Temporary Love3

第三章


 敦子はどこに焦点を合わせることなく、ソファーに気だるく座って遠い過去を見つめるように話し続ける。 
「葵さんは高校でもマドンナ的存在で、男性からだけじゃなく女性からも慕われる人でした。あの笑顔を見れば誰しも心奪われました。それはあなたもよくご存 知でしょ」
 京は相槌も打たずに黙って聞いていたが、しっかりと葵の顔を思い描いていた。
「生徒会で副会長も勤めていたので全校でも葵さんを知らない生徒は居なかった。誰しも憧れて、私もその一人だった。ある日、雨が急に降って傘もなく諦めて 濡れながら下校してたとき、葵さんが後ろから傘を差し伸べてくれて一緒に帰ったんです。私はすごく嬉しかった。益々葵さんが好きになりました。それがきっ かけで、葵さんと仲良くなれたんです。私の事、”あっちゃん”て親しく呼んでくれたんですよ」
 敦子は高校生の当時の気持ちを再現するかのように笑顔一杯になっていた。
「私は、後輩として葵さんにとてもかわいがってもらえました。葵さんが卒業して大学に入学後も、友達として付き合いは続き、葵さんと時々出かけることもあ りました。殆ど私が無理に誘ってましたが、葵さんは嫌がることなく付き合ってくれました。そして、 あの日のこと覚えていらっしゃいますか。葵さんとあなたが混雑した駅でぶつかった事を。あのとき葵さんの持ち物が落ちてバッグから中身が飛び出して散らば りました。そ れをあなたは謝りながら拾っていた。それが葵さんと出会うきっかけでしたね」
「敦子、あの時お前も側に居たのか」
「はい、私は少し離れたところで見ていました。私はまだ高校生でしたから、幼いものでした。それにあなたは葵さんの美しさに見とれて他の事など見えてない ようでした。あなたは葵さんのコンパクトミラーを壊してしまって、それを弁償するからと電話番号を無理やり聞かれましたね。その後連絡を取り合い、そして あなたが葵さんと恋に落ちるのに時間はかからなかった。あなたは葵さんと付き合い始め、それから葵さんはあなたのことばかり私に話しま した。そしてそんな話を聞く度、私の中でもあなたの ことが膨らんでいった。あなたも今のコトヤさんみたいにハンサムでかっこよかった。だからあなたを偶然町で見かけたとき、つい後をつけてしまったのです。 それ からです。あなたの知らないところで私は隠れてあなたを追い かけていたんです。私もいつの間にかあなたに淡い恋心を持ってしまいました」
「敦子……」
「最初は憧れの葵さんとあなたの幸せを応援してるだけで満足でした。でも、葵さんがあなたの子を身ごもったと言ったときショックでした。それと同時に嫉妬 が湧き起こったんです。葵さんは大学を中退してあなたとの結婚を決めた。ほんと不思議ですね。憧れが妬みに変わるなんて」
 京は言葉も発せられず、淡々と語る敦子の話を息を飲んで聞いていた。
 そしてそれは凌雅も同じだった。
「その後あなたは晴れて司法試験に合格して弁護士になり、コトヤさんが生まれた。生活の基盤が整ってなかったのもあり、籍は入れても結婚式は挙げませんで したね。それでも葵さんはとても幸せそうで、本当に羨ましかった。私、すごく妬ん だんですよ。葵さんが不幸になればいいのにって」
「敦子、もういい、やめなさい」
「そしたら、葵さん、ほんとに病気で死んでしまった。そして私、それを利用してしまいましたの。あなたに近づこうとして、それから運良くあなたの事務所で 雇って もらえた。あなたのことは葵さんから聞いていたので、あなたの趣味も好きなものもなんでもわかっていた。あなたは私と話が合うと思って興味を持って下さっ た。私も葵さんの代わりになりたいって思ってました。そして願いが叶い、あなたと結婚できました。だけどコトヤさんは私には懐かなかった。それもそうで しょう。私はコトヤさんの母親を妬み、そして不幸になればいいと願ったんですから、要するに葵さんが亡くなったのは私のせい…… コトヤさんはどこかでそ れを感じていらしたんです」
「何を言うんだ」
「私はあなたの近くにいても、どんなにあなたを愛しても、絶対葵さんには勝てませんでした。あなたは葵さんを忘れることはなく、コトヤさんを見つめながら いつも葵さんを思い出していました。私はそれを見る度に悲しく、決して心が満たされることはありませんでした。そうなると私はコトヤさんと益々接すること ができなくなった。それから私も凌 雅を授かったことで要らぬ気持ちがふっと浮かんでしまいました。私が葵さんに勝てないのなら、凌雅に葵さんの息子であるコトヤさんを超えて欲しいと……」
 凌雅はぐっと歯を噛み締め、声を出しそうになるのを堪え体を奮わせた。凌雅はそれ以上聞くことを我慢できずにまた二階へ戻っていく。突然耳にした過去の 真実に驚き、自分の問題と重ねていた。
 敦子と京は更に各々の思いをぶつけ合う。
「敦子、それは間違っている。私はお前を愛しているし、コトヤも凌雅も私にとってはどちらも愛する息子達だ。二人とも本当に良くできた息子達だ。母親が 違ってもだ」
「でもあなたは私よりも葵さんを愛していらっしゃる。亡くなった人には絶対に敵わないんです」
 京が何を言ったところで敦子は平行線を辿っていた。
 暫く二人は黙り込んでしまった。
 京は敦子からの話を聞いて過去のことを思い出し、自分が何を見ていたのか考えている。
 二人の間には重苦しい空気が漂い、敦子は隠していた事実を述べたことで京の反応を気にしている。
 京が再び話し出すまで大人しくじっとしていた。

 凌雅は思いつめた顔をして自分の部屋へと向かう。
 途中廊下で「くそっ」と声が出て、もやもやした感情を吐き出し、そして部屋に入ると思いっきりドアを閉 めていた。
 氷室は凌雅の苛立った声が気になり、自分が篭っていた部屋のドアを開けて覗いた。
 凌雅が自分の部屋に入った形跡を見て、氷室はなゆみの様子を見に行った。
 静かにドアを開ければ、なゆみは寝ていたが、時々うなされて声が漏れている。
 額に乗せていたタオルがずれ、床に落ちていたので、それを拾い、そして水が入った入れ物を手にした。
「水取り替えてきてやるからな」
 それを持って氷室は一階へと降りていく。
 そして今度は氷室が敦子と京の会話を聞いてしまった。

「敦子、確かに私も正直、お前の前では葵のことは触れたくなかった。気を遣っていたのは認める。仕事も忙しかったというのもあり、家のことはお前に任せっ きりにしてしまったのも事実だ。本当にすまなかった」
 そして京は敦子の全てを受け入れ、京も胸の内を吐露する。
「私は確かに表面しか見てなかった。家庭内では揉め事を避けたいと思っていたところがあった。敦子が来てくれたお陰で母親ができたと安心してコトヤの事を お前に任せっきりにしてしまったが、コトヤも物分りがいいと勝手に思い込み、二人なら上手くいくと思っていた」
「そして私とコトヤさんがギクシャクしていたのをあなたは知らなかったと仰るの?」
「気はついていたが、それは最初のうちで慣れると思い込み、そしてコトヤにも母親と思えと言い聞かしては、多少のことは我慢しろと押し付けていた」
「そして、そのうちあなたは見て見ないフリをしていったのね」
「コトヤは自分の母親の葵に拘っているのはわかっていた。それは無理もない。自分の本当の母親だから。私もコトヤと一緒にいるときはその気持ちを大切にし てやりたかった」
「その時、私はあなたがコトヤさんを見つめる目から葵さんを感じてしまったという訳ね」
「凌雅が生まれたとき、これで敦子とコトヤの共通点ができたと思った。家族として上手くやっていけると思った。そして幸いコトヤは兄として凌雅をかわい がった」
「だからそれはコトヤさんは半分しか血の繋がってない弟だから、気にして無理に穴埋めをしようとしただけと言ったでしょ。血の繋がらない母親、仕事が忙し く構ってもらえない父親、唯一自分の居場所を作るには弟の凌雅が自分に懐くことしか残されていなかった。凌雅にはどうしても好かれたかったと思うわ。でも それを私が邪魔してしまった。私は凌雅にコトヤさんを超えるようにとそればかり言い聞かせてしまった。そして凌雅も半分しか血の繋がらない兄の存在の大き さに劣等感を感じてそれを抱きながら自分を誤魔化していた。私が二人の関係をぎくしゃくさせた。私が葵さんに拘るあまり、全てを最悪に導いてしまった。あ なたは私なんかとは結婚しなければよかったんです。コトヤさんが思春期の頃荒れてしまったのも、そして今日二人がこうなってしまったのも全て私のせい」
「敦子、そう思うのはやめなさい。責任は私にもある。私が本質を知ろうとせずにいたことが原因だ。全てを丸め込もうとしてしまった。敦子には葵のことには 一切触れず、気を遣い過ぎた。コトヤには我慢を強制し、一方で凌雅には甘やかし過ぎてしまった。でもこれだけはわかって欲しい。敦子もコトヤも凌雅も私は 皆愛している。大切な私の家族だ」
「でも一番大切なのは葵さんでしょ。私はその葵さんに不幸になれって願い、彼女は亡くなってしまった。やっぱり私が元凶の他ならない。私のかつて抱いた嫉 妬でここまで狂わせてしまった」
「敦子、自分を責めるのはやめなさい。何の解決にもならない。こんなことを言えば、私はまた敦子を苦しめるかもしれないけれど、でも聞いて欲しい。私は卑 怯だと言われるだろうが、正直、敦子も葵もどちらも愛している。葵は瀕死の瀬戸際で私に言ったんだ。『もし誰かあなたを好きになる人が現れて、あなたも その人が好きになったのなら、それは 私が送りこんだ人なのよ』とな。葵は先に逝ってしまうことから、私に自由になって欲しいと願ってくれた。私に残された長い人生を好きに生きて欲しいと願っ て息を引き取ったんだ。私も葵を失ったときは辛かった。だけど葵が残してくれた言葉の意味をずっとずっと考えていた。そしたら葵が自分を見守っていてくれ てるように思えるようになってきたんだ。もし葵が私の幸せを願っていつか誰かを送り込んでくれたとしたら、私は素直に受け入れようって葵のお陰で思えるよ うになった。そして敦子が私の前に現れたんだ。その時私は敦子が葵の言った送り込んでくれた人じゃないだろうかと思ってしまったんだ」
「あなた……」
「その後一緒にいる時間が長くなり、偶然お前と仕事中にぶつかった時、葵に『この人よ』って言われた気になった。そしたらお前に恋をしたんだ。するとお前 も私を愛してくれた。嬉しかったよ。葵もきっと喜んでくれているって素直に思えた。私達は葵に導かれて出会ったんだと思う。そうじゃなければ、敦子は私の 事務所に採用なんてされなかったんじゃないのか。私はそう思うよ」
「あなた……」
 その時、敦子は高校生のとき葵によく言われた言葉を思い出した。
『あっちゃんが大好きよ』
 敦子は震えながらソファーから立ち上がると、京が近づいて支えた。
 京の腕に抱かれて敦子は泣きじゃくる。葵が残してくれた言葉が敦子にも届いて全てのわだかまりが流れ去っていく。涙が洗い流してくれた。
 父親の本心を聞いてしまった氷室は、手に持っていた自分の姿が写り込んだ桶の水面をじっと見つめながら暫く考える。
 母、葵は、父、京の心から忘れ去られた訳ではない。
 京が敦子を大事にしていたのは、葵の願いでもでもあったのかもしれないと心によぎる。
 京も悩み、そして氷室は父の苦悩を理解できるほど成長していなかった。
 京と敦子に対しての以前抱いていたわだかまりが不思議なほど軽減されていく。
 氷室は邪魔をせずにそこを通り過ぎ、水を取替え、そしてなゆみの寝ている自分の部屋に入っていった。

 なゆみはうなされていた。
「大丈夫か、なゆみ」
 氷室は水で絞った冷たいタオルを、額に乗せてやった。
 なゆみは寝息のような、喘ぎ声のような小さな声を出しては、なんだか震えていた。
「苦しそうだな。まだ寒いのか?」
 氷室はシャツを脱ぎ、肌を露にすると、なゆみの隣に潜りこんだ。
「今は下心ないからな」
 できるだけくっつきなゆみを抱きしめ暖めていた。
 そして氷室もなゆみを抱きしめていると次第と心安らぎ、いつしかうとうとしだして眠りについていく。
 そうやって寝ていると、なゆみは氷室のお陰で徐々に体が暖められ、次第と汗を掻いてきた。
 そしてぱっと目が覚め、横で誰かが寝ている姿に一瞬ドキッとしたが、氷室だったのですぐに安心した。
「暖かいはずです。氷室さんがいたんだから。やっぱり猫よりも氷室さんの体がいいです」
 なゆみが頭を上げると、額からタオルがずれた。それを手にして微笑んでしまう。
 看病していてくれたことが嬉しかったからだった。
 氷室を起こさないようにそっとベッドから出た。トイレに行きたい。
 こっそりと部屋から出て、一階へ降りて行った。

 一方で、凌雅は薄暗い自分の部屋のベッドの上に寝転がり、黙って考え事をしていた。
 敦子から聞いた話は衝撃的だった。ずっとそのことが頭でぐるぐるする。
 前妻を気にするという再婚に必ずと言って付きまとう後妻の立場のことはなんとなく理解していたつもりだが、そこに根深 い敦子の過去の思いが含まれていたことに驚きを隠せない。
 執拗に兄の氷室を越えろといわれ続け、半分しか繋がらない血に拘り、そして比べられて抱く劣等感を植えつけたのは母親である敦子のせいだけではなかった と気がつく。
 敦子が置かれた立場を聞いて、それが自分の立場と重なる。
 敦子が葵に憧れたのと同じように、凌雅も兄、氷室に憧れた。
 そして自分もそうなりたいと思っていたのに、超えるどころか近づくこともできないとわかるとそれが嫉妬に変わっていった。
 その原因は自分にあるというのに、全てを敦子に擦り付けていた。
 自分で醜い心を持ってしまったことを認めたくなかった。人からそうするように仕向けられたと思うことで自分は悪くないと自分を守ろうとしていた。
 ずっと反抗してきた敦子に向けた苛立ちは、自分自身が抱いた劣等感を人のせいにして逃げるためだった。
 凌雅は根本的なことに気がついたところで、反省することなどしない。寧ろ全てを受け入れた。
「そうさ、俺は兄ちゃんに嫉妬しているのさ」
 氷室が持っていたものを子供の頃から凌雅は常に欲しがった。
 氷室が持っているものは全ていいものに見えてくる。
 そしてなゆみのこともやはりそうなってしまった。
 凌雅は突然笑い出す。
 自分でも気が狂れたかというくらい自覚して笑っていた。
「俺は力ずくでもなゆみを手に入れてやるよ。兄ちゃんから絶対奪ってやる」
 凌雅の感覚はすでに麻痺していた。やりきれない思いを何かにぶつけたい。むしゃくしゃとした気持ちが凌雅を暴走させてしまう。
 兄のこの呪縛から逃れようと血迷っていた。
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