第五章
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世間で言われるゴールデンウィークが始まる土曜日までの一週間、ノゾミは俺の邪魔をしたくない理由で顔を出すことはなかった。
俺もノゾミの教室へ行けばまた意地悪な黒木が何かしでかしそうで、少し様子を見た方がいいと判断した。
黒木がまたノゾミのケーキの事を持ち出したら、俺はエスポワールがノゾミの父親の店だと言ってしまうかもしれない。
多分ノゾミはそれを望んでないのがわかるだけに、俺も当分はノゾミのクラスには近寄らない方がいいだろう。
急にノゾミの音沙汰がなくなったので、江藤は上手くいっているのか心配そうな口をきいてきたが、裏を返せば、お菓子を持ってこなくなったことが残念でならなくて、様子を探ってるに過ぎない。
ノゾミのケーキの真相を知った今、江藤に当たり前のように食べてほしくないと思ってしまう自分がいた。
江藤の推測通り、材料はいいものだったし、あれは店に出してもおかしくないクオリティだった。
だからこそ、プロのパティシエの指導の下で、元から才能のある若きパティシエの卵が作った本格的なケーキは奴には勿体なすぎる。
ましてやノゾミの家がケーキ屋さんと知られたら、それこそ一緒に店に行こうとなって、あいつなら俺をダシに利用する事だろう。
ノゾミとの接点を少しでも遠ざけ、このことは江藤には絶対に知られてはならいと注意を払った。
だからノゾミの事を聞かれたら、お陰様でラブラブだとのろけてやる。
そう言ってやれば、俺らしからぬ態度に、江藤も意表を突かれて面食らう。
「天見、お前そんな素直なキャラだったか。ノゾミちゃんも隅に置けないな、天見をここまで変えるなんて」
感心しているのか、呆れてるのか、真意はわからないが、少なくとも俺がノゾミを気に入ってることが江藤には驚きみたいだった。
ノゾミを気に入る──
自分で言ってみれば、なんだか違和感があるようで、しっくりくるような気もする。
どちらの感情も併せ持ち、それが一対となっていかにも俺らしいから、自分で笑ってしまう。
素直になれ。
まだまだ油断するな。
自分の両サイドで二つの正反対の心がささやいているようなそんな心境だった。
始まって間もないというのもあるが、俺たちの場合3ヶ月という期限つきだ。
ノゾミは何を思って3ヶ月という期限を設けたのか。
そこに用意などできそうもない1億円をちらつかせて──
その真相がはっきりしない限り、俺はノゾミをこれ以上気に入るのは躊躇してしまう。
色々と巻き込まれ過ぎたせいもあるが、すでにノゾミが傍に居る事が当たり前のようになってきてるから、自分でも訳がわからなくなってきていた。
ノゾミと数日顔を合せなかった間、俺のバッグのピンクのマカロンが視界に入る度に、却ってノゾミの事を考えるようになってしまい、これもまたノゾミの作戦だったのではないかと疑ってしまう。
そして土曜日がやって来た時、朝待ち合わせの場所でノゾミを待つ俺は落ち着かなかった。
どんな顔をして会えばいいのだろうか。
幸い天気はいい。気分的にはすっきりするのだが、この場所はあまり好きではなかった。
セイの家の近くの最寄りの駅前。
街の中心に近く、ビルが密集しごちゃごちゃした雑さと閉塞感が漂う。
開けている分住みやすいのだろうけど、その分お金もある程度稼げなければ、そういう場所には住めない雰囲気がした。
自分には縁がなさそうで、それでいて、自分もまた排除されている締め出しを感じる。
卑屈になっている自分の心が、なんでもない景色を歪ませて見せてしまった。
きっとそれが顔に出ていたのだろう。
不意打ちにノゾミが現れ、「おはようございます」と頭を下げた後、不安げに俺を見ていた。
久しぶりに顔を合わせたというのに、また俺は気を利かさず、そっけない。
こういう時は、「元気にしてたか」と普通続けそうなものだが、この場合もっと先を進んだ会話がなされてもよかったかもしれない。
例えば「少し会えなくて寂しかった」とか、「久々に会えてうれしい」とか、付き合ってるのなら恋人を喜ばせる言い方があるだろう。
わかっているのに、「ああ、おはよう」だけで俺は済ませていた。
ノゾミは全力でぶつかって来てると言うのに、俺はそれに甘んじている。
俺がリードしたいとプライドを持っている限り、ノゾミに優しくしてやれない事に隠れて自己嫌悪していた。
それを知られるのもまた恥だと思うから、無理に背筋を伸ばし、偉そうな態度になってしまった。
「お忙しいのにすみません」
ノゾミが却って恐縮してしまう。
「お前が謝ることじゃないだろう。俺が気安く請け合っただけの事だ。責任は俺にある」
ここでかっこつけてる場合じゃない。
なんだか目のやり場にも困ってしまって、俺は視線を逸らせた。
トップスはカジュアルにTシャツと大きめのパーカーを羽織ってるだけの何気ない装いなのに、ボトムスはキュロットのショートパンツをはいてすらっとした細い足を惜しげもなく見せていた。
白い肌だからよけいに足ばかりが目立って、見てはいけないと思えば思うほど、つい制御できないままに視線がそこにいってしまった。
さりげない中に、ノゾミの魅力を引き立たせるものがあって、俺は男目線になっていたことに戸惑っていた。
だから普通に「かわいい」っていえばいいものを、喉をゴホンと鳴らすだけですました。
「天見先輩って私服だと大人びて見えてかっこいいですね」
ノゾミがさらりと褒めるから、俺はドキッとしてしまった。
「馬鹿いうな」
つい誤魔化してしまい、そして歩き出せばノゾミが慌てて声を掛けてくる。
「先輩、そっちじゃないです。こっちです」
俺が動揺してるのがバレバレだった。
「この辺には詳しそうだな」
「姉もこの近くのアパートで住んでるんです。だからたまに来ることがあって」
「そっか。この辺便利そうだもんな」
スタスタと先を歩くノゾミの後ろを、俺は大人しくついていった。