第三章
2
その日の放課後、俺はノゾミの教室へと急いで向かった。
俺から会いに行くことで、彼氏を強調できると思ったし、またそれがノゾミにとっても喜ばしいに違いない。
俺がクラスメートの前に現れれば、ノゾミも優越感というものを得るだろう。
即ち、俺たちの付き合いを見せびらかす!──という事だ。
これもノゾミの自尊心をくすぐるだろうし、ギブアンドテイクのギブの部分になると俺は思っていた。
付き合うからには、こういう事も必要だろうと、頭の回転の速い俺はついつい自分をスマートに見せようと演出してしまう。
良かれと思ってやったことだったが、この時また一騒動が起こってしまった。
俺がノゾミの教室の出入り口で中を覗くと、ちょうどノゾミは立ち上がって帰ろうとしているところを、数人の友達に取り囲まれていた。
大人しいノゾミの傍に寄ってくる友達にしてはあまりにもきつい雰囲気で、水と油のように交わらないものを感じる。
ノゾミも派手な女生徒たちの対応にオドオドとして、動きがぎこちなくなっていた。
俺の足はズカズカと躊躇なくそこへ向かう。
「よぉ、迎えに来た」
気軽に挨拶すれば、ノゾミも、その周りの女子生徒たちも、突然の俺の登場に目を丸くしていた。
「天見先輩、こんにちは」
その中で堂々とした態度で挨拶を返してくれたのは、全く知らない女の子だった。
適当に「ああ」と返事したら、その途端に彼女は自分をアピールするように、上目づかいに俺を見つめた。
クラスには必ずいるような目立つ存在。
自分に自信を持ってかわいいと思っている派手な女子。
ノゾミとは全く正反対だから、これは俺が原因で寄り付かれているのだとすぐに直感した。
「天見先輩、どうして叶谷さんと付き合ってるんですか」
油断している時、その女子から単刀直入に失礼とも取れる質問を唐突に投げかけられ、俺は唖然としてしまう。
すぐに気を取り直したが、ここにもノゾミを見下してる輩がいる事に辟易だった。
「あのな、そういうことあんたには関係ない」
俺が呆れて声を出せば、目の前の彼女は恐れるどころか思いっきり笑顔になって喜んでいた。
鼻につくようなわざとらしさが窺え、世間的にどんなにかわいい顔をしていると言われようとも、俺には気に入らないものが見える。
睥睨している俺の態度もお構いなしに、その女はぶりっ子的にかわいさを演じながら、しれっと言う。
「そんな答えがでるなんて、私思ってもみませんでした。てっきり『好きだから』って返ってくると思ってました。という事はまだ真剣じゃないんですね」
「えっ?」
俺の方が意表を突かれて、戸惑った。
凄みを見せ、相手を黙らせようとしたつもりが、裏目に出てしまった。
確かにこの女の言い分には一理あった。
付き合うという事は好きだからということであるし、それが第一に来ないというのはおかしくも取れる。
三ヶ月の期間。一億円。
これが本当の理由だが、きっかけになった事は否定できない。
ノゾミの必死な部分にある程度気押され気味になったものの、面白そうと思って受け入れたことは事実だった。
その条件で俺たちは成り立ってしまった──
そこを突かれて俺が呆然としている時、ノゾミが突然感情を露わにした。
「黒木さん、一体何が言いたいの? それものすごく不快。天見先輩はいつだって真面目に私と向き合ってくれてる。ただ干渉されるのが嫌いなだけ」
ノゾミは、俺が馬鹿にされたと思って腹が立ったのかもしれない。
ノゾミが真剣に立ち向かうときは、大概、俺が原因になってる。
ノゾミもこの時は負けずに真っ向から戦おうとしていた。
黒木と呼ばれたその女は、余裕の笑みを浮かべ、意地悪そうに目を細めてノゾミに向けた。
「別に天見先輩を責めてる訳じゃないわ。真剣じゃなかった事は天見先輩にとってよかったって事よ」
「どういう事?」
「健気な部分を強調して、女子力高いってアピールしてさ、私は叶谷さんに騙されてるのかと思って心配してただけ」
騙す?
二人の様子を見ていたが、ノゾミが俺を騙すようなこと──それを考えた時、一億円のことだろうかと俺は黙って聞いていた。
「私、何も騙してなんかいないわ」
ノゾミもきっぱりと答え、その態度は正々堂々として、そこには嘘偽りないように思えた。
「あら、そうかしら? レスポワール……」
黒木が意味ありげに呟き微笑する。
レスポワール?
日本語ではない響きのその言葉の意味がよくわからず、俺は疑問符を頭に乗せていたが、ノゾミはハッとして急に青ざめた。
暫しの沈黙がノゾミを不利にさせるように、おどおどと落ち着かなく俺を見つめた。
「やっぱり、心当たりがあるのね」
鬼の首を取ったように、黒木の態度が益々大きくなった。
「あれは」
そこまでノゾミは言いかけるも、その後が続かなくて息切れしたようになっていた。
「正直に言ったらどうなの。いつも天見先輩に持っていくあのお菓子は自分で作ってないって」
黒木の言葉に、俺は反応し思わずノゾミを見つめた。
さっきまで感情のまましっかりと自分の意見を言えていたのに、ノゾミは動揺して喘いでいた。
何かまずい事があるのだろうか。
おれは気を利かして、ここから去ろうとするようにもって行く。
「おい、一体何を話してるんだ。もういい加減にしろ。ほら、帰るぞ」
俺は踵を返した。
「待って、天見先輩! これを見て下さい」
慌てて黒木に呼び止められ、俺が振り返ると、黒木はスマホを手にして俺に向けていた。
そこには学校の正門の前で、ノゾミが箱を持っている姿が映し出されていた。
その前には窓が開いているワゴン車が止まっており、ノゾミは運転手と話している様子に見えた。
「一体この画像がどうしたんだ?」
「その車には『l’espoir』(レスポワール)ってロゴが入ってますよね」
どうやらフランス語らしい綴りが車体に書かれていた。
「レスポワール? それがどうした」
さっきから出てくるキーワードに俺は眉間に皺が寄る。
「それこの辺りではとても有名なケーキ屋さんの、店の名前です」
ノゾミを追い詰めるつもりで黒木は意地悪く言う。
「有名なケーキ屋?」
俺もなんだか嫌な予感がした。
「叶谷さんはケーキを先輩のところに持って行ったとき、自分で作ったとか言ってませんでした?」
回りくどくネチネチした黒木の話し方は、裏を返せば真相を暴いていく快感が入り交じり、意気揚揚としているようでもあった。
「えっ……」
俺は正直何を言っていいのかわからなかった。
ノゾミは下を向いて震えてるだけで、言い返そうとはしなかった。
それが意味しているのは、俺に持ってきたあのお菓子は全てこのレスポワールという店から受け取ったという事を認めているということだ。
ノゾミが持ってきたお菓子は、おれも驚くくらいあまりにも完璧すぎた。
それが、こういうことだったのか。
ノゾミは歯を食いしばり耐えている。
でも俺にはどうしても何かが引っかかった。
そこにまだノゾミを信じてやりたいという気持ちがあり、ノゾミから本当の事を聞くまでは確定すべきではないと判断した。
とにかくここは、この黒木から離れるべきだ。
この女は、ノゾミが気に入らないに過ぎない。友達であれば告げ口などしないはずだ。
そういう黒木の腹黒い所は、嫌な女に見えてならなかった。こうなると名前からしてその腹黒さが一層黒く思える。
俺はこいつに嫌悪感を抱いた。
「ねぇ、天見先輩。叶谷さんって狡いですよね」
「いや、俺にはあんたの方が狡く思える」
俺が冷たい視線を返すと、黒木の自信溢れた態度が一瞬で萎えいだ。
黒木が怯んだ隙に、俺はノゾミの腕を取り引っ張る。
「帰るぞ」
ノゾミは慌てて鞄を手にし、俺に引きずられるままにヨタヨタとしていた。