Temporary Love3

第五章


 久々の二人っきりのデートが潰れ、これが余計な事に首を突っ込んだ代償かとなゆみは前日の飲み会のことを思い出す。
 お酒は飲んでなくとも、まるで二日酔いのような気分の悪さ。
 それは仕方がないとして割り切ろうと、会社に出勤して会う人次々に元気に朝の挨拶をする。
 デスクにつくとき美衣子にも挨拶したが、その挨拶に反応しないままどこかうわの空だった。
 またいつもの感情の波だと気にせず、なゆみはコンピューターの電源を入れて仕事の準備に取り掛かる。
 その時声がした。
「氷室さんって、素敵ね」
 うっとりとした瞳でトリップしている美衣子が呟いた。そして突然なゆみに突き刺さるような視線を向け、真剣に語りだした。
「あなたにはもったいない。ああいう男性はもう少し大人な女性じゃないと務まらないわ。私のようなね」
 白黒させた目を思いっきり美衣子にぶつけるようになゆみは絶句している。
 美衣子は確かに26歳で年はなゆみより5つ年上だが、だからといって自分が負けているとも思えない。
 美衣子は少しふくよかでぽっちゃりしている。最初はそこが親しみ易い印象を持ったが、本性を知ると今度は肉があるだけふてぶてしく厚かましいように見え てきていた。
 決して見かけを馬鹿にしている訳ではないが、常に力強く叩かれたり、自己欲が強い部分を見せられると、そのまんま体から滲み出ているように見えてきてし まう。
 なゆみは言い返したかったが、こじれてまた意地悪をされるのではと心配になってくる。
 こういう女性は後先のことを考えないと、どこで何が襲ってくるかわからない。
 慎重になりすぎてなゆみはまたいつもの悪い癖が出て我慢してしまう。同じ土俵に立ちたくない気持ちもあった。
 美衣子が氷室のことを話すときは耳を露骨に塞いで完全に無視をした。
 それが精一杯の抵抗だった。
 そんなわかり易いと思える態度で示しても伝わるどころか、美衣子はどんどんエスカレートしていき、おぞましいほどになゆみは震える。
 そして美衣子は自分の携帯で撮っていた氷室の写真を他の同僚に見せ、自分の彼と紹介しているところをなゆみは見てしまった。
 目の前の出来事が夢でも見ているようにあまりにもびっくりしすぎて、その場では何も言えずに、なゆみは悔しい気持ちを抱きながらも、ここまで平気ででき る美衣子に恐ろしさを感じてしまう。
 もしその時、氷室が自分の彼だとみんなの前で強く主張したら、恥をかかされたとでも思って後に刃物でも持ってきて刺されるんじゃないかと思ったくらい だった。
 こんなにも氷室に積極になる異常な女性が現れて、最大の危機に精神をついばまれそうになっていた。
 ふと美衣子のデスクの上を見たとき、氷室と美衣子の名前で相合傘が書かれていたメモを見つけ、なゆみはそれを手に取り握りつぶしてゴミ箱に捨ててしまっ た。
 このままでは自分がおかしくなってしまう。
 狂ったような妄想女を前にしてどうして良いのかわからないまま金曜日を迎えたが、肝心な氷室はまた仕事があるからと土日続けて会えないとその晩に電話を 掛けて言ってきた。
「やだ、氷室さん。私、どうしても会いたいです」
 なゆみは電話口で涙声になって訴えてしまう。
「すまない。どうしても急用な仕事で、仕方がないんだ。必ず埋め合わせするから」
「もう私のこと飽きちゃいましたか。いつまでも寝てませんもんね」
 なゆみは思うように行かない苛つきからつい暴言を吐いてしまう。
「バカ! そんなことあるわけないだろう。おれはいつもお前のこと考えてるよ」
「でももしかしたら、仕事は嘘で新しい人とデートなんじゃないんですか」
「なんでそう悪い方に考えるんだ。俺はお前のこと愛してるんだぞ!」
 氷室は結婚のために必死になってるんだと心の中で思いつつ、つい声を荒げてしまった。
「なんでそんなに怒鳴るんですか。必死すぎて余計に無理をしているように思えてしまいます」
「おい、いい加減にしろ。とにかく俺、明日は早いんだ。すまない。もう寝るからまたな」
「えっ、氷室さんっ!」
 逃げるように電話が切れてしまった。
 電話が切れた後はどっちも後味が悪い。
 氷室は自分のやってることが間違っているとすら思えてくる。
 どんよりとした気分のまま、次の日、力仕事をすることになんだか嫌な気分になってきた。
「俺、このままで大丈夫なんだろうか」
 ため息を深くついていた。
 一方でなゆみも大きなため息をついていた。
「氷室さんがどっか行ってしまいそう。もしかして別れの兆候? まさか私捨てられる……」
 なゆみはかつてこんなに心細くなったことはなかった。アメリカで過ごしていたときも、氷室と長いこと離れていたがこんなにも不安になった覚えがない。
 氷室を信じているとはいえ、何か隠し事をされているような気が拭えないでいた。
 まさかとは思うが、美衣子と会ってる可能性も否定できないと思えるようになってくるから、かなり重症だった。
 まだ携帯を持ってないのも不安の材料となり、常に氷室と繋がっていないことがこんなにも恐怖だとは思わなかった。
 携帯を持たない理由として、働いたばかりでお金がどれくらい自由になるのかわからず、無駄なお金を使うことを控えたかったからだったが、そうも言ってら れな い。
 切羽詰ってすぐに携帯を買う決心をした。

 そして次の日の土曜日、名の知れた店に入り、携帯を購入したいと言えば店員が喜んで接客してくれた。
 確実に買う客だとわかると、態度も良くなり、髪型がかわいいや、服のセンスが良いや、そしてなゆみの首に掛けていたエンジェルのネックレスも目に付くも の すべて褒めて、ご機嫌を取ってくる。
 それに言いくるめられ、色んな機種を目の前に、よくわからないままお薦めを訊いていたが、最新の機種の値段になゆみは少しびびってしまった。
 手続きを取れば今すぐに使えると言われ、もうなんでもいいと半分やけくそで店員が薦めるものを購入する。
 携帯を手でぎゅっと握り締め、これで氷室といつでも繋がると安心感を得て店を 出た。
 やっと手にした携帯はテカテカと眩しく、触っても見ていても嬉しくなってくる。
 不安から少し気が紛れ、どきどきして早速氷室の番号に電話してみた。
 仕事中でも少しは話せる余裕があるだろうと、街の中歩道から少し端によって人の邪魔にならない所で立ち止まり、たどたどしい指先で氷室の番号を入力して いく。
 きっと喜んでくれると思って掛けていたものだから、電話が繋がったとき、予期せぬ事態にその場で凍ってしまった。
 「もしもし」と聞こえた声は氷室ではなかった。
 女性の声だった。
(嘘、なんで? 掛け間違えたの?)
 なゆみが焦って、声にならない音を喉の奥から出していると、相手の女性は「もしもし」と何度も言ってきた。そしてなゆみは女性が言った言葉で間違いなく 氷室に 電話したこ とを認識した。
「氷室さんのお知り合いの方?」
「…… はい」
 奈落の底に落ちたような絶望的な震える声でやっと返事した。
「あーよかった。どうしようかと思ってたの。いい、落ち着いて聞いてね」
 落ち着けといわれても、なゆみは動揺しまくってすでに息するのも忘れていた。
 慌てて数回素早く呼吸をする。
 しかしその後、女性からの言葉でまたすぐに呼吸が止まった。
「氷室さん、事故に遭われて、今病院に運ばれたの」
「えっ!」
 女性が電話に出たとき以上に、心臓が飛び出たくらいの素っ頓狂な驚いた声を上げた。
 すれ違う周りのものが、変な目でなゆみに振り向いて歩いていく。
 なゆみはそんなことも構えず、青白い顔で驚愕の表情をしてフラフラと立っていた。
 そんな状況で聞いていると知らずに女性は更に話しかけてきた。
「氷室さんのご家族に連絡しようと、氷室さんの持ち物の中から携帯を出して見てたところだったのよ。そしたらあなたが電話してきたから…… あ の、お名前は?」
「私は斉藤と言いますけど、ちょっと、待って下さい。あなたはどちら様?」
「私は工事でたまたま一緒に働いていたスタッフなんだけど」
「えっ、工事?」
「そう、氷室さんブルさんの誘いで助っ人として働いてくれていたの。聞いてない?」
「ブルさん? 私は何も聞いてません」
 氷室が事故に遭ったと聞いてそれだけで思考回路がショートした状態になり、何をこの人は話しているのだろうと困惑する。
 話が見えない苛立ち、そして氷室を心配して張り裂けそうな気持ち、一番優先すべきことを考えると大きな声で叫んでいた。
「それで氷室さんは大丈夫なんですか!」
「お願い、まずは落ち着いて。あのね、木材が崩れて落ちてきて、その下にたまたま氷室さんがいて……」
「えっ、それって木材の下敷きになったってことですか?」
 電話の向こうで言い難そうな声で「そうなの」と帰ってきた。それと同時になゆみの顔からどんどん血の気が引いていった。
「あの、病院はどこですか」
 震える声だったが、しっかりしなくてはいけないとばかりになゆみは何度も病院の名前を確認していた。
 電話を切った後、タクシーを求めて走り続けた。

 氷室が大怪我をした可能性が高い。
 電話で話した女性も直接現場を見ていないので詳しいことは分からないと言っていたが、状況から考えれば気安く大丈夫だとは言い切れない様子だった。
 もしかしたら命に関わっているかもしれない。
 携帯を購入して初めて掛けた電話の内容が氷室の事故のお知らせ。
 こんなバカなことがあるかと、なゆみはうろたえる。
 しかも前日氷室と言い合った形で電話を切ってしまった。
 氷室を信用しなかった天罰が下ったというのだろうか。
 氷室が危険な状態だったらと、悪い方へと考えてしまう。
 当たり前のようにいつも助けて力になってくれた偉大な人。
 そして自分を愛してくれている。
 氷室に充分なことをしてあげたこともなく、いつも何かをしてもらってばっかりで、それなのに結婚はまだ早いからという理由だけでそのことから目を逸らし ていた。
 このときほど、自分がいかに何も真剣に考えてなかったか思い知らされた。
 以前両親に『結婚を考えてないのなら氷室と別れろ』と言われたことを思い出す。
 そのくらいの真剣な気持ちがなければ氷室と付き合う資格がないということだった。
 両親は遠まわしに言っていたことだとこのときになって気がついた。
 なゆみは目に涙を一杯溜めて、タクシーの後部座席で体に力を張り詰めながら乗っていた。
 教えられた病院に着いたとき、無我夢中で受付へと走り出した。
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