第五章


 中間テストが終わり、結果が返ってきた頃、雨が本格化して、鬱陶しい天気が続く。
 テストは、乱されることなくいい結果を残せたが、あくまでも学校のテストだから範囲が決まっている限り、俺には楽勝だった。
 ゴールデンウィーク中の休みの時、セイに教えながら、切羽詰まって自分の勉強にいつも以上に集中したので、結局は功を奏して覚えが早かった。
 そのセイも俺の教え方がよかったのか、テストのヤマが当たったのか、その後も必死で勉強をし続けたお陰なのか、なんとかベストを尽くしてギリギリ上位に滑り込んだらしい。
 それが自信に繋がって期末もこの調子で頑張ると、急にやる気が出て勉強が苦にならなくなったと大げさにノゾミに報告したそうだ。
 それをノゾミから聞いた時は、俺も達成感を得られたように嬉しくなったもんだった。
 俺もうかうかしてられない。
 学校の成績は問題ないとしても、医学部を目指すとなれば、それ以上にもっと高見を目指さないとこれではまだまだなレベルだと思っている。
 受験しないと言っておきながら、俺は結局そういう事を視野に入れてしまう。
 一体俺はどうしたいのか。
 何が一番の問題であるのか。
 それを考えるとわからなくなってしまった。
 溜息がつい漏れてしまう。
 そんな時、後ろから腕が絡んで来て、俺の首を絞めつける奴がいた。
「天見はまた学年一番か! この野郎」
 江藤が休み時間、俺にタックルをしかけてきた。
「おい、やめろって。苦しいだろ」
「見かけも最高、頭も最高。全てを手にしやがって、悔しいぜ。この、この!」
 頭をぐりぐりとされてしまう。
 それを跳ね除けて俺は叫んだ。
「全てを手にしてねぇーよ。うるさい!」
 邪険に扱っても、江藤は全く堪えない。嫉妬丸出しであっても、あっけらかんとして、憎めない事を俺もよく知ってる。
 だが、全てを手にしていると言われると、どうしてもセイの環境の事を思い出し、俺の心の内は複雑になる。
 まだプライドがある分、俺は平然と装うが、自分の境遇が恵まれているとはどうしても思えず、満足できないで悶々としていた。
 だからこそ、自分で手に入れられるものは、例えそれが学業であったとしても、俺は我武者羅に自分のものにする。
 そこに切って切れない生物学上の父が、医者であるという存在。俺には影響を与える何ものでもなかった。
「おまえさ、まだ進路を決めてないんだろ。これだけ結果出しておいて、なんで大学行こうとしないんだよ」
「だから余計なお世話だろ」
 進学の事で担任はヤキモキし、三者面談の日取りを持ちかけるが、母の仕事が忙しい事を理由に先延ばしにしている。
 担任は納得いかない顔をしながらも、俺の家庭の事情を知ってるから無理に時間を作れとも言い切れない。
 仕方なく、俺が受けられる大学の名を勝手に挙げては、勝手に進学で進めている。
 俺がどこかで考え直すと思い込んでいた。
 そうすれば俺は意味もなく意地を張るだけだった。
 俺が頑なに就職と言い切るので、俺の知らない所で担任はしびれを切らして母に電話をしたのだろう。
 ある日、母から真剣な眼差しを向けられ、進路の事について真面目に訊かれた。

「ねぇ、嶺。この先一体どうするつもり」
「どうするって、ちゃんと働いてお母さんを助けるつもりさ」
「もちろん母としてそれは嬉しいわよ。でもまだそれは後の事でもいい。先に大学に行くことくらいできるでしょ」
「借金をしてまで行っても、後にしんどいだけじゃないか」
「嶺、お金の事なら心配しないでいいの。あなたが大学に行けるくらいの貯金はしてあります」
「でもそれを使ってしまったら、今後の蓄えがなくなるじゃないか」
「そこまでお金の事を心配するのなら、嶺、医者を目指しなさい。そうすれば学費は全て免除されるわ」
「ちょっと待ってくれ、それって、例のあの跡取り問題のことか」
「そうよ、あなたは広崎家の血を引く者。これは私が広崎と離婚しても変わらない事実。あなたが医者を目指しているのなら、広崎は援助をおしまないわ」
「医者になったら、俺は広崎家に入らないといけないって事になるんじゃないか。俺は天見嶺であって、広崎嶺ではない」
「あなたの気持ちはわからない事はないのよ。でも、あなたには人並み外れた才能がある。その才能を活かして欲しいだけなの。医者だって簡単に誰もがなれる わけじゃないのよ。才能に恵まれ、そこにさらに努力して、相当の覚悟がなければなれないわ。容易く私が勧めてるだけだなんて思わないでほしいの」
「わかってるけど……」
 母は看護師だった。
 医療関係に携わってるから、病院の大変さは人一倍よくわかっている。そこに病気を治し、看病する事の現場を目の当たりにして、医者という職業がどういうものか理解していて俺に勧めている。
「この間ね、私の知っている患者さんが亡くなったの。その人は癌だったわ。見つかった時にはすでに手遅れだったけど、希望を持って闘病生活を送っていた。 色々と話をしてるうちに、うちが母子家庭で息子がいるって言うと、労ってくれて、私の方が色々と励まされたわ。将来は医者を目指してるっていったら、自分 の事のように喜んでくれて、是非頑張って欲しいって言ってくれた」
「勝手に患者に俺の将来の事決めつけて話すなよ」
「私だって時には誰かに話を聞いてもらいたいのよ。自分の息子の事も自慢してみたい。その人は私に逃げ道を与えてくれたの。私の話に耳を傾けてくれたわ。 自分の命が短いのなら、その間に少しでも誰かの役に立ちたいって言ってた。それでその人が救われるのなら、自分は安らかに逝けるなんて、笑って言うの。い つも希望を見出そうとしてたわ。だから嶺が医者になりたいって話したとき、是非とも癌が治る薬を作って欲しいって願ってたわ」
「おいおい」
「わかってる、大げさな話だって。でもね、そういう人たちを見てきて、私も少しでも病気がなくなればって思うじゃない。そこで自分の息子が医者になれば、 次の世代に自分の願いを託せるとも思うし、やっぱりお母さんはあなたに医者になって欲しいって思うの。例え広崎が係わってきても、役に立つのなら利用すれ ばいい」
「いつの間にか、広崎を許してるんだな」
「許してるとかそういう問題じゃない。それを飛び越えて、あなたの事を考えてるだけ。それに憎んだところで虚しいだけって気が付いたの。憎しみを持ってたら絶対に自分は幸せにはなれないもの。それよりも私は嶺に医者になってもらって、母親として喜びを噛みしめたいわ」
 俺は思わずため息をもらしてしまった。
「あなたが納得いかない気持ちもわからないではないわ。とにかく一度、広崎、いえ、あなたのお父さんと会ってみて。話はそこから決めればいい。ちょうどこっちにでてくるから、話し合いたいって連絡が入ったの」
 俺は言葉を失い、自分の気持ちをどう処理していいのかわからなかった。
 自分の父親を知らずに育ち、今まで会った事すらないのに、急に会いたいと言われても困惑するだけだ。
 だが、俺の中ではどんな男か見てみたいというのもあった。
「わかった。会ってみるよ」
 俺が肯定的に返事したのに、母も結局のところ複雑だったのだろう。
 目を潤わせながらも、口元は無理して笑おうとして震えていた。どこかで葛藤している部分が見受けられた。
 割り切ってると言いながらも、母の本心は心の奥深くで傷を残し、それが今頃になって疼いて痛いのを必死でないことのように装っていたのかもしれない。
 全ては俺のために。
 結局のところ、俺たち親子は、過去の事はなかった事にはできないが、それにいつまでも執着しても仕方がない事もわかっている。
 必死に立ち向かわなくてはならない岐路に立たされてるということなのだろう。
 時間の流れは、どこかで折り合いがつけられるように、当時の感情をある程度薄めてしまう。
 それがどう影響してくるのか、正直わからない。
 ただ後悔のないように、自分がどう向き合うかで意味を成してくるものだと思う。
 そう後悔がない事が、この場合重要な事だった。
 例えその時、腹が立ったとしても──
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