第三章 惑わされて悩んで
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キスしたその夜は、心ここにあらず。
余韻がいつまでも残り、頭がぼーっとしてしまう。
お風呂に入るとき、バスルームの鏡に映る自分の姿が目に入り、特に唇を見れば自分でぽっと頬を赤らめては恥ずかしくなる。
私の顎を持ち上げたマシューの指。
またフラッシュバックしてしまった。
あの時は自分が人形のようになってしまい、こんなにも簡単に自分の意志とは反して首が動くものなんだと、鏡の前で首を上下に動かしてみたりした。
その後で、あの人差し指に込められた力を再び思い出し、誰かのものになったという支配感を得たように、無意識に唇を押さえ込んでいた。
私のファーストキス。
七面鳥さん、とうとうやってしまいました。
寝るまでその夜はぼーっとしたまま、ふわふわの状態だった。
寝不足だったからすぐに眠りについたけど、朝起きたら、なんだか全てが夢のように感じた。
朝、家を出て周りを見れば、世界が違って見える。
大げさだけど、何かが変化してしまった気分になる。
恋に慣れてなくて、そこに初めてのキス。
何度も反芻しては、一人でニヤニヤしてしまう。
あれだけ、怖がって、拒んでいたけど、いざやってしまった後は、結構気に入ってドキドキと何度も思い出して楽しんでる。
これでも精一杯のラインだとは自覚している。
出会ってこんなにも早く恋に落ちて付き合ってしまうこのとんとん拍子は、楽しい反面、これでいいのだろうかとも思える。
恋ってややこしい。
まず、相手が好き、相手を思う自分にも健気さを一人で感じ、恋する過程にまた憧れて妄想抱いて膨らんで、雰囲気に飲み込まれたこの時も、恋は盲目に自分の思いの中で育っていく。
いろんな事が重なるから、恋って力を持って人を変えてしまうのだと私は思う。
このふわふわした夢見心地が続けばいいのだけども。
マシューはどう思って一夜を過ごしたんだろうか。
ふわふわした状態で受けた授業。
友達からも、なんかおかしいねと指摘され、そんなことはないと一応否定してみるも、原因はよく分かっているだけに、全然説得力がない。
これだけ目まぐるしく展開すれば、影響力を受けないわけがない。
2月はバレンタインデーもあるし、まだまだイベントが続く。
このままずっと浮かれたままでいてしまうのだろうか。
そして、私は夏には帰国予定だし、マシューはあと2年はここで学生だし、こうなるとどうなってしまうのだろう。
身近な問題が目の前に現れると、なんだか急に現実に引き戻された気分になってしまった。
マシューの三十分の休憩。
私は一分一秒も無駄にしたくないと、早めに校舎の前に陣取り、マシューをじっと待っていた。
マシューも授業が終わったのか、一目散に私めがけて走ってきた。
沢山の生徒が集まっているだけに、さすがにキスはできないけど、ずっとお互い見つめて微笑み合う。
「(昨日は連れて行ってくれて本当にありがとう)」
「(僕の方こそありがとう)」
そんな会話ですら、楽しくて、愛しくて、ついつい自分達の世界に入ってしまう。
人ごみから少し離れて、校舎の影で二人地面に並んで座る。
「(もうすぐバレンタインズデーだね。その日はどうやって過ごす?)」
アメリカでは、一緒に皆で、誰もがハッピーに楽しく愛を語る日だから、恋人達は甘くこの日を過ごす。
マシューはもうすでにそれを視野に入れて、考えてくれている。
そんな日を一緒に過ごそうとしていると思うだけでも私は嬉しかった。
「(バレンタインズデーには無理かもしれないけど、今度一緒にディズニーランド行こうか)」
またマシューが提案してくれた。
これはすごく嬉しい。
ミッキーマウスは大好きだし、ディズニーランドも大好きだし、そこで二人で遊べるなんて、想像するだけで悶えてしまう。
「(妹と弟を連れて行く事があるから、僕もディズニーランドは大好き)」
マシューには年の離れた妹と弟が居てまだ小学生だという。
それは離れすぎと思ったが、親が結婚したときが18歳の時で、マシューはすぐに生まれたらしい。
それって高校生の時? と疑問に思いながら、敢えて口には出さなかった。
「(両親は早くに結婚して、今もとても仲がいいから、僕も早く結婚したいんだ)」
なぜそのような話をこの30分の休憩時間にするのだろう。
そして意味ありげに私を見て微笑む。
「(ねぇ、キョウコはいつか日本に帰ってしまうんでしょ。そしたら僕たちどうなってしまうの)」
それは私も考えたけど、私がすぐに答えを出せると本気で思っているんでしょうか。
言葉に詰まるし、しかも、親の結婚の話のあとにその話題を振るか。
それって結婚前提ってことなんですか。
まだ会って、1週間しか経ってないのに、男のマシューからこの話題を提供されるとは思わなかった。
「(それはそのときにならないとわからないし、出来るだけ長く居るようにしたい)」
「(うん、そうだよね)」
マシューは一層私に近づいてきた。
30分の休憩はすぐに終わってしまい、この後みっちりと授業が詰まってるマシューはとても残念そうに寂しい顔を私に向けていた。
「(明日は午後から時間が取れるから、また寮に来て)」
「(うん、分かった)」
沢山人がいる手前上、手を振って別れたけど、私はマシューが見えなくなるまでずっとその場に立っていた。
マシューが校舎に入って、周りの生徒達も、次の授業に姿を消して辺りがすっかり静かになっても、私はまだそこでじっと校舎を見ていた。
恋人を見送ることもまた、なんだか楽しいことのように思えた。