもいつまでも子ども扱いするし、自分が偉いと思っている」
「なんだよ、その言い方は。このことと関係ないだろ」
「だから、俺は俺の判断でやったってことだ。兄ちゃんの指図は受けない」
「俺も、反省すべきことはあった。だけど、凌雅がこのことに首を突っ込んでどうする。なんでそこまでムキになるんだ」
 ちょうど交差点に差し掛かると信号が赤になり、車を停止させ凌雅は黙り込んだ。
 何も言わなくなった凌雅を氷室は見つめる。
 それでも凌雅は前をじっと見据えたままで気難しい顔をしていた。思いつめてこの先の出方を思案しているようにも見えた。
 凌雅の性格上、氷室を困らせる態度を取るのは日常茶飯事だった。このときもいつものひねくれだと氷室は受け取る。仕方がないとばかりにため息をついた。
 そしてまた車が動き出し、それを合図に凌雅は口を開いた。
「なあ、兄ちゃん。なんで兄ちゃんの方が俺より先に生まれちまったんだろう。10年も離れて、常に俺が敵わないことばかり先にしてさ。俺はいつも兄ちゃん と比べられてばかりだった。俺達母親は違うけど、兄ちゃんに似てるとか、いつも基準は兄ちゃんだ」
「何言ってんだ。凌雅は俺よりも恵まれているじゃないか」
「それって、母親がいるってことなのか? あんなの居ても居なくても同じだよ」
「馬鹿なことをいうな。敦子さんは凌雅に愛情を注いでいるじゃないか」
「でも兄ちゃんはそうされなかった。敵視するような扱いをされて、そして俺はそのとばっちりを受けたよ。母親が一番兄ちゃんと俺を比べた。兄ちゃんよりな んでも上手くなければ気がすまないくらいにな。10歳も離れてるんだぜ、兄ちゃんに敵うわけないじゃないか。そして兄ちゃんは頭もいいし、器用だし、常に 俺の前を歩いている。絶対追いつけなかった」
「確かに敦子さんと俺は仲が悪かった。でもそれは俺にも原因があるんだ。彼女一人のせいじゃない。敦子さんはお前に俺みたいにならないようにしっかりとし て欲しかっただけだ」
「例えそうであっても、俺自身も結局は比べてしまった。兄ちゃんが俺の欲しいものを手にしているのを見るとやっぱり悔しかったよ」
「何を言ってる。俺はお前が欲しがったものを譲ったり、一緒に使ったりしたじゃないか」
「物の話じゃない。俺が決して手に入れられないもの、兄ちゃんは自由で、自分の思うままに行動して、そして何でも手に入れていく」
「そういう時期も確かにあったけど、その後は悲惨だったじゃないか。リストラされてプライドもズタズタになって挫折し立ち直れなくなった。結局は情けない 兄だよ」
「今でもほんとにそう思ってる?」
「えっ?」
 氷室は少し考え、そして再び口を開く。
「そうだな。それはもう過去の話だな。今はやりたいこと見つけて、それに向かってやってるのが楽しくなった。以前よりもやる気になって頑張りたいって気持 ちが湧いてくる。でもそれは凌雅だってできることじゃないか」
「兄ちゃんのせいで俺にはできないんだよ。それに兄ちゃんはまた俺の手に入れられないものを手にした。やっぱり悔しいよ」
「凌雅、どういう意味だよ。俺のせいでできないって。それにお前が手に入れられない俺が手にしたものって…… お前、まさか」
「なんで兄ちゃんが俺の兄貴なんだよ。半分しか血が繋がってないのに、残りの半分は他人なのに、それなのに兄ちゃんはいつも兄貴面でえらっそうで俺に指図 してばかり」
「馬鹿やろう。血が半分しか繋がってなくても、凌雅は俺の弟だ。ずっと疑うことなく思ってきた。弟だから俺はお前の面倒を見て、俺なりに兄としてやってき たつもり だ。俺の態度が気に触ったのなら謝る。だけど俺にどうして欲しいんだ?」
「兄ちゃんは確かに俺が欲しがったものはなんでもくれた。じゃあ、今回も兄として俺にそれをくれる? 俺も兄ちゃんと同じように好きになってしまったん だ」
「凌雅、それって…… 嘘だろ、またいつもの癖で俺をからかってるんだろ」
「俺、ナユが好きだ」
「おい、冗談も程ほどにしろ」
「冗談なんかじゃない。俺ナユに惚れちまったんだ。ナユはほんとに魅力的だよ。それは兄ちゃんが俺にいつも話してただろ。ナユに会ったら俺も簡単に好きに なっちまった。だから兄ちゃん、俺にくれよ」
「何をバカなことを言うんだ。そんなことできる訳ないだろ」
「じゃあ、仕方ない。兄ちゃんから奪うしかないじゃないか。もう兄ちゃんの下で我慢するの嫌だ。俺、ナユを兄ちゃんから絶対奪ってやる」
 氷室は絶句してその後言葉が出なくなった。うめき声に似た声だけが苦しく息をするように漏れていた。
 凌雅は、氷室など隣に座ってないかのように無視をして、冷淡に前を見て運転する。
 氷室のマンションの前に着くまで二人はその後無言だった。
 そして氷室が車から降りるときも無言は続く。だが、二人は厳しい顔つきで暫く睨み合う。
 氷室が下車して車のドアを閉めると、凌雅は置き去りにするようにさっさと去っていった。
 氷室はその車を見えなくなるまで見つめていた。
「悪い冗談だろ」
 スコットと張り合うより性質が悪いと、苛立ちで氷室は地面を蹴ってしまった。

「とうとう言っちまった」
 凌雅はハンドルを切りながら独り言を呟く。
 ずっと我慢してきたことをこれ以上胸に留めておくことはできなかった。
 なゆみにも兄弟だから似ていると言われ、氷室抜きに自分のことを見てくれないもどかしさと、長年ずっと抱いていた氷室に対するコンプレックスが爆発して しまった。
 一人になって暗い夜道を運転しながら、言ってせいせいしたとばかりに、鼻で笑ってしまう。
 そして過去の自分がしてきたことを振り返る。
 氷室が一時期、挫折して沈んでいたとき、正直凌雅はやっと自分と同等、または自分が兄貴を越えるときだと思っていた。
 凌雅も悩みながら、常に兄を目標として絶えず努力はしていた。
 ちゃらちゃらとした軽いところはあっても、内面は負けず嫌いでやることはきっちりとする男だった。
 大学も学科は違えど氷室と同じところに入学し、少しでも劣ることなく氷室と同等の地位に居るつもりだった。
 だが心は満たされない。
 氷室がやってきたことに対抗してしまい、それが完全な真似であることに絶えず氷室の後を追ってしまっていることに過ぎなかった。
 高校の時から友達と組んでいたバンドに熱中するときもあったが、好きなことにのめり込めば勉強がおろそかになると、100%力を注げないもどかしさで葛 藤するときもあった。
 それでも凌雅の音楽の才能は周りの目から見れば充分形になるもので、ライブ活動も時々行い、凌雅のファンは増えていった。
 そして群がる女の子達を相手に凌雅も拒むことなく相手をする。
 特定の彼女など作らなくても、ただ凌雅に相手して欲しいだけで、簡単に寝る輩が一杯だった。
 凌雅はそれをとことん利用した。
 自分がちやほやされる優越感とまだ若さゆえの活発な性欲も満たされ、複数の女性を抱く回数が男としてのステイタスと感じる粋がった頃でもあった。
 氷室も過去に色んな女性と付き合っていたのを見てきたことから、自分の方がモテるなどと張り合う部分もあった。
 しかし、それもあっさりと崩れ去ったのも氷室が真剣な恋をしているのを知ったのが一因だった。
 そうなると急に自分がしていることが虚しくなってくる。
 またその前に氷室から女に関しては自分を超えてると面と向かって言われたとき、凌雅はそれに関してだけしか兄を超えられないと強く主張されたみたいで無 益さを痛感してしまった。張り合っていた自分が情けなくなった瞬間だった。
 大学を卒業後も、父親のコネもあり一応有名企業に就職できた。
 茶色に染めていた長めの髪も黒に戻してさっぱりと切り、そして出世を目指し、身の回りの素行も正して真面目に仕事に取り組んでいた。
 これも氷室に負けたくない、氷室から羨ましいと思われるためにエリートを辿っている自分を見せ付けたかっただけだった。
 全てにおいて氷室の行動が凌雅を左右してしまっていた。
 大きな転機に恵まれたときですら自分で決断を出すのを戸惑うくらいに──。

 ある日、ライブを見に来ていた音楽プロデューサーから契約の話が舞い込んだ時もそうだった。
 バンドメンバーは興奮してやる気満々になったのに対して、凌雅は簡単に承諾をしなかった。
 当然周りの者は凌雅を責め、この上ないチャンスを棒に振るようなことをする凌雅に腹を立てるものまでいた。
 しかし凌雅は慎重だった。
 いくら音楽が好きだからと言って、それで本当に成功するのだろうか。
 もし失敗したら、全てを棒に振ってしまう。
 なぜここまで頑張ってきたのか、全ては氷室が前を歩きそれを追い越すためだった。
 氷室が居なければ、自由に、自分の思いのままだけに好きなことができていたはずだった。
 比べられることに対して負けたくない、つまらない弟としてのプライドが、その先を自由に歩むことを阻んだ。
 そして凌雅が出した決断は、バンドを辞めるということだった。
 契約の話を前にその決断をしたことはバンド仲間と縁を切ることにも等しく、凌雅は好きだったことをあっさりと捨ててしまった。
 そんな時、氷室はなゆみと知り合っていた。
 心のままに素直に恋に落ち、高校生のようになりながら一生懸命になる氷室の恋を聞かされた。
 表向きはせいぜい頑張れと応援はしてみたものの、真剣に恋をしている氷室が気になり、そして氷室がアメリカから帰ってきた直後からまた再び悪夢にうなさ れてしまった。
 なゆみがお土産として氷室に手渡していたギターのキーホルダーを手にしたとき、暫く黙り込んだのはちょうど音楽を諦めてしまったことに悩んでい たときだった。
 そんなときになゆみと氷室が描かれたあの絵を見せられ、そこに見えたものは凌雅が決してまだ手にしたこともないものだった。
 そして次々になゆみの写真を見せられると、氷室が惚れ込んでいるなゆみの魅力が自分にも伝わってくる。
 また氷室が手に入れたものがいつものように羨ましく、折角追いつ いていたのに大きく引き離されてしまったように思えた。
 凌雅の頭の中にはなゆみという存在がそのときから植えつけられ、氷室から聞く話で見えてくるなゆみの人物像は益々凌雅の中で膨れ上がる。
 そしてなゆみが帰国したあの日、初めて会ったというのに凌雅は簡単に好きになってしまった。
 見掛けも充分かわいく、性格も自分の描いてた通り以上の素直さ、兄の彼女という手に入れられないもどかしさが火をつけてしまい、一気に恋心が燃え上が る。
 一時は気持ちを抑えていたものの、氷室が凌雅の前でなゆみといちゃつき自慢をするのが見せ付けられているようで悔しい。
 氷室にまた対抗心が芽生えるきっかけとなり、そしてとうとう宣戦布告した。
 兄に負けたくない、弟としてのプライドがそこにあった。
「兄ちゃんばかりが欲しいものを手にするなんて許せない。俺だって欲しいものは奪ってでも手に入れる」
 憧れと嫉妬が渦を巻き、時には慕い、時には憎みどちらも両立してしまう状況で心は常に葛藤していた。
 はっきりと自分の立場を氷室に吐き出したことで、自分の取るべき対応がこれで統一された。
 凌雅のハンドルを握る手に力が入ってしまう。
 それは徹底的にやり合おうとしている凌雅の覚悟だった。
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