Temporary Love3

第五章

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「あいつ、最近連絡くれないな。仕事忙しいんだろうか」
 息抜きに首を左右に傾け、氷室はデスクで図面を描きながらぼやいていた。
 あれだけ痛かった打撲も日が経つと、痛みは消え、受けた傷もうっすらと跡形が残ってるだけになっていた。
 そこに順子がお茶を持ってデスクに置いた。
「氷室さん、体の痛みはもう大丈夫ですか?」
「はい。お陰さまで」
 きっちりとした理由を告げずに、山に登って転げたと嘘をついてたので氷室は慌ててしまう。
 そしてお茶を手にして飲んでその場を凌ごうとする。
「あまり無理をしないで下さいね。彼女も心配しているだろうし」
 順子の気遣いに氷室は苦笑いになって答えていた。
「そういえば氷室ちゃん、いつ彼女を紹介してくれるんだい? 待ってるんだけど。今度よかったら皆で一緒に食事でもいかないか。ねぇ、順子ちゃん」
 会話を聞いていた嶋村社長も首を突っ込む。
「あっ、それいいですね」
 順子も楽しみだと微笑んでいた。
「そうですね。ありがとうございます」
 氷室もそこは有難く受け取る。
 ここで働いて穏やかな気持ちになれるのもこの二人がいい雰囲気を常に作ってくれるからだった。
 相変わらず嶋村社長と順子は仲がいい。
 この二人がどうなってるのか詳しいことはわからなかったが、本人達がいい関係を築いているのなら、氷室はそれでいいと思えるようになっていた。
 お互いが求め合い、そのときが来れば事は運ぶ。
 氷室となゆみの結婚が決まったように、そこに来るまでの過程というものは人それぞれのシナリオが用意されている。
 結ばれるならば、それは運命という道しるべがそこへ導いてくれると、氷室はお茶をすすりながら、嶋村社長と順子のやり取りを微笑ましく見ていた。
 そして、ふと事務所のデスクに置いてあったカレンダーを見て、自分の誕生日が近づいていることに気づく。
 そろそろなゆみからの連絡があっても良い頃だと思いつつ、またわざと焦らされている可能性も考えられた。
 特別なことをしようにも仕事が終わってからでは食事を一緒にとるくらいしかできないと、あまり期待はしていないが、誕生日くらいは覚えていてくれて いるだろうと氷室はなゆみからのアクションを待ってみようと思った。
 もしかしたら、当日何か企んでいるのかもとさえ期待を膨らます。
 こうなると氷室は自ら連絡ができない状態となり、ひたすらなゆみからの連絡を待つという男のプライドが見え隠れする。
「当日を楽しみにしておくか」
 お茶を飲みきってそしてまた仕事に取り掛かった。そう思うと氷室はやる気モードになっていた。

 しかしとうとう12月3日の当日となっても、携帯を手に入れいつでも電話ができるという状態なのに一行に連絡が入る気配がない。
「一体どうなってるんだ? 婚約してしまった後では俺のことはどうでもいいのか」
 つい愚痴が出てしまう。
 仕事を終え、電車に乗ろうと街を歩いている最中、痺れを切らした氷室はなゆみからの連絡を待ちきれずに自ら電話を掛ける。
 だが出てきた相手が竜子だったのでびっくりだった。
「あっ、氷室さん。なゆみ、携帯を家に忘れて出かけて行ったわ。持ちなれてないから、充電したまま忘れて仕事行っちゃったみたい」
「それじゃ、帰ってきたら電話して欲しいって伝えておいて下さい」
「あっ、それが最近仕事に追われて忙しかったんだけど、間に合わないから今日は急ぎの仕事で、小山課長、あっ、女性だから安心してね、その人のところで泊 まりこんで仕事するって言ってたの」
「えっ、そうなんですか。仕事なら仕方ないですね。また明日電話します」
「ごめんなさいね、氷室さん」
 氷室はがっくりとしてしまう。
 ふと頭を上げれば、こういうときに限って寄り添っているカップルが氷室の前を見せ付けるように歩いていく。
 寂しさが余計に募り、さらに寒さで自然と背中を丸めてしまった。
 虚しさの中、家に戻って一人で食事をするのなら、外で食事を済ませた方がまだましだと食べてから帰ることにした。
 腹ごなしは済んでも心は虚しく、自分の誕生日などどうでもいいことだが、なゆみが気にかけていてくれることを期待していただけに寂しさで大きなため息が 漏れた。
 そんな時、ふと目に付いたものがあった。それは男の欲望に応えるいかがわしい店のサインだった。
 軽々しくそういうところへ入っていく男を見ては、そういう世界で気を紛らわすのもありかもとお節介ながら肯定してやった。
 そう思うことで氷室は自分の虚しさを受け入れて弱音を吐いてもいいんだと思っていたのかもしれない。
 なゆみのことを思い、彼女の笑顔を思い出していたが、実際は男としてふと欲求不満さも募る。
 結局は軽々しく入って行った男が羨ましかったのかと思うと、なんだか笑えてきた。
 12月に入って冷え込んだ空気が冷たく、氷室はぶるっと震えてしまう。
 体を縮ませながら、マンションに戻り、そしてエレベーターから降りたとき、自分の部屋のドアの前に大きな塊があるのが目に入った。
 氷室が目を凝らして近づくと、それが動いた。
 すくっと立ち上がり、不満そうな声で氷室に喋りかけた。
「氷室さん、遅いじゃないですか。寒かったです。また風邪引いて熱でたらどうしてくれるんですか」
「なゆみ! 何してんだこんなところで」
「今日は氷室さんの誕生日だから、一緒に食べようと思ってケーキもって来ました」
「えっ、でも小山課長のところで仕事とかお母さんから聞いたぞ」
「あっ、電話してくれたんですね。すみません。携帯持ち歩く癖がついてなくて家に忘れてきました。でも氷室さんとうちの母が話したのならこれで完全なアリ バイですね。親には私がここに居ることばれてません」
「えっ? じゃあ、小山課長のところに行くというのは嘘だったのか」
「はい。ここへ来るために嘘つきました」
 嘘をつくことに少し気が引けながらも、少し照れて笑った顔がそうまでもしてここに来たかったと言ってるようだった。
 なゆみは未紅から泊り込みで仕事する話を聞くと、すぐにこの計画が頭に浮かんだ。
 絶対に仕事は余裕を持って終わらせて、この計画を実行するんだとずっと頑張っていたのだった。
 自分の思うように事が運んで、そして氷室の前になゆみは居る。
 全てが上手くいったと最後はVサインを指で作って氷室に突き出していた。
「なゆみっ!」
 氷室は感動して抱きしめる。
「それは後でいいですから、早く中に入れて下さい。寒くてたまりません」
 なゆみはブルブルと震えて、本当に風邪を引きそうになっていた。
「お前、熱出すなよ。こういうときに限って必ず何か障害があるんだから。すぐ風呂入って温まれ」
「えっ、もうお風呂ですか? 先にケーキで祝ってからその後で……」
「おい、なんか違うぞ。それは本当に純粋に風邪引いて欲しくないからそう思ったんだが」
「すみません、なんかもう今から緊張しまくりで」
「わかったから、早く中に入ろう」
 二人から自然と笑みがこぼれていた。

 なゆみは氷室の言うとおり、先に風呂に入ることにした。体が冷え切って、震えが止まらない。
 熱いシャワーを出してじっとしているだけでもじわりと体が温まってほっとする。
 風呂から出たときはピンクのキティちゃんのパジャマに着替え、リラックスモード全開。
 濡れた髪のまま氷室の前に出ると、氷室はドキッとして落ち着かなくなった。それを誤魔化そうと、無理に話題を振る。
「おい、もうパジャマなのか。しかもキティちゃんだし」
「はい。やっぱりネグリジェの方がよかったですか、スケスケの? これしかもってないもので」
「もうなんでもいいよ」
 後で脱いでしまえば何を着てても同じである。氷室はそう思ったに違いない。
 なゆみはケーキにろうそくを立て、火をつけ、氷室のためにバースデーソングを歌う。
 歌い終わった後、氷室は照れた顔でふーっと一息で火を消した。
「氷室さん、誕生日おめでとうございます」
「ありがとうな。今までの中で最高のバースデーだ」
「それとこれ、プレゼント」
 なゆみは申し訳なさそうに包装された小さな袋を氷室に渡す。
「ほんとにこれは気持ち程度だから」
 中を開けると新しいキティのキーホルダーが出てきた。
 氷室はそれをつまんで目の前で揺らして笑っていた。
「ありがとう。また大事にするよ」
 最高に優しく笑う氷室の笑顔はなゆみの心に火をつける。その勢いに乗って言いたかったことを口にしてみる。
「氷室さんへの本当のプレゼントは私だから」
 はにかんで気恥ずかしくも、なゆみ自身その気持ちに負けないようにと気力で踏ん張って氷室を見つめた。
 それはいつもの一生懸命な態度であり、どんなときにもまっすぐ氷室を思い続ける気持ちが瞳に込められていた。
「今、最高にぐっときたよ。まさに心を揺さぶらすプレゼントだ」
 氷室はなゆみを力強く抱きしめると、なゆみも負けずと抱きしめ返す。
 再び二人は見詰め合うと、キスを交わしていた。
 それは自然に、お互いが求め合い、そして二人だけの世界へと続くきっかけとなった。
 なゆみは氷室に身を委ねる。
 氷室のキスは情熱的で、それでいて手の指先は優しくなゆみに触れている。
 暫くそれが続いた後、ふわっとなゆみは抱きかかえられ、ベッドに下ろされた。
 上から氷室に見下ろされている。
 なゆみは頬を赤らめて小声でお願いする。
「あの、電気消して下さい……」
 氷室は笑っていた。そしてスーっと暗くなる。
 この時をとうとう迎えたものの、なゆみは本当は恥ずかしくて怖くて相当の覚悟をしていた。
 でもそれよりももっと強い気持ちがあった。
 それは自分が望んでいるということ。だから声に出していた。
「氷室さん、大好きです」
「俺もさ」
 氷室も壊れ物を扱うように丁寧になゆみを纏ってたものをはがし、一つ一つ思いの篭ったキスで露になった肌をなぞっていく。
 二人の思いが重なるように氷室となゆみの体もより一層強く密着していった。
 ゆっくりと時が流れるように氷室はなゆみを愛していく。
 肌と肌が直接触れ合うことがこんなに温かいことだとなゆみは初めて知った。
 そして知られざることも氷室を通じて色々わかっていった。
 その度にどうしようもなく声が漏れてしまう。氷室もまた労わるようになゆみを気遣っていた。
 愛があるからそれが愛しい好意だった。
 そして最後は、噂には聞いていたが、やっぱりなゆみも痛いと思わずにいられなかった。
 相当我慢しなければならなかったが、そこは氷室を受け入れたい気持ちが働いて、愛している気持ちと、愛されている気持ちが一緒になり、痛くてもなんだか 感動さえ覚えるようだった。
 氷室の息づかいがどんどん荒くなっていった。
 この瞬間が愛する人と一つになっているんだと心が満たされていく。
 氷室が最後に優しくなゆみの頬にキスをしたことで、なゆみの全てが愛しいと言われた気がした。
 なゆみも氷室も微笑んでいた。
 
「なゆみ、大丈夫か」
 頭を手で支えながらなゆみの隣で横になってる氷室が気遣う。
「あの、正直に言うと、大丈夫じゃありません。非常に痛かったです。まだそれが持続してます。氷室さんもう少し小さくなりませんか?」
「お、おいっ」
「すみません。でも本当に痛かったんです。大きすぎるんでしょうね」
「お前なそう言うこと、さらりと言うな。でもいつか慣れると思うんだが……」
「いつですか? まだ続くんですかこの痛さ」
「仕方ないな、初めてだったもんな。よく我慢した。ありがとうな」
「氷室さんが気持ちよかったならそれでいいです」
「おいっ、そういうこともさらりというな」
 なゆみは氷室に寄り添った。胸板が厚くそしてとても温かい。
 指でそっと触れながら、この人に抱かれたんだと愛の余韻を感じていた。
 そっと唇で氷室の胸に触れながら、暫く氷室の胸の中でまどろむ。
 その間、氷室はなゆみの頭をそっと撫ぜている。
 テーブルの上ではいつ食べて貰えるんだろうと、暗闇の中でケーキの白いクリームがぼわっと浮かんでいた。
 結局朝までそのままになってしまっていた。
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