Temporary Love3

第三章

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 なゆみはまだ少し熱があり体もだるく、頭も物が落ちてきてズキズキと痛むので、氷室に抱えられてベッドに横にならせてもらった。
「なゆみさん、大丈夫ですか? 本当にごめんなさい」
 敦子が目に涙を溜めて心配している。
「いえ、大丈夫です」といいつつ、こんなことになったのは自分がここに来たせいなのかと思い、落ち着かない。布団を整えてくれる氷室の手を掴み無意識に 握ってしまった。
 京はなゆみの気持ちを汲み取ると、敦子の肩に手を置き、部屋から去ることを催促して二人は黙って出て行った。
 暫く静かになった部屋で、なゆみと氷室は見つめた。
「氷室さん、私、なんて言っていいのか」
「いいんだよ、心配するな。凌雅のことだ。またケロッとして元に戻るよ」
「でも……」
「これでよかったんだよ。今まで凌雅と殴り合いの喧嘩なんてしたことなかったんだ。年も離れていることもあり、俺はいつも我慢していた。どこかで兄でいな ければならない、そして弟のために折れなければって思っていたんだ。凌雅はそれが嫌だったんだ。そうされると俺の方が常に上の立場だって主張しているのと 同じことだから。俺も悪かったんだ」
「氷室さん、私兄弟が居ないから兄弟のことはよくわからないんですけど、でも氷室さんと凌ちゃんみてたら羨ましかったです。私も兄弟がいたら楽しかっただ ろうなって、そう思わせてくれました」
「そうか。でもお前に姉や妹がいたら、俺、誰を選ぼうか迷ってたりして」
「えっ!」
「ははは、そんなことあるわけないだろ。いくら凌雅がお前を好きになっても、お前は迷わないだろ。それに俺の場合、スコットまでしゃしゃり出てくるんだ ぞ。それで も気持ちは変わらないだろ」
「はい。もちろんです。私はどんなことがあっても氷室さん一筋です」
「よし、よく言い切った。偉いぞ」
 氷室はなゆみの頭を撫ぜていた。
「あの、氷室さん」
「なんだ」
「お願いですから、シャツ着て下さい。そんな格好で目の前に居られると、余計に熱がでちゃいます。なんか氷室さん、前よりも体が逞しくなってません? ド キドキしちゃいます」
「お前どこ見てんだよ」
「だって目の前にあるんですもん。見ないわけには……」
 そしてなゆみは手を伸ばして氷室の胸元あたりを触りだした。
「おいっ。バカ、やめろ、俺が我慢できなくなるじゃないか」
「やっぱり体締まってますよ」
「お前が病気じゃなければ俺は…… くそっ! いつか倍にして返してやるからな」
 氷室を虐めるのが快感になりそうなくらい、なゆみは氷室をからかうのを面白がった。油断していると、氷室が突然目の前に顔を近づける。
「病気を治す薬だと思え。それならこれくらい許されるだろ」
 そういうと、なゆみの唇を襲うようにキスをしていた。

 その次の日、台風はすっかり過ぎ去り、綺麗さっぱり洗浄されたように空には青空が広がる。
 氷室家も前日の騒ぎが収まり、落ち着いたかのように思えた。
 だが、凌雅だけはすっきりしない気持ちを抱えている。
 敦子が朝食の用意ができたことをドア越しに知らせても応答はなかった。
「凌雅、お腹が空いたらいつでも下りてきてね。なんでも好きなもの作るからね」
 母親として何かしてやりたい気持ちを持ちながら、何もしてあげられないもどかしさを抱えて、敦子は寂しく目を伏せた。
 そっとするようにその場を去ろうとすると、凌雅が「母さん」と部屋の中から呼んだ。
「はい。何? 凌雅」
 凌雅は少し間をあけて、そして再び口を開いた。
「ナユを呼んできてくれないか」
「えっ、なゆみさんを? でも……」
「頼む…… いや、お願いします」
 かしこまる凌雅に敦子は気持ちの変化を読み取った。
「わかったわ。伝えてくる」
 敦子は一階へと降りていった。

 なゆみの熱はすっかり下がり寒気も収まった。だが少し鼻がぐずぐずする。それを気にしながら紅茶を飲んでいた。
 氷室家にすっかり混じって、ダイニングテーブルで皆と朝食を取っている最中だった。
「あっ、そうだコトヤ、そういえばお前宛に郵便が来てたぞ。高校の同窓会の知らせって書いてあったな。そのの辺りの引き出しに封筒入ってるんじゃないか。 後で見てくれ」
 新聞を読みながら京が言った。
 その隣で氷室が答える。
「同窓会か、どうでもいいや」
 氷室と京は同じタイミングでコーヒーを飲んだ。
 そのしぐさが良く似ていたのでなゆみはくすっと笑ってしまった。
「なゆみ、何笑ってるんだよ」
「えっ、だってよく似てるんだもん。氷室さんってお父さん似なんですね」
 氷室と京が並んで座っている姿をティーカップを片手にじろじろ見比べていた。
「氷室さんもいつかこうなるんだ」
「お前な、勝手に決め付けないでくれるか。俺はこんなに老けるもんか」
「コトヤ、失礼な。私はまだ若いぞ」
 氷室親子のやり取りをなゆみは微笑ましいと思いながら、紅茶をすすっていた。
 敦子がそこにやってくると、京は凌雅の心配をした。
「凌雅はどうだった?」
「それが、なゆみさんとお話をしたいみたいで、呼んで来て欲しいって頼まれました」
 敦子は申し訳なさそうになゆみをみつめる。
「そんな。なゆみをライオンの檻の中にいれるのと同じじゃないか」
「氷室さん、そんな言い方するのやめて。きっと私にしか言えないことがあるんだと思う。私、行ってきます」
 なゆみはカップをカチャリとソーサーに置いて立ち上がった。
「じゃあ、俺も一緒に」
「氷室さんはここにいて。大丈夫だから」
「ごめんなさいね、なゆみさん。迷惑かけちゃって」
 敦子が謝ると、京も一緒に「申し訳ない」と頭を下げた。

 なゆみは凌雅のドアをノックする。
「凌ちゃん、なゆみです。入っていい?」
 「ああ」と凌雅の声がくぐもって聞こえる。
 なゆみはドアをそっと開けた。
 凌雅はやつれた表情でベッドの端に腰掛けていた。
「ナユ、ここに来てくれないか」
 凌雅が自分の隣を手で叩いていた。
 なゆみは恐れることなくそこへ腰掛けた。
「俺さ、ひねくれもんだから、思ったこと素直に口から出ない。でも、ナユには聞いて欲しい」
「うん」
「俺、自分が愚かなこと良く知ってるよ。自分が最低でいかに虚栄心を持っていたかわかってたけど、認めたくなかった。兄ちゃんに負けたくないってそればっ かり気にしてた。そして昨日暴言を吐いてしまった」
 凌雅はなゆみをじっと見つめた。その瞳から後悔しているのが良くわかる。
「俺、ほんと最低だよな」
「ううん、そんなことないよ。人は追い詰められるとついバカなことを口にしてしまう。でも反省しているのなら、きっと氷室さんは許してくれるよ」
「俺、ナユが寝てるとき、兄ちゃんの目の前でナユにキスしたんだぞ。それでも最低じゃないと言えるか」
「ええ! 私に、キス……」
 なゆみは驚いたが、全く覚えがない。
「凌ちゃん、それは私の知らないことだから、もうどうでもいい」
「ナユ。なんで俺を責めない。俺はナユに叱って欲しいのに。俺どれだけナユに酷いことしたと思ってるんだ? 尋常じゃない行為をしたんだぜ。そんなこと簡 単に忘れられるのかよ。あれ犯罪だぜ」
「なんだ、自分でわかってるんじゃない。もちろん私だって忘れてないよ。あの時は怖かった。でも、なんかどこかで凌ちゃんを信じてたのかもしれない。抜け てるっていつも言われるんだけど、懲りないっていうのか、鈍感っていうのか、どうしても人を信じちゃうんだ。傍から見たらいつも驚かれる」
「なんか、今ですら簡単にあっさりと言ってくれるよな。もし俺がほんとにナユを襲ってたら、どうすんだよ」
「今だから言えるのかもしれないけど、絶対氷室さんが助けてくれると思ってた」
「えっ?」
「氷室さん、必ず私の危機に駆けつけて助けてくれるの。あの時だってタイミングよく電話掛かってきたでしょ。なんていうんだろう、私はいつも氷室さんに守 られているって思うんだ」
「ナユ、なんかやっぱり、甘いよな。ほんと抜けてる。それじゃいつか泣きを見るぜ。いくらそう信じててもこの先はわからないじゃないか。もっと警戒心持て よ」
「あれ、なんか立場入れ替わってない? どうして私がお説教を?」
「ナユもだったら怒れよ! 俺に怒りをぶつけろよ。俺を責めろよ。そうじゃないと俺……」
「凌ちゃん、だからそれが逃げてるんだよ。自分の罪悪感を人に押し付けて叱ってもらっても、何も解決できないよ。悪いと思っているんなら、正直にそれと向 き合わないと。凌ちゃん、もう逃げちゃだめだ。氷室さんもそうだったんだよ。私と出会った頃は、自分が抱えていた問題から逃げようとして殻にこもってい た。あの時の氷室さんもかなり荒れてたように思う。でも氷室さんが変わったように、凌ちゃんも変われるよ。だって同じ兄弟だもん」
 なゆみは敢えて兄弟を強調する。凌雅は照れくさそうに笑っていた。
「ナユ。なんでナユは先に兄ちゃんと知り合ったんだろう。俺が先に知り合っていたかったよ」
「それはですね、エンジェルが私に導いてくれたの。私は氷室さんと会う運命だったの。だから凌ちゃんもきっとそういう運命の人がこの先待ってるよ。さあ、 前を向いて走るんだ! 凌ちゃんにはやるべきことがあるんだ」
 なゆみは芝居がかった言い方をした。
 凌雅は鼻で笑うしぐさをしたが、口元がかすかに震えていた。
 そしてなゆみに抱きついた。それは大切なものに出会ってお礼を伝えるかのような優しい触れ方だった。
「ナユ、ありがとう。俺、なんだか自分の夢追いかけて突っ走ってみたくなった」
「頑張れ、凌ちゃん。さあ、下に下りて朝食皆で一緒に食べよう。夢を追いかけるにはまず腹ごしらえから」
「そうだな」
 凌雅は立ち上がった、そして窓際に引っ掛けていたなゆみのTシャツを渡した。
「乾いてるぞ。だけど、そのチェックのシャツ、ナユに似合ってるから、やるよ。お詫びのしるし。酷いことしちまって本当にすまなかった」
「わかった。その詫び受け入れてあげる。これも遠慮なくもらっちゃう。ありがとう。もうこれでお互い嫌なことは忘れよう」
「ああ、そうだな。でも兄ちゃんに飽きたら、いつでも俺のところ来いよ」
「それはないよ。氷室さんのキスもかなりとろけちゃって、いつでもその気にさせられちゃうんだ。飽きることなんて絶対ない。いつだって夢中だもん」
「おいおい。言ってくれるじゃないか。だけど兄ちゃんはきっと上手いと思う。それは俺も前から思ってたんだ。年取ってる方が経験豊富だからな」
「えっ、それどういう意味」
「別に意味はないよ」
 凌雅は笑っていた。なゆみはまたやられたと、苦笑いになっていたが、凌雅の腕を取って、二人はダイニングルームへと一緒に向かった。

 二人がダイニングに現れると、京も氷室も動きが止まった。
 だが気にしていないフリをして、京は新聞を読み、氷室はコーヒーカップを口元に持っていく。
 凌雅がダイニングテーブルにつき、敦子がさりげなく料理がのったお皿をテーブルに置いた。
 凌雅はフォークを手に取り、静かに食べだす。
「母さんのキッシュはチーズが一杯入って美味しい」
「凌雅はチーズ大好きだもんね」
「俺にもコーヒー頂戴。それから兄ちゃんもいつまでも空のマグカップもって飲んでるフリすんじゃねぇーよ、お代わりしろよ」
 氷室はドキッとした。
「父さんも、いつまでも一面広告見つめてるんじゃねぇーよ。次のページめくれよ」
 京も慌ててしまう。
「あのさ、なんでそんなに気を遣うんだ。悪いのは俺だぜ」
 凌雅はいつもの調子でふてくされて言った。
「わかってるんだったら、謝れよ。俺を思いっきり怒らせやがって。今思い出しても腹立つ」
 氷室もそれに応える。
「やーだよ。人に催促されて謝れるか」
「お前、まだひねくれるか?」
「ああ、氷室家の血を引いてるもんでね。これだけは兄ちゃんに勝てる自信があるぜ」
「まだ、勝ち負けに拘ってるのか」
「いいじゃん、別にそれくらい。こんなの勝っても全然嬉しくないしな。兄ちゃんこそ、しっかりしろよ。ナユのことが絡むと、兄ちゃんはガキみたいに暴走す るもんな」
「なんで俺がお前に説教されないといけないんだ」
「弟だからだよ。兄ちゃんが心配なんだよ」
 凌雅が自ら弟と強調したことで、氷室はぐっと胸にこみ上げるものを感じ言葉に詰まった。その瞬間、自分も兄として全てを水に流せそうだった。
「兄ちゃん、俺、謝らねぇ。ナユを手に入れて、ヤキモチやいて悔しいし、やっぱりまだ素直になれない。でも、兄ちゃん、ありがとうな。謝る言葉より、こっ ちの方がいいだろ」
「凌雅…… お前は、ほんとにひねくれやがって」
 氷室は立ち上がり、凌雅の頭を抱えて拳骨をぐりぐりと押し込んだ。
「痛いじゃないか。何すんだよ」
「これくらいで済むことが有難いと思え。ほんとはもっと殴り飛ばしてやりたいぐらいだ。俺の目の前でナユにやりたい放題しやがって」
「やっぱりそれは許せないってか」
「ああ、一生許せねぇよ」
「これ! 二人ともやめなさい」
 京は父親らしい言葉を吐いたが、喧嘩を止める気はなさそうだった。新聞のページをめくりまた読み出した。
 なゆみは敦子と顔を見合わせ一緒に笑う。
 氷室も凌雅も血の濃さに関係なくしっかりとした絆で結ばれていた。
 兄弟っていいなとなゆみは思わずにはいられなかった。
 そして氷室家の台風もこれで去って行った。長年の問題は全て吹き飛ばされ、そこには絆といったものだけが残されていた。
 清清しい青空のようにみんなの笑顔が爽やかだった。
 なゆみは一人鼻をぐずらせて、くしゃみをしていた。
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