第一章


 その晩、買い物袋を提げて母親が仕事から帰ってきた。
 俺はすでに自分で適当に夕飯を済ませて、台所のテーブルで本を広げて勉強をしていたところだった。
 1DKなので、俺の部屋はなく、勉強する時はこのテーブルを使うか、休みの日などは図書館を利用している。
 母子家庭だから、部屋を借りる賃貸料の問題もあり、自分の勉強部屋が欲しいと贅沢なことは言ってられない。
 無駄なものを抑え、目の前にあるものを有意義に利用していかなければならなかった。
 母の仕事は夜勤もあり、四六時中一緒に居ることもないので、自分の部屋がなくとも別に困りはしなかった。
 時計を見れば8時を過ぎてはいるが、これでも母にとったら早く帰ってきた方だった。
 テーブルの端にスーパーの買い物袋を置き、台所の隅においてあるゴミ箱からはみ出ているカップ麺の容器を一瞥して、母は俺に話しかけた。
「ごめんね、遅くなって。まだ食べたりないでしょ。今から栄養のあるもの作るね」
「冷蔵庫の中の残り物も勝手に食べたし、大丈夫だから」
「そう。じゃ、果物でも食べる? これ好きでしょ」
 買い物袋から、イチゴのパックを取り出して、笑顔を添えて俺に見せた。
 艶を帯びた真っ赤な粒ぞろいのイチゴ。
 目の前に差出されれば、仄かに甘い香りが漂ってくる。
 俺は素直に頷いた。
 母はそれを手にして、シンクに持って行き、ボールに移して水洗いする。
 その後は包丁を持ってヘタを取り除いていった。
 黙って一つ一つ丁寧にヘタを取っている母親の後ろ姿を見ていると、以前よりも小さくなったように思えた。
 俺は割と遅くにできた子供だから、俺と同い年の子供がいる母親たちと比べれば、俺の母はその一般の若さからは程遠い。
 俺が大きくなれば、その分母も確実に年を取って行くのは避けられないから、友達の親と比べたら早く年取って行くようにも思えた。
 でもまだこぎれいにして、健康管理にも気を配ってるから、実年齢よりも若く見えると思う。
 実際母は、息子の俺がいうのもなんだけど、この年にしてはきれいな方だと思う。
 若い頃は持てただろうし、放っておく男はいなかったと思う。
 ただ男運が悪かった。
 俺が生まれる前に離婚したそうだ。
 俺は父を知らずに女手一つで育てられた訳だ。
 その俺の父というのが、酷い話で母と結婚していながら、よそで女作って浮気をしていたらしい。
 それが一人ではなく複数らしく、発覚したとき母が姑に──俺の祖母にあたる訳だが──相談すれば、中々子供ができないから浮気されても仕方がないと、反対に嫌味を言われ、母は辛い思いをしていた。
 そこは跡取りを求めていたから、子供が中々できない母が疎ましく、姑は外で子供ができる事の方を望んだのだろう。
 姑の望み通り、浮気相手が子供を身ごもったことで、母は父からも姑からも離婚をお願いされた。
 浮気する父にも愛想を尽かしていたから、すぐさまそれに応じて慰謝料貰って離婚したが、皮肉なことにその時母も俺を身ごもっていた。
 それがわかったのは離婚が成立してからだった。
 また、母は俺を一人で育てると決意を固めたときに、その浮気相手が流産してしまい、姑は掌を返したように母にすり寄ってきては子供──すなわち俺をよこせと、しつこく迫ったらしかった。
 それでも母は頑なに拒否し、数年そんなごたごたが続いたが、その間に父が再婚し新たに子供ができて、それが男の子だったから、俺の事はまたすっかり忘れられた。
 本当に勝手な話に、俺もその事を知った時は腹が立って仕方がなかった。
 そんな軽薄さだったから、俺は父親と会う事もなく、半分血が繋がった弟にも会った事はない。
 俺とは全く関係がないし、会ってたまるかという意地もあった。
 ただ、同じ父親を持ちながら、弟とは境遇が全く違い、不公平さは時々感じてしまう。
 母親には感謝はしているし、贅沢をしなければ充分暮らしていけるお金も稼いでくれているのは判っているが、やはり母子家庭という不自由な部分を感じてしまうのも本音だった。
 父親は大きな病院を経営している医者であるし、それなりに地位もお金も持っている。
 俺はそれを知っているから、負けずと勉強を頑張って将来は見返したいと、言わばあてつけのために医者を目指していたが、苦労している母親を見ていたらそんな悠長な事もいってられなくなった。
 全てを犠牲にして俺を育てるだけに、我武者羅に働いて来た母親の事を考えると、これ以上お金の事で迷惑はかけられなかった。
 かといって、今更父親に援助してほしいなどと、虫のいいことなどいえないし、こっちからも頼みたくない。
 ただ、自分より後に生まれてきた腹違いの弟が羨ましい。
 苦労なく好きなだけお金を与えられて、贅沢に暮らしている事だろう。
 そんなことを考えていると、お皿に乗ったイチゴが視界に飛び込んできた。
 水滴がついた真っ赤ないちごは瑞々しかった。
 それを一つつまみ俺は口に運んだ。
 さっきまで悲観になっていた気持ちが和らぐほど、そのイチゴは甘く口の中でジューシーに広がった。
 赤いものを見ていると、さらに連想して、ふとノゾミの告白してきた真っ赤になっていた顔を思い出す。
 あいつが本当に一億円を用意してきたら、俺の今の心配事もなくなるかもしれない。
 一億円か。
 確かに魅力のある金額だ。
 そんなの簡単に手に入るとは思っていなくても、それを手にしてみたいと次第に欲しくなってくるから、ちょっとだけ期待してしまった。
 本当にくれるのなら、何でもノゾミのいう事をきいてやるし、3ヶ月間、お望み通りに彼氏を演じてもいい。
 しかし、一億円はあまりにも現実からかけ離れた金額だった。
 これが10万円くらいだったら、まだなんとかなりそうとは思うが、一億円となると、簡単に人にあげられる金額ではない。
 あまりのインパクトに、今日という日は結局ノゾミにしてやられて振り回された日だった。
 俺はまたもう一つイチゴをつまみ、パクッと口に入れた。
 これもまた甘みが強く、なんだか頬が緩んでしまい、俺はあまりの馬鹿げた事を信じようとしてることに笑えてくるようだった。
 しかし、それとは対照的に、母親が傍で溜息を吐き出した。
「ん? なんかあったの?」
 すこしマザコン気味に、俺はちょっと心配になってしまった。
「うん、今日、広崎病院の院長から連絡があって、一度、嶺(レイ)と会いたいって言ってきた」
「広崎病院の院長って、それって」
「そう、嶺のお父さん」
「ちょっと待ってくれ。なんで今更俺に会いたいんだよ。今までずっと連絡寄越さなかったくせに」
「向こうも色々と事情があるのかもしれないけど、ほんと今更よね。だけど、これもいい機会として割り切ればいいのかも」
「どうしたんだよ、お母さん。憎き相手じゃなかったのか」
「それもそうなんだけど、嶺の将来のことを考えたら、そんな事言ってる暇がないんじゃないかって思えて」
「待って、どういうことだよ」
「向こうは嶺を医者として育てて、いずれは広崎家の跡取りとしたいんだって」
「あっちにはすでにそういう息子がいるじゃないか」
「それが、勉強の面ではあまり芳しくないらしくて、来年高校受験らしいけど、行き詰っているみたい。そこで嶺の事を調べたら、条件に適ったらしく、来年の大学受験で是非とも医学部を目指して欲しいんだって。大学費用は全て持つと言ってるわ」
 突然のオファーに俺は面食らった。
 今日という日が別の道に進むために、いくつもの選択に枝分かれしたように思えた。
 俺が答えに困っていると、母は「どうする?」って他人事のように訊いてきた。
「どうするって軽々しく言われても、複雑な感情もあるし、そんなのすぐに決められない」
「はっきりと嫌だと言わないということは、受けてもいい選択もあるってことね」
「ちょっと待ってくれ」
 俺は、どうしていいかわからなくなり、またイチゴを手にして口に放り込んだ。
 甘いはずなのに、急にそれが味わえなくなって、ぐしゃっと口の中でつぶれて、同時に細かい種が歯に挟まって不快な気分になってしまった。
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