第一章 告白を受け入れたその日が・・・

1 
 衝撃的だった。
 その一瞬で──

 何がって、今俺、どしんと体に重い衝撃を感じた途端、腹に何かが突き刺さって、ただ驚くばかりで「えっ!?」って時が止まったように固まって動けない。
「うっ」
 息が喉から洩れるような、声が喉に引っかかって喘ぐような、そんな事しかできなかった。
 頭が真っ白になったと思ったら、腹が熱くなって、あとから思い出したようにつんざくような痛みに急激に襲われた。
「一体何が……」
 ぶつかってきたものが俺から離れたら、グッと腹に力が入ってその分痛みが増した。
 腹を手で押さえれば、ぬるりとした生暖かいものがまとわりついて、頭に疑問符が乱舞した。
 その手を見れば、赤く染まってて、まさかと思った時、俺は立ってられなくて膝を地につけて崩れ落ちた。
 目線がぐっと下がったその目の前には、誰かの足が不安定に立っていて、見上げた時、そいつは目を見開いて恐怖に慄いていた。
 そしてそいつの手には包丁があり、赤い液体が滴っていた。
「俺、刺されたのか?」
 そう思うと同時に意識が遠くなっていった。


「天見、一体どうしたんだ?」
 はっとしたその時、俺は立ちながら教室で皆からの視線を浴びていた。
 前を見れば、教科書を片手に持った先生と目が合った。
 きょとんとしてる俺を見て、先生が困惑して、顔を歪めていた。
「早く答えを言いなさい」
 黒板に書かれた問題を指差し、解答を急かされた。
 その答えは、一度解いた事があり、全然難しくなかった。
 それを言えば、先生は「よくできた」と感心するように俺を褒めた。
 先生はそのまま授業を進め、俺は椅子に座った訳だが、いつも見るお馴染みの教室の光景ながら、なんだか既視感があって、不思議な感覚にとらわれた。
 黒板の上に掛かっていた時計は、もうすぐ三時になろうとしていた。
 俺はそれをじっと見つめる。
 時計の長い針が12を差した時、6時間目を終えるチャイムの音が流れ、この日の授業が全て終わった。
 これも毎日同じことを続けているが、この時ほど、アレッと感じた事がなかった。
 変に腹のあたりが疼くような、ムズムズとした気持ち悪さにとらわれ、それを感じていると突然フラッシュバックして、さっきの映像が横切るように流れて行った。
 俺、刺されたんだっけ?
 どうやら俺は眠気に襲われて、授業中に悪夢を見ていたようだった。
 それにしてもあまりにもリアルで、衝撃的だった。
 何かのお告げか、前兆か。
 その夢の事を考えていたら、ビジョンが二重になってずれて、最後はぼやけてあやふやになっていく。
 俺は思わずしっかりしろと、自分で頭を叩いてしまった。
 調子の悪い機械を叩いて直そうとする感じ。
 体が揺らつく、まるで熱い風呂から出てのぼせ、ふらふらしていた気分で、さ迷い歩いているような──
 午後は、集中力も切れて眠気が襲ってくるだけに、少し疲れていたのかもしれない。
 時間が過ぎていけば、夢の中の衝撃も和らいで、すっかり落ち着いたが、教室を見回すとどうも違和感がぬぐえなかった。
 妙に感覚だけが研ぎ澄まされて、過敏になっている感じ。
 だから、放課後、教室から出ようとして、担任に呼び止められると、すでに自分の中でそれを予期していたから、ついまたかと思ってしまった。
「天見、ちょっといいか」
「またですか。先生もしつこいですね」
「は? なんのことだ?」
「だから、進路のことでしょ」
「ああ、そうだが、しつこいって、大げさな」
 先生は納得いかなさそうに、眉間に皺を寄せていた。
「だけど俺はもう決めたんです。前にも言いましたが、俺は働きたいんです」
 先日、進路希望の紙を配られ、俺は就職を選んだ。
 先生はそれを考え直せと言ってくる。
 もうこれで二回目だった。
 俺の叫びが苛立ちに聞こえたのか、先生は怯みながら遠慮がちに訊いてきた。
「……家庭の事情が原因なのか?」
 母子家庭で貧困。
 先生の意味するのはそれだった。
 また同じことを聞いてくるから、イライラしてしまった。
「とにかく、一刻も早く社会に出て、働きたいだけです」
「天見の気持ちもわからないではないが、お前なら国立大を目指せるし、奨学金だって借りられる」
「それ前も同じこといわれましたけど、それって借金になるわけでしょ。だったら早くから働いて貯めた方が得じゃないですか」
 先生は俺の生意気な態度が気に食わないのか、話が噛み合ってない困惑した顔を向けていた。
「お前、一体誰と進路の話をしたんだ」
「だから、先生とでしょうが」
「私? そうだっけ?」
「先生も沢山生徒の面倒をみないといけないから、アレでしょうけど、俺はもう決めましたから」
「しかしだな、学歴は長い目でみたら人生の得だぞ。お前なら医者だって目指せる。それにほんとは医学を学びたいんじゃないのか」
「また同じこというんですね。いい加減に放っておいて下さい」
「おい、落ち着きなさい。とにかく、まだ時間はある。今決断するのは早い。じっくりと考え直せ。わかったな」
 先生に肩を叩かれ、俺は体に力が入って硬くなった。
 もやもやしながら、俺は教室を出て行った。
 廊下で俺を追いかけて来た江藤が軽々しく声を掛けてくる。
「天見、なんか機嫌悪そうだな。元々冷たい奴だけど、先生にあの態度はないぜ。先生があそこまで気にかけてくれてるんだから、もう少し気を遣えよ」
「お前、見てたのか?」
「まあな。まさか、学年一の秀才が進学しないなんて、ありえないじゃないか。先生だってそりゃびっくりってもんだぜ。そんな事聞いたら、俺も気になるわ」
「江藤は首突っ込み過ぎだ。人の事構うより、自分の事考えろよ。お前は将来パイロット目指してるんだろ。あれは勉強できたところでなれるもんじゃないぞ」
「えっ、なんで知ってんだよ」
「自分で言ってたじゃないか。江藤こそ、しっかりしろよ。じゃーな」
 痛い所突かれて、面くらってる江藤を置き去りにして、俺は廊下を気怠く歩いていく。
 放課後の学校は束縛されない開放感に溢れていた。
 帰宅する者、部活に行く者など人で溢れている中をすり抜けて、俺は下駄箱に向かった。
 靴を履きかえ、外に出れば心地よい風がすり抜けた。
 その風に乗って、散った桜の花びらが小さく渦を巻いて滑って行った。
 それを目で追っていたとき、比較的真新しいつやつやの茶色のローファーが目に入り、それが自分の許へと近づいて来た。
 それは覚束ない足取りで、ふらふらと震えている。
 そして俺の目の前で止まったから、俺は顔を上げてそいつを見た。
 俺の顔を見るなり焦って口を開けた。
「あ、あ、あ、あ、あ……」
 言っちゃ悪いが、気が触れた女が来たかと思った。
 そいつは、顔を真っ赤にしてもじもじとしている。
 俺を見つめて、力んで叫びだした。
「天見先輩!」
 肩で息をするように、ハアハアとすでに息切れしている。
 目だけはまっすぐに俺を見て、そして熟したトマトのようになっていた。
「な、なんだよ」
「そ、その、あの、私、叶谷希望といいます」
「叶う……や、ノゾミ?」
「叶う谷と書きますが、カノウヤです。ちなみにノゾミは『希望』と書いてノゾミと読みます」
「カノウヤノゾミ?」
 まるで希望が叶うとでも言いたげなストレートな名前に、俺は少なからずも驚いた。
「は、はじめまして」
「で、俺になんか用?」
「は、はい。あの、その、どうか私と付き合って下さい」
「はっ?」
 ノゾミは燃えてもおかしくないくらい最高に真っ赤になっていた。
「お、お願いします」
 勢いつけて頭を地面につけるように下げるから、体が二つに折れたかというくらい全力で俺に頼み込んでくる。
「おい、ちょっと待て、お前、一年生か」
「はい、そうです」
「だったら、入学したばかりで知らないかもしれないが、俺はそういうの興味ないから。それに迷惑なんだけど」
「わ、わかってます。天見先輩は気軽に女の子と付き合うような方じゃなく、存在そのものが、学園の王子さまのような、それはそれはもう、恐れ多いくらいのお方です」
「それはちょっと大げさな」
「私なんかが、言うなんて、おこがましいのは充分承知です。しかし、どうかお願いします。三ヶ月だけでいいんです。もちろんただとは言いません。一億円払います」
「えっ!? 一億円?」
「はい。一億円で私と付き合って下さい!」
「ちょ、ちょっと待て。俺を金で買う? しかも一億円? 正気か、お前?」
「も、もちろんです。支払いは三カ月後、期限が来たら必ずお渡しします」
「そんな金どこにあるんだ? 桁が違いすぎるし、あまりにもバカバカしい」
「でも、ちゃんと用意できます。それに、たった三ヶ月間でいいんです」
「あのな……」
「お願いします。私、天見先輩が、大好きなんです!」
 泣きそうなほどに、目が潤っていた。
 真剣に俺を見つめ、必死にすがりつこうとしているその姿は、本気で俺に惚れているのが伝わってくる。
 ノゾミはまだ幼げで、あか抜けもしてない。
 飛び切り美人でもないし、特別目立ったかわいさもない。
 ただ素朴で、真面目で、儚げで、なんというのか、ひょろひょろとした白いアスパラガスみたいでひ弱に見えた。
 過去に色んな女から告白されたが、それなりに自分に自信のある奴が多かった。
 その女たちの中でもノゾミは俺に声を掛けてくるのが意外なほどに、あまりにも平凡だった。
 でも不細工というほどでもなく、まだ磨かれてないダイヤモンドの原石を思わせるものがある。
 この先成長すれば、それなりに気品のある落ち着いた女性になりそうだった。
 今時のキャピキャピした女子高生らしい派手さがあるよりも、上品で清楚な部分の方が俺はまだいいと思う。
 俺は彼女を観察しながら、この状況を冷静に見ていた。
 一億円──
 なぜ故にこの値段が飛び出したのか、そして三ヶ月という期限付きの付き合いを要求。
 なんだか、あり得ない展開に急に興味が湧いてくる。
 面白そうかも。
 そして、この必死になって全力投球してくる態度も大いに印象つけられた。
 かなりの覚悟をして勇気を振り絞っているのが伝わるし、そこに切羽詰まった命がけの真剣さがあった。
 一体どんな女の子なのだろうか。
 却って興味が湧いてきたかもしれない。
inserted by FC2 system