第五章


 6月も中旬にはいり、雨の季節が深まるある放課後、俺はノゾミと例の屋上に来ていた。
 何も雨の日に屋上にこなくてもいいものを、ノゾミが高い所から、雨を見てみたいと言ったのがきっかけで、俺たちは傘を差して屋上に立っていた。
 ノゾミがいうには、広く雨を見渡せるのも面白いのだそうだ。
「雨って、どこからどこまで降っていて、その境目はどうなってるんでしょう」
「はっ?」
 正直俺はそんな事考えた事もなかった。
 目の前に広がる景色は、どんよりとした灰色の空がどこまでも続き、街並みが煙たく霞んで見える。
 雨雲があるから雨をもたらす。街はいまその雨雲に広い範囲で覆われているという事だ。雨雲の大きさにも限度があるから、必ず端の部分が存在する。
 ノゾミはその降っているところと、降ってないところの境目はどのように見えるのかみてみたいのだろう。
「シャワーと同じだろう。シャワーヘッドの水が出る部分を雲として考えたら想像つくんじゃないか」
「それを実際に見られたら面白いでしょうね」
 そういうものなんだろうか。
 俺はこの雨が鬱陶しくて、早く梅雨が終わって欲しいと願うだけだ。
 どんよりとしてじめついた天気は気分を重くするようで、今週の土曜の夜の父親との初めての顔合わせもどんどんと深刻化していき、会う事に怖気つく。
 俺には一切の非はないというのに、どこかで十字架を背負わされた罪深き行為に感じてしまう。
 小さいころから母親に刷り込まれた父親の負の要因。
 すぐには割り切れそうもない。
「先輩、どうかしたんですか? なんだか元気がないですけど」
「いや、天気が鬱陶しいから、それが心に反映されただけだ」
「やっぱり何か心配ごとがあるんですね」
「おいおい、決めつけるなよ」
「だって、雨は心を映すから。負のイメージがあればあるほど、心が心配事に捉われるってことです。ハッピーな人は雨を見てもポジティブに考えるから」
「雨を見てポジティブに考える? 例えば?」
「水たまりが妙に誘惑して、足をぴちゃぴちゃつけたいとか、止んだ時虹がでるだろうかとか、ほら、ある人なんかは、雨の中タップダンスして楽しく踊っちゃったりするんですよ」
「おい、それはかなり昔の有名な映画のシーンだろ」
「気持ちがウキウキしてたら雨だって楽しいってことなんです。私は先輩とこうやって肩を並べて、ここにいる事がとても楽しい。なんだか河童になりたい気分です。そしたら傘もいらない」
「か、河童? おい、お前大丈夫か? なんかさっきから変な事口走ってるけど」
「こういう時、傘をほうり上げて、歌い出せばミュージカルになるんでしょうか」
「あのな……」
 俺に慣れて来たとはいえ、ノゾミは無理をしている。
 わざと馬鹿な事を口走って、俺の気を紛らわそうとしているみたいだ。
 その証拠に、ノゾミは俺の顔を見ようせず、視線があちこち向いていた。
「おいっ、俺を見てみろ」
「えっ」
 ノゾミが俺に視線を向けた時、やっぱり顔を赤らめた。
「まだ俺と面と向かうのは恥ずかしいのか」
「あっ、その、いえ、あの」
 俺は真剣にノゾミを見つめた。
 自分の心を覗かれたちょっとした仕返しのつもりだったが、その時俺は「あっ」と叫んだ。
 ノゾミは少し遅れてからそれに気が付き、走って屋内に逃げてしまった。
「おい、ノゾミ、別に俺なんとも思ってないから、そう恥ずかしがるな」
 またこの時もノゾミは鼻血を出した。
 とにかく興奮すると、鼻血が出る体質らしい。
 赤い筋が鼻から垂れると、どうしてもちょっと笑ってしまう。
 でもできるだけ失礼にならないように、俺は耐え、少し息を整えてからノゾミの許へと向かった。
 ノゾミは俺に背中を向けて、踊り場の隅っこの方でごそごそとしていた。
「鼻血がでたからといって、恥ずかしがらなくてもいいから。そればかりはどうしようもないからな」
「どうしようもない……」
 ノゾミの肩が震えていたように見えた。
「先輩、今日は一人にしてもらえませんか。暫く鼻血が止まりそうもないので」
「おいおい、俺に出たところを見られたからってそんな気にすることないって」
「ち、違うんです」
「何が違うんだ?」
「いえ、それは……」
 ノゾミは忙しく手を動かすことで、その後は黙り込んだ。
 まだ鼻血に手間どっているらしい。
 そのうちノゾミは床に座り込んで、壁を背にもたせ掛けた。
「すみません。はしたないですけど、ちょっと疲れちゃいました」
 鼻を手で押さえているが、ちらっと血の付いたティッシュが見えた。
 それは赤が鮮明に浮き上がってみえ、やはり鼻血であっても怪我をしてるみたいで心配になってしまう。
「大丈夫か」
「はい、ただの鼻血ですから」
 力なく笑うノゾミの顔が暗さのせいで、とても青白く見える。
 壁と階段とドアしかないも小さな空間も、薄暗くぼんやりとして灰色の世界だった。
 ノゾミの鼻血だけが怖いほど鮮明に赤く目に焼きつく。
 俺はノゾミの隣に腰掛けた。
「止まるまでここで一緒に待っててやるよ」
「それじゃ、止まらない方がいいかもしれませんね」
 中々しゃれた事をいうじゃないかと、ノゾミに振り返れば、ノゾミの瞳がうるんでいる。
 それを誤魔化すように笑って目を細めるから、俺もつい愛想笑いを返したが、なぜかもの悲しく思えてしまった。
 ノゾミとの約束の期限までこの時点で残り一ヶ月と数日。
 すでに半分以上も過ぎ去っていた。
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