第三章


 あの後、ノゾミと俺は店の前で少しだけ話をし、ノゾミは色々と説明してくれた。
 ノゾミの住まいはあの店の裏側にあり、家自体がケーキ屋さんとなっていた。
 父親がプロのパティシエ。自宅がケーキ屋さん。そしてノゾミと同じ意味を持つレスポワールという名。
 そうなれば、ノゾミがわざわざ説明しなくとも大体の事が納得いく。
 なぜパティシエになりたいのか。
 なぜあんなにもケーキ作りが上手いのか。
 それは全て父親の影響を受け、プロの指導の下、プロの道具を使って、いい条件の中で作っていたということだった。
 父親にはアドバイスを貰ったが、作ったのはノゾミ自身というところは強調し、そこだけは信じてほしいと真剣な眼差しを俺に向けた。
 だが、やはりプロのパティシエが傍に居て、プロ仕様の道具と素材があったからこそ作れたから、そこのところだけは世間でいうチートな能力だったかもと、ずるをしたように思っていた。
 生ものなので食べる直前まで冷蔵し、昼休みになるとわざわざ父親に学校まで持ってきてもらった事も、白状していた。
 事情の知らないクラスメートはそれを見れば、店から買ったとしか思えなかった。
 はっきりと言い返せなかったのも、自分で作った事には変わりなかったが、ベストな条件だったからできた事が少し疚(やま)しかったという訳だった。
 そんなに負い目に感じる事でもないとは俺は思うが、意地悪な連中に不利に情報をばら撒かれた後では、俺に上手く説明できなかったのだろう。
 隠しているつもりはなかったが、この辺りで人気のケーキ屋の経営者がノゾミの父親だとクラスメートに知られたら、意地悪な者が係われば、貶められる事もありえるかもしれない。
 ネットの発信ツールでありもしない事を言われる可能性もあるだろう。
 ノゾミはそういう事も配慮して、できるだけ自分と店の接点をなくそうとしていたに違いない。
 それにしても、ノゾミにはお菓子作りの才能が確かにあるということだ。
 将来は父親の店を継いだっておかしくない。
 俺がそれを言うと、ノゾミは力なく浅く笑い、あまり嬉しそうではなかった。
 まだそこまで考えてないのかもしれないが、ある程度、ノゾミの事を知ったこの時点では、俺は少しすっきりとして深くそのことには突っ込まなかった。
 ノゾミにとったら、込み入った話だったので、父親の前や店の中ではその話をしたくなかった。
 だから全ての真相を話した後、ノゾミは俺を店の中へと案内しようとした。
 だが、俺はそれを丁重に断った。
 中には父親がヤキモキして俺の存在について知りたがっただろうし、さすがに俺も父親を目の前にして、「付き合ってます」とは言いにくい。
 ここは一旦逃げて、後はノゾミに任した方がいいと、俺は投げ出した。
 あっさりと踵を返し、また学校でと挨拶をした後、元来た道を引き返す。
 角を曲がる前で一度振り返れば、ノゾミはずっと俺を見ていた様子だった。
 恥ずかしながらも手を上げ、俺はノゾミの視界から消える。
 上げた後の手の行き場に苦笑し、ノゾミの事を考えれば、色んな繋がりが見えてきておかしくなってきた。
 ノゾミのやる事全てに隠れた意味がある。
 筋が通って最後は納得する訳だが、それが手掛かりのキーワードを集めて答えを探していくようなゲームに思えてくる。
 行くべき道から外れた別の道に、突き進んでいる感覚にも似ていた。
 この先、俺はノゾミとどうなるのか。
 自分の中で段々と楽しく思えていくから困りものだった。
 それを素直に表現するのに、俺はまだ抵抗を感じる。
 ノゾミにやられっ放しが悔しい変な意地もあったし、自分の中のプライドにも大いに影響されていた。
 次、自分がリードしなければ──
 翌日は土曜日の半日授業だから、また放課後ノゾミに会いに行けばいい。
 その意思を固め、どう攻めてやるべきか一人でニヤついていた時だった。
 駅の改札口に入る手前で、突然肩を叩かれた。
 振り返れば、先ほど出会ったノゾミの姉が立っていた。
「甘党のアマミ君だよね」
「いえ、別に甘党っていうわけじゃないですけど、天を見ると書いて『天見』というだけです」
「まあ、それはどうでもいいわ。あなた本当にノゾミのボーイフレンドなの?」
「えっ、あ、はい。一応」
 ノゾミの姉はじろじろと俺を観察して、俺は居心地悪かった。
 思った事をずけずけというところは、積極さを通り過ぎてきつそうな性格に思えた。
「そっか、ノゾミの片思いが本当に実ったのか。すごいな。ノゾミ、あなたに初めて会った時、一目惚れしたって言ってた。それで偶然同じ高校だったと知った時も喜んでたけど、まさか恋が成就するとはすごい。レスポワールのケーキのご利益かな」
「えっ? 偶然同じ高校だと知った? ケーキのご利益?」
 俺が訊き返した時、ノゾミの姉のハンドバックから電子音が聞こえてきた。
 慌てて鞄を開けて、スマホを取り出し、確認している。
 メールだったのか、それを見るなり顔つきがぱっと明るくなっていた。
 俺がきょとんとして見ていると、にやけた顔つきを見せ、機嫌よくなっていた。
「あ、ごめん。彼氏からのメールだったんだ」
 あまりにも嬉しそうにしている態度に俺は違和感を覚え、ついそれを口に出してしまった。
「あれ、喧嘩別れしたんじゃなかったんですか?」
「えっ、あら、やだ、あの時ノゾミとの会話を聞いてたのね。なんか恥ずかしいわ」
 誤魔化すために照れた笑いをした後、また続けた。
「あれね、喧嘩してかっとなって、つい別れるって口走ったんだけどさ、彼の方から悪かったって謝って来たの。よく考えたら私も悪かったかなって思って」
「でも、その彼氏は既婚者なんですよね」
「えっ!? 既婚者? それ、どういう事?」
 素っ頓狂に姉が驚くから、俺はノゾミから聞き間違えたのかと思い、自信がなくなっていく。
「えっ? 既婚者じゃなかったんですか? 俺はそう聞いたんですけど……」
「誰に? ノゾミ?」
「はい。結婚してる事を隠してたから、別れてよかったってそんな事を言ってました」
「ちょっと待って、そんな」
 姉は相当ショックを受けている。まるで初めて真実を知ったというような──しかし、なぜそんな態度を今頃するのだろう。
「知らなかったんですか?」
「えっ、嘘、どうして、そんな」
 俺に助けを求めるような目を向けているだけで動揺しきっていた。
「あの、直接確かめて見たらどうでしょう。間違いって事もあるかもしれないし」
 俺も正直なところ何も知らない。ただノゾミがそういっていただけにすぎない。
「でも、なんでノゾミがそんな事言ったんだろう。私の彼氏の事なんて何も言った事ないのに。まあ、確かにイライラして、ヤケクソでケーキを食べに来てたけど……」
 姉が言いたかったことは、自分の態度で失恋したことを妹に見破られたけども、彼氏の事もよく知らずに既婚者と言われる筋合いはないということだ。
「あの、俺には関係ないので……」
 込み入ってきた話に俺が逃げ腰になっていると、がしっと腕を掴まれた。
「ちょっと、天見君。こうなったら付き合って。一緒に彼が既婚者か確かめましょう」
「えっ、なんで俺が?」
「あなたがそう言ったからでしょ」
「それは俺じゃなくて、あなたの妹が」
「口にしたからにはあなたにも責任はあるわ」
「そんな」
 俺はノゾミの姉に引っ張られるまま連れて行かれ、駅前で待っていたタクシーに押し込められ、一緒に乗り込んでしまった。
 なんでこんな事になるのか。
 タクシーが発車し、行き先のやり取りがされるのを尻目に、俺は窓から移り変わる景色を眺めて溜息を吐いていた。
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