第六章


 あの後どうやって帰って来たのか覚えてない。
 気が付いたら家に戻って、一人静かにテーブルについていた。
 そのうち母が戻ってきて、俺が腑抜けになって座っている姿にただならぬものを感じ、声を掛けるのを躊躇していた。
 台所でひとまずごそごそしたあと、さりげなさを装って言った。
「お茶でも飲む?」
 なんでもないフリをして、湯飲みを用意する手がぎこちなかった。
「なあ、お母さん。俺、やっぱり働くよ。早く一人で生活できるようになるから、お母さんもいい人見つけて再婚したらいい」
「嶺、一体どうしたの? 広崎に何を言われたの?」
「今までの事を謝られて、医者になるならないにしろ、どこへ進学しても大学の費用を出すって言われただけだよ」
「だったら、どうして」
「俺、何もかもどうでもよくなった。なんか疲れたんだ」
「嶺!」
  ずっと我慢してたものが、突然溢れてくるように母はいきなり泣き出して、俺にすがってきた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 俺はそれを無表情で受け止めた。
「お母さんは何も悪くないよ」
「違うの、お母さんが全て悪いの。広崎は何度もあなたに会いたいって言ってきたけど、私が意地悪で会わせなかっただけ。季節の行事や誕生日には必ず贈り物 をしてきたけど、私があなたに内緒で始末してたの。養育費だって今もちゃんと払ってくれてる。今行ってる高校の費用だって、広崎が払ってる」
「えっ、嘘だろ。そんな事一言もあの人言ってなかった」
「そういう人なの。恩着せがましい事はしない。面倒見がよくてお人よし、流されやすく、強いものに丸め込まれるような人。本当に気が弱いの。お母さん、そういう部分にイライラして、強く八つ当たったりもした。お互いが未熟で、自分の事しか考えられなかった」
「今更そんな事言われても」
「お母さんも、自分の失敗を認めたくなくて、あなたには父親の悪い部分しか言わなかった。あたかも捨てられたと強調して。ごめんなさい。あの人は父親としてはちゃんと責任を持てるような人」
「でも浮気したことは変わらない」
「そうね。でもあれも、広崎に魅力があったし、いい寄る女性がしつこかったっていうのもあったわ。由緒ある医者の家系、金持ちと来ていたら、抜け目ない女は隙を狙ってくるだろうから」
「それじゃ、お母さんもそうだったのかよ」
「私はそうじゃなかったといいたいわ。少なくとも医者の姿を通して、その誠実さと人柄に惚れたんだもの。でもそれが後に却って嫌いな部分になるとは思わなかった」
 父が言ってたことと似通っていた。
「もういいよ。今日はどちら側からも、自分が悪い話ばかり聞いて、余計に混乱するから。だから、俺は益々早く一人前になって一人で暮らしたくなってくるんだ」
「嶺も大人になればわかる。物事は一筋縄ではいかないって。頭ではわかっていても、色んなしがらみに縛られて気持ちが付いて行かないの」
「だからもういいって!」
 なんだか無性に腹が立ってきた。
 母に怒ってる訳ではない。
 父にも母にもそれぞれの言い分と苦労がある。それがわかっているから、こうなってしまってもどちらも責め切れない。
 だがそのせいで俺は不幸だと思ってしまった。
 それを言いたくても口に出せずに、我慢しなければならないから、苛立ってしまった。
「俺、今日、友達の家に泊めてもらう。母さんも仕事で疲れてるし、この狭い家で俺と一緒だと、余計な気遣いして気が休まないだろうから」
 俺は立ち上がり、ある限りの金をポケットに詰め、そして出て行った。
 後ろで俺の名前を呼ぶ母の声がする。
 でも母も、無理に引き留める事はなかった。
 今はお互い少しだけ離れた方がいい。きっと明日になれば、また落ち着く。
 俺はそう信じて、泊めてくれそうな友達の家へと足を運んだ。
 こういう時に都合がいい友達といったら、アイツしか思いつかなかった。
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