第二章


 学校という場所、滅多に人が来ない静かな校舎の一角で、俺は女の子を抱きしめている。
 冷静になって考えてみれば、この俺がこんなことをするなんて珍しさを通り過ぎて、気でも狂ったかもしれない。
 ネジが飛んでおかしくなったとしても、一度壊れて何かが変わった後では、このまま突き進んでみたくなる。
 いつもギスギスとして、人を遠ざける事しか考えていなかったから、自ら誰かを自分のパーソナルスペースに招いて優しく気遣う事は、自分自身もいつもと違うものになれて新鮮だった。
 それが妙に心地よい感情をもたらすから、禁断の果実を味わう背徳感も芽生えて困ったものだった。
 抱きしめてるとは言っても、実際遠慮がちに、自分の腕を彼女の背中に添える感じで、あくまでもソフトに紳士的に振る舞っているつもりだ。
 そうじゃないと、ノゾミは見た目通りにか細く、俺が力を入れれば、ポキッと折れてしまいそうだった。
 女の子自体が華奢でデリケートなのかもしれないが、ノゾミはそれを考慮してもさらに度を越す。
 抱き心地を考えたら、多少の弾力性がある柔らかい方が俺の好みだった。
「お前さ、もう少し太った方がいいぞ」
「えっ」
 つい口から洩れてしまった俺の指摘に我に返り、ノゾミは慌てて俺から離れて、顔を赤くして俯き加減になっていた。
「す、すみません」
「何を謝っている。ただの俺の希望が口から出ただけだ。気にするな。そんなにおどおどされるのは困る。俺はお前の彼氏になったんだから、お前も俺の彼女として堂々と振る舞え。そうじゃないと付き合ってる意味ないだろうが」
「あの、その、私、男の人と付き合った事がなくて」
「俺も付き合った事はない」
「えっ?」 
「だから、お前と同じように『男と』という意味じゃないぞ」
「それは、わかってます。でも女性と付き合った事がない?」
「そうだ。そういうの面倒臭くて興味がなかったからな。ということは、お互い初心者ってことだな。そして期限付きか。こうなったら時間も限られてるし、有意義に付き合うべきだな。それから一億円だけど……」
 俺は淡々とノゾミとの付き合いの合理化を図ろうとしながら、ノゾミの意図を探ろうとしていた。
 俺が一億円の事を持ち出したら、ノゾミはすぐさま遮った。
「それは、必ずお支払します。それまで待って下さい」
「あのさ、一億円っていったら、重さ約10キロもあるんだぞ。気軽に持ち運べるものでもないし、身近に用意できるものでもない。俺が本気でそれを期待してると思うか?」
「でも、その条件で私と付き合うって言ってくれたし」
「だからそれは、あまりにもスケールがでかい話でびっくりして却って興味が湧いたんだ。それは俺の興味を惹き付けるきっかけにはなったが、少なくともお前にも興味を持ったって事でもある」
「私にも……」
「そう、なんだか不思議で、好奇心が疼いた。それに昨日もそうだが、俺をエレベーターに押し込めて帰って行っただろ。俺に対してあんなことする女もいなかったし、お前の一つ一つの行動が不可解で、いちいち気に障って、それが余計に気になって仕方がない」
「そ、それは」
「何か理由があるのか?」
 俺がそれを求めた時、ノゾミは追い詰められたように体を強張らした。
 さっきまで顔を赤くして恥ずかしがっていたノゾミは、そこで覚悟を決めたような真剣な表情を俺に向けた。
 その目からは頑なに意固地さが現れ、それでいてキリッとした聡明さがあった。
 急に凛として大人びた表情になり、俺の方がまた怯んでしまう。
 ノゾミがひたむきな思いを抱え込んだとき、それは必死の覚悟が表面に出てくる。
 心構えがひたすら凄まじいというのか、まるで使命を帯びた責任感がヒシヒシと伝わってくるようだった。
「天見先輩!」
「おい、急に畏まって、な、なんだよ」
「一億円の事もまだ疑ってるんですよね。だったら、私が今何を言ったところできっと信じて貰えないと思います」
「一億円は今は別にいいんだよ」
「よくないです。それも含めて信じる事ができないと、意味がないんです」
「だからどんな意味だよ」
「私が覚悟を決めて先輩に告白したことから全てが始まります。そこに意味があるんです」
「だから、それが、何なんだよ」
「一億円を手にした時、きっと気づいてもらえると思います。その時が来なければ、私の話には信憑性がないんです」
「それじゃ俺が一億円もらえると信じたとしよう。それならいいのか?」
「いいえ、よくありません。その仮定の言葉が出てくる事が信じてない証拠です」
「なんか回りくどいな。じゃあ、信じる。俺は一億円もらえる!」
 なんだか俺もやけくそになってしまった。
 俺はノゾミと対峙し、彼女の双眸に勝負を挑んだ。
 暫くお互い真剣に見つめ合っていたが、そこにはラブロマンスなど発生せず、どちらも力んで突っ張って、相手の出方を見ては神経をすり減らしていた。
 ノゾミの瞳が揺れ動き、本当の事を言おうか逡巡しているように見えた。
 そしてぐっと体に力を込めて口を開いた。
「一億円が手に入った時、天見先輩は何をしますか?」
「何をするって、そんな大金すぐに使える訳でもないだろう。それよりも手にした時、税金は払うのか」
「そんな心配は一切ありません。だからその時、先輩は何に使いたいですか」
「一億円の使い道を急に訊かれてもな」
「先輩、どうしてそこで、欲しいものを買うとか、夢のために使うって言えないんですか?」
「欲しいもの? 夢?」
「先輩にも将来の夢とか何かに使いたいっていう願望があるでしょう。私はそれに使ってほしいんです」
「なんで使い方を指図されないといけないんだよ」
「先輩の夢を訊きたいからです」
「俺の夢? 別にこれといって…… それよりも話をはぐらかすなよ。お前こそ、一体俺と期限を設けて付き合って何がしたいんだよ」
「私は、先輩を幸せにしたいです」
「はぁ? 幸せにしたい?」
「はい。この先、先輩が幸せな人生を送られるように」
「おい、お前は俺を幸せにするために、一億円で俺と付き合ったってことなのか?」
「それは三番目の理由で、後から思った事です」
「えっ、三番? それじゃ一番と二番の理由は何だよ?」
 真剣に俺に告白してきたあの時のノゾミの気迫は本物だった。
 そこに二つの理由が含まれている──? 一体それはなんだ?
 それほどまでにノゾミを駆り立てたものが知りたくなって、俺はノゾミから目が離せなかった。
 また俺はノゾミのペースにすっかり巻き込まれていた。
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