Temporary Love3

第五章


 次の日の日曜日になると、氷室の体は一層痛みが増していた。
「二日目がこんなに応えるとは」
「氷室さん、それって筋肉痛も入ってるんじゃないですか?」
 玄関までの通路の一部のようなキッチンからなゆみは顔を覗かせ茶化すように笑っていた。
 氷室の小さなキッチンで、できる限りの料理をなゆみは作っていた。
 電気コンロが一つしかないところでは炒め物くらいしかできず、しかも調理するところも狭くて四苦八苦していた。
 キティちゃんのエプロンをつけ、ちょこまかと忙しく動いているなゆみを見つめながら、氷室はもどかしい思いを抱いている。
「体が痛くなかったら俺は…… くそ」
 ベッドの上で横になり、氷室は吼えていた。
 料理を入れた皿を部屋に運び、それをテーブルの上に置いてなゆみは横になっている氷室をいたずらな笑みを浮かべて見下ろす。
「それじゃ、また氷室さん虐めちゃおうかな」
 なゆみは氷室に近づいて、軽くキスをした。
「おい、それじゃ足りない」
 我慢できずになゆみを引き寄せ、痛さに耐えながら濃厚なキスをする。
 その側でテーブルに乗った出来立ての料理が、二人の熱々ぶりに対抗して湯気を出しているようだった。
「氷室さん、料理冷めちゃうよ」
「俺は今こっちを食べたいんだ」
 氷室はニコッと笑うと、なゆみは恥ずかしそうにしながらも、今度は自分からキスをしていた。

 晴れて結婚の約束をした二人だが、まだ初めてのことがなされていない。
 二人はそのときがきたら自然にそうなると焦る気持ちはなくなっていた。
 なゆみもダイエットに励み、完璧なボディになる時間が稼げると良い意味で捉えられるようになった。
 プロポーズされ、そのときの幸せな気持ちがずっと持続する。
 そんなふあふあする気持ちを抱いていたが、会社に出勤して目が覚めるくらいまた悪夢にうなされた。
 美衣子のことを忘れていた。
 美衣子は相変わらず氷室は自分のものだと思い込んでいる。なゆみを見て薄ら笑いを浮かべているところが非常に恐怖心を植えつけられた。
 美衣子は現実と妄想が交じり合った中で生きられるタイプの人間というのか、自分の思うようにこれから事が進むと信じている。
 氷室に相手にされてるどころか、あれ以来会ってもないのに、どこからその自信が湧き上がるのか、非常に不可解だが、そこにはなゆみを見下している態度が あり、容易に奪えた気になっていた。
 なゆみは抜けていて、鈍感なために自己欲の強い女性からすると大したことがないように思えるのかもしれない。
 しかし氷室に愛されているのは自分であり、なゆみも氷室を愛している。
 美衣子にこれ以上やりたい放題にされるのは我慢できないととうとう反撃した。
「あの、美衣子さん。氷室さんは私の婚約者なんですけど」
 なゆみは美衣子に初めて苛立っている気持ちをぶつけた。
「ん? 婚約者? そんなはずないでしょ。婚約指輪貰ったの?」
「それはこれから一緒に買いに行く予定です」
「よくそんな嘘言えるわね」
「えっ、嘘? それは美衣子さんの方じゃないんですか。美衣子さんはなぜか脳内で勝手に妄想されてますが、氷室さんは私の彼氏ですけど。なんでそこまで言 い切れるんですか?」
「だって、初めて会ったとき、彼は私を見つめて目が離せなかったのよ。あの見つめ方は尋常じゃなかったわ。きっと運命を感じたのね。だけどすぐにはあなた に別れを言えないだけよ。気持ちは私に向いてるわ」
「いえ、それは勘違いだと思います。嫌な予感がして怖くて目が離せなかっただけかと」
 美衣子はむっとして、なゆみを睨み付け、今にも襲ってきそうなほど苛つきを見せていた。
 なゆみは怖くなり咄嗟に立ち上がり、その拍子にちょうど後ろを歩いていた未紅とぶつかった。
「すみません」
「どうしたの、斉藤さん。なんだか慌ててるけど」
 なゆみが言えないでいると、美衣子が調子に乗る。
「私の彼を婚約者だとか言うんですよ」
「梶浦さんの彼って誰?」
 未紅が質問すると待ってたとばかりに美衣子が携帯の写真を見せた。
「この人、氷室君じゃない。斉藤さんの彼氏よ。何嘘ついてるの? 良い機会だから言うわ。氷室君と私は高校の時の同級生だったの」
 未紅はなゆみが驚くかなといたずらっぽく笑ったが、なゆみもそれ以上にわざとらしい笑みを向けた。
「はい、それは気がついてました」
「なんだ知ってたのか。つまんない。もっと驚かせて焦らせたかったのに」
 そして美衣子に向かって未紅はつけたした。
「それからね。この私ですら過去に氷室君に振られたことがあるのよ。氷室君は斉藤さんしか見えないんだから。あなたがどんなにアタックしても無駄だからそ れ以上無意味な嘘 をつくのは止めなさい」
 美衣子は未紅から言われることでいきなり現実に引き戻されていた。とにかく未紅には頭が上がらない。
 未紅は頭がいい、容姿もいい、仕事もできて、全てを備え持った女性と美衣子なりに位置づけていた。
 そんな女性ですら氷室はなびかなかったのなら、それは説得力があった。
 お陰で夢見る乙女の野望はそれで簡単に崩れて行った。
「ところで、斉藤さん、氷室君と婚約したの?」
「はい。でもまだ正式な形はとってないんですけど、プロポーズはされました」
「そう。おめでとう。じゃあ、もうアレも済んだのね」
 未紅は最後だけ小声になってなゆみの耳元で囁いていた。
「いえ、それはまだなんです」
 なゆみも正直に答えすぎる。
「えー、あの氷室君がねぇ。ほんとによほど愛されてるのね」
「ただチャンスがないだけで、休みの日はスケジュールが合わないし、泊まりに行きたくても親に嘘つけないし……」
 未紅はかわいらしい悩みとばかりに微笑んで、なゆみを励ますように肩を数回優しく叩いていた。
 そして自分のデスクに戻ると、部屋一杯に響くように突然声を荒げた。
「さあ、よく聞いて。大きなプロジェクトが入ったわ。あまり時間がないから残業もあるかもしれないわよ。皆覚悟してね」
「忙しくなるんですね。はい、頑張ります」
 なゆみはやる気を見せていたが、美衣子はしょんぼりとしている。納得がいかないとなゆみを見つめていた。
 美衣子は気分転換に席を外し、とぼとぼと廊下を歩いていた。そこで鈴木部長とすれ違った。
 お互い挨拶をするが、どちらも気力の抜けた姿が気になり声を掛け合った。身分を越えて二人は慰めあおうと友達感覚でまた飲みに行く約束をしていた。

 仕事は未紅に言われた通り忙しく、そこに普段の仕事もこなさないといけないのでなゆみも四苦八苦してしまう。
 つい根をあげて未紅に愚痴ってしまった。
「これ、12月4日の期限までに終わらせられるんでしょうか」
「そうしないと困るわ。残業でも間に合わないのなら、斉藤さんが前日泊り込みで私のところに来て徹夜でやってもらうことになるかもよ」
「それは困ります。12月3日は絶対に残業したくないんですけど」
「じゃあ、つべこべ言わずに働きなさい」
「は、はい」
 なゆみは焦っていた。12月3日は氷室の誕生日であり、特別なことはできなくとも、側にいて食事くらいは一緒にしたい。
 泣きたくなる気持ちを抑えて、早く終わらせようとフル回転で働き出した。
「どうしても終わらせなければ」
 そればかり頭にあり、つい焦ってしまう。
 英文の書類を作成するときは、家にまで持ち帰って辞書を片手に格闘する。
 そして会社でもわからないことがあると、詳しい人のところへ行って訊いたりもしていた。
「斉藤さん、落ち着いた方がもっとはかどると思うよ」
 五島に声を掛けられて気遣いを受けたが、こっちは氷室の誕生日が掛かっている。気を緩めるわけには行かなかった。
「五島さん、今日中にこれだけは終わらせたいんですけど、この部分なんですが、違いがわからないんです」
 なゆみが質問すると、五島もそれなりに協力するが、それでは不十分だった。それならと自分の知り合いに詳しいものがいるとその人に訊けばいいと紹介され た。
「柴田っていう人がその製品について良く知っている。隣の部署にいるから、五島から紹介してもらったって言えば教えてくれるかも」
 その言葉を頼りになゆみは早速訊きに行く。
 事情を説明して誰が柴田なのかその辺の人に聞くと、指を向けられた先に髭が生えた男性が座っているのが目に入った。
 なゆみはおどおどと近づき声を掛ける。
 顔を上げた柴田はオタクっぽくぬぼっとして、更におっさん臭い感じが漂い少し引いてしまったが、なゆみは頼れるのはこの人しかいないと切羽詰って積極的 に質問してしま う。
 一生懸命話しかけてくるなゆみがかわいくて、普段から女っ気が皆無に等しい柴田はこの状況に快く協力していた。
 ただ専門的なことは得意とアピールしすぎて、はいはいと素直に聞いているなゆみに得意げになって話している姿は見ていて痛いものがあった。
 そんなこともどうでもいいと、問題が解決するとなゆみは頭を下げてお礼を言う。
 これで一つクリアーできてほっとする。
 つい仕事重視で手伝ってくれた柴田のことなど全く頭に残らなかった。
 結局は利用してしまって申し訳ないと後で菓子折りを持っていったが、本人が居なかったのでデスクの上にお礼のメモと一緒に置いておいた。
 なゆみはそんな調子で必死に働いていた。
 残業も続きそのため、家に帰っても疲れてしまい、氷室と連絡することもままならなかった。
 これも氷室の誕生日のためと、なゆみはできるだけ早く寝て疲れを取るのに必死だった。
「氷室さん、次連絡するときは確実に12月3日が会えるとわかったときですから、もう少し待ってて下さいね」
 まるで氷室と連絡を取らないことが願掛けのようにそんな思いを抱き、一日の終わりになると無事に切り抜けられることを願って毎晩寝床に入っていた。
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