第一章


 一緒に駅まで歩いて、同じ電車に乗り、そして同じ駅で降りた。
 その間、ノゾミは口数少なく、ひたすら俺の傍にぴたりとくっ付き、周りを気にしながらたまに辺りをキョロキョロしている。
「ずっとついてくるけど、お前の家もこの辺りなのか」
「いえ、違います。学校の近くなんです」
「おい、だったら、電車乗ってここに来る必要がないじゃないか」
「その、一緒に先輩と歩きたかったんです」
「それにしても、どこまでついて来るつもりだ」
「先輩のマンションまでお供します」
「ちょっと待て、お供って、お前は家来か。それよりも、なんで俺がマンションに住んでるって知ってるんだ? まさかストーカーしてたのか」
「ち、違います。近くを通りかかった事があって、それで、その」
「俺をそこで偶然見たってことか。いつの間に見てたんだよ。参ったな。だけど、俺んちまで来るって、お前大胆だな。それで次は何を企んでいるんだ?」
「とにかく、家まで送らせて下さい! お願いします!」
 いきなりしゃきんとして、また必死に頼んでくる。一体こいつはなんなんだ。
 何を言ったところで自分のやりたいようにしそうで、俺も言い返す気力がなくなった。
「ここまで来てしまったし、家の場所も知られてるんだから、断ってもどうせついてくるだろう。わかったよ。気の済むようにしろよ」
「ありがとうございます」
 また顔が明るくなって、やっぱり名前のごとく希望に満ちていた。
 リアクションも激しいが、この拘りは、もしかして、何かの障害でもあるんだろうか。
 ノゾミの行動が、俺の想像を超えて不可解過ぎる。
 それでも俺は首を傾げながら、とことん付き合う事に決めた。
 これは予期せぬ展開になってきた。というより、訳がわからないから予測のしようがない。
 何かが突拍子もない変化をもたらしそうに、俺はノゾミを改めて見てみた。
 ノゾミはこの時、キョロキョロとして落ち着かず、周りを警戒して神経を高ぶらせていた。
 この辺りは近くにコンビニやスーパーはあるし、住宅やビルが密集していて、ごちゃごちゃした街並みだが、住むには悪くない。
 慣れてなければ居心地悪いのかもしれないが、何をそんなに気にしているのかというくらい、ノゾミは人とすれ違う度に過敏になってじろじろと見ていた。
 慎重深く、真剣に取り組む様は憑りつかれているようにも見え、その理由を訊くのも躊躇われた。
 とんでもないものと係わってしまったんだろうかと、俺は付き合うという言葉に今になって重みを感じてしまった。
 一億円──
 三ヶ月──
 そのキーワードを何度も反復し、終わりを見届けるまで我慢しようと決め込んだ。
 多少の不可解さがあって当たり前だし、あの条件で告白されたこと自体あり得ないのだから。
 あり得ないから、興味を持って俺も承諾したんだし、すでに俺はこの件に関しては取り消せない状態だ。
 だから、いちいち気にする方が間違いだという結論に達してしまった。
 そんな思いを抱き、俺のマンションの前に来た時、ノゾミはさらなる挙動不審になって落ち着かないでいたから、これも許容範囲と言い聞かせた。
 しかし、なぜ故にこんなにもそわそわしているのだろうか。
 もしやこれは、まさか、俺が家に誘うかどうか期待している? まさか……
 母親は仕事で、家には誰もいないが、それもすでにリサーチ済みでわかっているとしたら、密室に二人っきりになって次へ進もうとしている?
 それでついて来た?
 おいおい、今日会ったばかりだぞ。
 でも期限は三ヶ月だし、彼女の提示している報酬が一億円ならば、俺はそこまでの関係を結ぶと期待しているのだろうか。
 だが俺も万が一、誘われたら興味がないと言えば嘘にもなるし、断るのもアレだし、うーん、どうすべきなんだ。
 もらえると確定していないその一億円という金額の重みに、それ相応のやるべきサービスも必要なのか、俺も次第に麻痺していた。
「あのさ……」
 俺が言いかけた時、ノゾミは辺りを警戒しながら、観音開きのガラスドアを開け、マンションの入り口に俺を押し込むようにして一緒に入って来た。
 あまりにも強引なその態度に、面食らってしまった。
 そこは郵便受けとエレベーターと階段がある、住人が頻繁に出入りする場所。
 いわゆるエントランスホールだが、人が出入りして通り過ぎるだけのガランとした静かなホールとなっている。
 俺がノゾミと密接してあたふたとしていると、タイミングよくチンと軽やかなベルが鳴り、エレベーターが階に到着してちょうど人が降りてきた。
 何度か顔を合わせた事のある主婦だった。
 「こんにちは」と挨拶され、俺はつい条件反射でノゾミから離れた。
 ぎこちない空気が流れ、俺は気まずい思いを抱きながら、誤魔化すように「どうも」と頭をさげた。
 その主婦はすれ違いざまに俺とノゾミをじろじろ見ながら、ドアを開けて外へと出て行った。
「なんで俺が焦らないといけないんだよ」
 不満が漏れたが、ノゾミは全くお構いなしで腕時計を見て、時間を確認していた。
 また俺の体を押しながら、閉まりかけていたエレベーターの扉に咄嗟に手をかけ、俺に乗るように指示してきた。
「早く中に入って下さい。早く!」
「おい、ちょっと、どうした」
 この時、マンションの入り口のドアの外で、花粉症対策の大きなマスクをした若い男が立っていた。
 ノゾミは、それを見るとハッとした顔つきになった。
「先輩、それじゃまた明日。今日は本当にありがとうございました」
 最後は早口で言うや否や、俺をエレベーターの中に体全体で力を掛けて突き飛ばしてくるから、不意を突かれて俺はヨタついて中に入ってしまった。
 ヨロヨロとして壁にもたれ、俺が顔を上げた時にはノゾミはすでに姿を消し、ドアが閉まるところだった。
 あまりにも突然の事に虚を突かれて、俺は暫く動けず、動かないエレベーターの中で暫く佇んでしまった。
 その場に捨てられた置いてけぼり感が、プライドを傷つけられたように虚しくなり、あまりの扱いにただ驚くばかりだった。
「なんなんだ、アイツ」
 ドアを開こうとボタンに手を掛けたその時、上の階に呼び出されて、エレベーターは上昇してしまった。
 ちょうど自分の住んでる階で止まったものの、乗る人と入れ変わるようにそのまま降りざるを得ず、エレベーターを降りてからなんだか腑に落ちずに、その場に佇んでしまった。
 やっぱりノゾミの行動が摩訶不思議で、俺の調子が狂ってくる。
 それはコケにされて腹が立ってくるようでいて、また滑稽な無様な自分の姿に笑えるようでもあった。
 俺が女に振り回されている。
 考えれば考える程訳がわからず、俺は今までにない新たな道を歩いている気分だった。
 叶谷希望──
 その名前を呟けば、俺も対抗心が湧いてきた。
 こうなったら、お前にとことん付き合ってやろう。
 三ヶ月後に約束したその一億円とやらを見せて貰おうじゃないか。
 きっとそこに、なんらかの落ちがあるのかもしれない。
 どういう形でそこに落ち着くのか、俺はそれが見てみたいと思った。
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