第一章


「す、すみません」
 どうしていいのかわからないまま、ノゾミは逃げるように去って行った。
「ちょっと、おい!」
 俺が呼び止めても、後ろも振り向かず一目散に廊下を走って行く。
 人とぶつかりそうになりながら、こけそうになりながら、最後には小さくなって姿を消した。
「なんなんだ、アイツは」
 女の子が鼻血を出した姿は人に──好きな人の前であるならば特に、あまり見られたくないのだろう。
 鼻血を出す程までに俺に触れられて興奮していたと思えば、一途な思いを感じて俺は知らずと微笑んでいた。
 本人は恥ずかしくてたまらなかっただろうが、あの慌てぶりに後からじわじわと笑えてきた。
 一口しか食べられなかったが、あのイチゴタルトは中々の味だった。
 もっと食べたかったと素直に思うし、それをどんな気持ちで俺のために作って来たのかを考えると、ノゾミの思いは確実に舌にも残っていた。
 教室に戻れば江藤が興味津々と、また俺に色々と訊いてくる。
 イチゴタルトを大いに褒め、また作ってきてほしいと頼んできたが、ノゾミと俺が付き合う事に関しては、共通点が見つからないやら、趣味に合ってないやら、挙句の果てには釣り合ってないとまではっきりと言ってきた。
 そこに何らかのメリットがあるから、妥協したんじゃないかと言われた時は、江藤の慧眼さに慄くものがあった。
「お前な、本人が居ないからって、あまり彼女を下げるような事をいうなよな。失礼だろうが」
「しかしだな、あまりにも平凡すぎて、派手なお前といるから、彼女もその立場をわかって無理してるのが痛々しいんだよ」
「痛々しい?」
「ああ、自分でも本当は釣り合ってないというのをわかってながら、必死に天見についていこうとしているからさ。かなり惚れてるのはわかるけど、あれじゃご 主人様に仕えようとするメイドだな。そしてお前はそれをわかった上で面白がってる。なんだか、可哀想に思えるから、アンバランスって言ってるだけ」
 江藤のいう事も一理あったから、不機嫌にぐっと言葉が詰まってしまった。
 江藤は敏感に俺の気持ちを読み取り、それを取り繕うとして、慌てて付け加えた。
「でも、顔を赤くして無理している姿は、素直で従順な感じがしてかわいいとも言えるけどな。もう少し、自分に自信を持ってしゃきっとしたら、あか抜けてくるかも」
「お前は色々と観察して、細かく分析するよな。いちいちうるさいぞ」
「いいじゃないか。顔も頭もよくて、天見は常に女にもてるから、どんな女と付き合うのか気になるじゃないか。それに、どんな女の子がタイプなのか、いつも周りから訊かれるし、ちゃんと答えられるようにしておかないと」
「誰にそんなことを訊かれるんだよ」
「いろいろさ。俺も天見のお蔭で美味しい思いさせてもらってるから、観察はやめられないの。それに、俺は天見の親友だし、常に一緒にいるしな」
「お前が勝手に近寄ってきてるだけだろ」
「あれ? そんな事言いながらも、親友だと認めているくせに。天見はとにかく素直じゃないな。そういうところも含めて俺は何でも知ってるから、付き合っていけるんだぞ。他の奴だったら、そうはいかないぞ」
 あっけらかんとして、堂々と開き直る態度は慣れもあって、怒りも湧かないが、俺のような捻くれ者に物怖じせず気軽に近づいてくるのは江藤にしかできないと、俺も思うところだった。
 なんやかんやと言っても、江藤は裏表なく気さくで、それなりに俺とは波長が合い、俺も気軽に付き合えるところは気に入っていた。
 とにかく江藤はコミュニケーション術には長けていた。
 敵を作らず、人の懐に入って懐柔するのが上手い。
 早く言えば好奇心旺盛の知りたがり。
 そのためには努力を惜しまないのだろうが、結局のところ、俺も江藤に上手く丸め込まれているから、その能力は侮れない。
「そうだな」
 最後は素直に認めてやると、江藤がニヤリと憎たらしい笑みを浮かべて、自分の勝利を俺に見せつけた。
 それから急に上から目線で俺にお節介してくる。
「これもお前の周りの事をよく知ってるから助言しておくけど、ノゾミちゃんを守ってやれよ」
「どういうことだよ」
「お前の彼女になったからだよ。それを良く思わない奴がいるってことだ。それくらいわからないのか」
「そんなの知るかよ」
「おい、おい、女の嫉妬は怖いんだぞ。ノゾミちゃんに嫌がらせする奴だってこの先出てこないとは限らない。天見が付き合うと言った以上は、その責任もしっかり頭に入れとくんだな。ノゾミちゃんはか弱そうだから、虐めのターゲットになりやすいぞ。注意して見ててやれよ」
「大げさだな、たかが俺と付き合ったくらいで、まさか襲われるって事はないだろうし」
「いやいや、モテることは天見自身多少わかってはいるだろうけど、どれほどの規模かあまり把握してなさそうだ。今まで何度と告白されて、そして断ってき た。天見はそれだけで高嶺の花と位置付けられて、女の子の間ではどうやってゲットするか作戦が練られてたんだぞ。それが、今年入学してきたばかりの大人し そうな下級生と付き合いだしたら、皆、納得いかないんだよ。それは一番ヤバイ展開なんだぞ」
「しかしだな、アイツとは……」
 ここで思わず俺は三ヶ月の期限の事を話しそうになり、それを飲み込んだ。
「なんだよ。なにかあるのかよ」
「いや、その、まだこの先どうなるかわからないってことだ。アイツだって、俺の本当の姿を見たら幻滅することだってあるだろうし、長続きするかどうかも……」
「なんだか、嫌われてもいいみたいだな。自信家の天見にしては変だし、すぐに別れるような言いぐさだな。もしかして、何か言えない理由でもあるのか?」
「理由、理由って、別にいいじゃないか。とにかく俺はアイツに興味を持ったんだよ」
 それは本当のことだった。
「ふーん」
 訝しげな表情で江藤は俺を見ていた。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったことで、この話もまた終止符を遂げたが、俺はなんだか複雑な気持ちにさせられた。
 一瞬でも一億円という魅力を感じたのは事実だったし、あの背水の陣のような切羽詰まった告白に押されたのもあった。
 ノゾミが俺に係わってから、いつもの日常がどこか違う世界へとずれていっているような気分にもさせられる。
 それが彼女が全てをもたらしたように、俺は彼女に新しい何かを見せられているのかもしれない。
 恥ずかしがりやで、引っ込み思案なか弱い女の子なのに、俺には無理して勇気を振り絞っている。
 そこに、奇抜で奇妙な行動。
 前日もあのか弱さからは考えにくいほどに、俺はエレベーターに押し込まれた。
 あれもなんだったのか。
 不思議な要素は俺を惹き付ける。
 もしそれがノゾミが意図したことならば、彼女は判った上で行動していることになる。
 一体彼女は何者なのか。
 よく考えれば、まだ名前以外何も彼女の事を知らなかった。
 少なくとも、彼女に興味を持ったという点では、今まで寄ってきた女の子達とは全く違い、俺は彼女の事を知りたくなってきた。
 俺は放課後、自ら彼女に会いに行こうと気持ちを固めて、窓の外を眺める。
 青空にまっ白い雲が綿を引き伸ばしたようにふわっと広がっていた。
 その時、ふと連想してマスクを思い出しハッとするも、先生が教室に入って来たことですぐにかき消されてしまった。
 俺は何かを見落としているのかもしれない。
 突然そんな気持ちになりながら、授業が始まるとその気持ちもまた次第に薄れて行った。
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