Temporary Love3

第三章


 土曜日の朝、この日もやっぱりなゆみは早起きだった。
 幸いなことに徐々に起きる時間がずれてきている。この日は4時に起床。
「いつになったら正常になれるんだろう」
 それは全てを含んでの落ち着いた生活のことを意味していた。
 やはり、ため息をつかずにはいられないほど、どこかすっきりとしない。
 夜が明けてもどんよりと暗く、風も出てきて吹き荒れている。
 まだ雨は降っていないので、なゆみは台風の接近を軽視してしまった。
 そしてできるだけ早く氷室の元に行きたいと、通勤の人たちと同じくらいに家を出てしまう。
 
 その頃、朝早くから氷室の携帯電話が鳴り出した。
 氷室はベッドから起き上がり、大あくびをして携帯電話を取る。
 「もしもし」と眠たそうな声を発すると、相手は嶋村社長だった。
「氷室ちゃん、休日にごめんね。この間の住宅の設計なんだけど、お客がまた注文つけてきて、至急変更して欲しいんだって。担当氷室ちゃんだから、私が勝手 に変更してもアレかと思って」
「えっ、またですか」
「午前中に事務所に具体的なことを言いに来るから、氷室ちゃん、ごめん、休日出勤お願い」
「わかりました、すぐに行きます。どうせ午後までには終わるでしょう」
 氷室は電話を切るとすぐに支度をする。
 なゆみにも一応連絡を入れたが、誰も電話にでなかった。
「あいつこの時間だと寝てるのか。仕方がない。後でもう一度連絡入れるか。どうせ来るのは昼からだろう。それまで戻ってくればいい」
 虎二も竜子も仕事があるので朝は早く出かけていた。そしてなゆみもすでにその時家を出た後だった。
 氷室はそれを知らない。
 氷室が外に出れば、ぽつぽつと雨が降り出し風が強くなっていた。
 荒れた天気を見て一瞬嫌な気分になってしまったが、頭を一振りして出かけて行った。

(氷室さん、朝早くに私が現れたらびっくりするかな)
 つり革を握り電車に揺られる中、氷室と会えることを想像するとなゆみはニヤついてしまう。
 通勤ラッシュの混雑した車両、浮いてはいけないとニヤつきを必死に押さえ窓の外を見ていた。
 外はすでに雨が降り出して、水滴が窓の表面を走り流れている。
 どす黒い天気が不安の要素を撒き散らすが、なゆみの頭には使命とでもいうべきことがこびりついていた。
 これから戦いに挑むような気分になりながら、ドキドキも一緒に抱えて心構えをしていた。
 駅から降りると、雨が横なぶりに降っている。その中で傘をさして小走りに氷室のマンションに向かった。
 氷室のマンションのドアの前に立ち、一度息を吐いて覚悟を決めたという瞬間、呼び鈴を押した。だが応答がない。その後も何度も呼び鈴を押してもノックを しても出てくる気配はなかった。
「あれっ? なんで?」
 なゆみは一旦そこから離れると、マンション周辺で公衆電話を探し、電話を掛けようと氷室の電話番号が書かれた紙を鞄から出した。
 たまたま、風が強く吹き、髪の毛を押さえて顔を背けた瞬間、その紙が手から離れて飛んでいってしまった。
「嘘っ! やだ、待って」
 すぐ側は車も激しく通るストリート。追いかけていけば車にはねられそうだった。タイミングが悪く、あっという間に紙は姿を消すように行ってしまった。
「どうしよう。番号覚えてない」
 仕方がなく、もう一度氷室のマンションに戻り、念のためドアを叩くがやっぱり居なかった。
 そのままじっと氷室のマンションの前で立って待っていた。
 雨はどんどんきつく降ってくる。
 玄関のドアは建物の中にあるのではなく、外に面していたので風も吹き荒れ、容赦なくなゆみに雨が降りかかっていた。
「氷室さんどこに行っちゃったの?」

 一方で氷室は事務所の中、口うるさい主婦と横柄な態度の夫を相手に、一生懸命耳を傾け注文を聞いていた。
 なゆみに連絡を入れたいのに、席を立たしてもらえないほど、この夫婦の話が途切れずに放たれ続ける。
 早く終わらせた方がいいと、氷室は集中してせっせと頑張っていた。
 やっと一通りの話を聞いて、これからプランを立て直すことを告げる。
 最初からやり直さないくらいの変更が生じ、すぐにはプランは立てられない。
 それも告げると、大まかな図面をこの日の内にファックスで知らせて欲しいと無茶な注文をつけられ、氷室は困り果てた。
 しかし、この夫婦は癖ありで、ここでできないといえば暴れそうだった。
 自分の会社なら断ることもできるが、雇われている以上それもできずに、氷室は心で泣いていても笑顔で受け答えしていた。
(なゆみ、今日も会えないぞ)
 夫婦が帰ると、社長に電話で報告する。
 そしてなゆみの家にも電話を掛けたが、やっぱり出なかった。
「やばい、もしかして家を出たのか」
 なゆみは家を出たところか、すでに氷室の部屋の前で雨に濡れながら待っている。
「あいつ、なんで携帯持たないんだ」
 連絡の取りようがなく、氷室も困り果てて、そして最悪の結論を出してしまった。
 顔を歪めながら、登録されている電話番号を探して電話を掛けた。
「もしもし、凌雅か」
 頼める相手は弟しか残ってなかった。そしてその弟は兄の彼女、すなわちなゆみを奪うと先日宣言したばかりだった。
「なんだよ。文句でも言いたくて電話したのか」
 凌雅はつっけんどんに返してくる。
「頼みごとがある」
「一昨日にあんなこと言われても俺に頼みごと? なんだよそれ」
「別に喧嘩した訳じゃないだろ。これは非常事態なんだ。なゆみが俺の部屋の前で待ってるかもしれない。だが、俺は急な仕事で家に今帰れない。すまないが、 俺の家まで行ってなゆみに今日は会えないと伝えて欲しい。伝えるだけでいいんだ。その後はすぐ帰ってくれ」
 調子のいい頼みだと氷室は承知していたが、さりげなくその後は速やかに帰れと指示も入れてみた。
「なんだそんなことか。わかった伝えてきてやる。但し、その後のことは指図は受けない」
 やっぱりそう来たかと氷室はわかっていたが、次は頼み込んでみた。
「おい、凌雅、頼む。なゆみに手を出さないでくれ。お願いだ」
 凌雅は鼻でふんと笑うとすぐに電話を切った。
 その時、氷室は「しまった」と思った。
 まだどこかで弟が自分を慕っていてくれてると思い込んでいた自分が浅はかだったと思い知らされた。
 凌雅は本気で氷室とやり合おうとしている。
 ようやく事の重大性に気がつく。
「俺、バカだ。仕事は家でやればいい」
 氷室は慌てて、必要なものをかき集め事務所を後にする。
 雨は強く振り出し、風も強く吹き荒れ、ビルの外に出たとたん荷物を握り締め踏ん張った。
「やっぱり俺、ついてない」
 向かい風に挑むように前へと進む、さらに駅に着けば、人でごった返していた。
 強風で電車のダイヤが乱れ、運転を見合わせていた。
 これでは凌雅よりも先に着けないと、タクシーに乗ろうとしたが、すでに乗り場は行列だった。
「おい、どうしてこうなる……」
 氷室は唖然として、また事務所に戻ってしまった。
 他に何か方法はないのか、なゆみからの連絡をとにかく待つ以外方法がなかった。
「あいつ、なんで携帯持たないんだ」
 何度この台詞を言っただろうと氷室も仕舞いにはイライラしてきていた。

 氷室の部屋のドアの前で溝鼠になったようになゆみはしゃがんでいた。
 どれくらい待ったかわからない。
 氷室に何かあったのかと心配しつつも、連絡の取りようもなく、信じてその場で待つしかなかった。
 縮こまっていると、エレベーターが上に上がってくるのに気がつき、なゆみは氷室だと思って立ち上がってエレベーターから出てくる人物に釘つけになった。
 ドアが開くとそこには知ってる顔があった。
「凌ちゃん!」
「よぉっ! おいおい、ものすごく濡れてるじゃないか。兄ちゃんも酷いな、ナユをこんな目にあわせて」
「氷室さんに何かあったの?」
「別に何もないよ。今日は用事ができたんだって。それでナユがここにいるから、俺が連絡係りで言付けを頼まれた」
「ありがとう。困ってたの。氷室さんの電話番号失くしちゃうし、連絡とれなくてどうしようかと思ってた。凌ちゃん、携帯持ってる? よかったら氷室さんに 電話して、私は大丈夫だからって伝えて欲しい」
「オッケー」
 凌雅は携帯を取り出し、電話を掛ける。
 それを暫く耳に当てていた。
「あれ、なんか出ない。今忙しいのかも。まあ後で掛ければいいじゃん。それよりもナユ風邪引くぞ」
 凌雅は嘘をついていた。最初から氷室に電話などかけていなかった。フリだけしてなゆみを欺く。そして氷室からの連絡を遮断するために携帯の電源を切って しまっ た。
「私は大丈夫。凌ちゃんわざわざありがとうね。私も今日は帰る」
「ちょっと待てよ、折角、俺と会ったんだ。俺んち来いよ。ギターも聞かせてやる」
「いいよ、凌ちゃんの家って氷室さんのご実家でしょ」
「いいじゃん。兄ちゃんの部屋、こっそり見せてやる。それに兄ちゃんの昔の写真もあるぞ」
 なゆみの興味を持たそうと氷室を餌に釣ろうとする。
「えっ、それは見たい。あっ、でも、氷室さん抜きで私はそこへ行けない」
「大丈夫だって。兄ちゃん、今実家の近くで用事してるから、終わったら実家にすぐに来れるって」
 これも嘘だった。ありとあらゆる手で凌雅はなゆみを誘うが、意外にもなゆみは首を縦に振らない。
 最後はもどかしいとなゆみの腕を引っ張りエレベーターに 乗って下までいくと、無理やり車に押し込んだ。
「凌ちゃん、ちょっと待ってよ」
 なゆみは強引に車に乗せられたが、逃げようとドアに手を掛けると凌雅が不機嫌な顔つきをしたので怖くなり、結局は氷室の実家でもある凌雅の家に行くこと になってし まった。
 凌雅の態度が何かおかしいと思いつつ、なゆみは何も言えなかった。
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