第七章
6
「俺が作ったケーキ、無理して食べなくていいからな」
「見た目はアレですけど、味は美味しいです」
俺たちは肩を並べて駅に向かって歩いていた。
夕方近くになって、気温はいくらか下がっても、蒸し暑さが残っていた。
ノゾミが作ったケーキは、お持ち帰り用に保冷剤を入れて箱に詰めてもらった。
すっかり長居してしまった事をノゾミの両親に詫びて、出てきたのだが、またいつでも遊びに来てと笑顔で見送られた。
ノゾミの父親も、俺の素性が分かるとすっかり信頼し、俺への警戒心は解けていた。
本当にいい家族だと思う。温かくて優しさに包まれて、そこに甘い香りが漂い、幸せが一杯詰まってる。
そのことをノゾミに伝えれば、ノゾミは照れくさそうに微笑んでいた。
「ケーキだって、あのろうそくを吹き消したら魔法がかかるみたいに、本当に願い事が叶いそうに思えるよ」
「昔はロゴの全体がろうそくになってたんです。色々と試行錯誤にデザインして、あのように落ち着きました。だけど私は初期の頃にデザインしたものの方が好きでした。あれの方が魔法の力も強いんです」
「試した事があるみたいだな」
「はい、あります。記念に残していた最後の一個を、思い立って使ってみたら、そのお蔭で先輩とこうやってお付き合いできました」
「じゃあ、そのろうそくで俺と付き合いたいって願ったってことなのか」
「直接そんな風には願わなかったんですけど、とにかく、自分の名前のごとく、望みは叶いました」
「それじゃ俺の願いも叶うのだろうか」
俺の願い。
あの時俺が願ったのは、このままノゾミとずっと付き合う事。
──もう、はっきり言う!
──俺はノゾミに惚れている!
自分の気持ちに嘘はつけない。
一緒に過ごしてるうちに、俺はすっかりノゾミに感化された。
それを言おうかと思っていたらノゾミは釘をさす。
「先輩、その願い、叶うまで人に言っちゃだめですからね」
「そうなのか」
だったら俺はどうしたらいいんだろう。
別にそれを願ったと言わなければいいだけじゃないか。
普通にこのまま付き合おうと言えば、ノゾミはまた顔を真っ赤にしてくれるに違いない。
鼻血を出したら本人には申し訳ないけど、それはそれで興奮して喜びの表現として俺は歓迎だ。
そんな事を考えて、一人ニヤニヤしていた。
その時、ノゾミは唐突に話しを切り出した。
「先輩、一億円は書留でお送りしますね」
「えっ? 書留?」
突然その話題が出てきて、俺はまた初めての事のように驚いた。
一億円の事をすっかり忘れていた。
でも10キロもするような札束を、書留で送る?
一億円がお金のように思えない。
「それと、今まで本当にありがとうございました。色々と先輩にはお世話になりました。人生最高の一時を送れました」
「一体何を言ってるんだ」
「すでに3ヶ月近くですし、私はこれで充分です。作りたかったケーキも渡せたし、しかも一緒に作れて、満足です」
「なんだよ、俺の事が嫌いになったのか?」
「そんな、前以上に大好きです」
「だったら、別にそんな急ぐ事ないんだぞ。告白してきたのは4月17日だったから期限は厳密に言えば、7月17日までじゃなかったのか。」
何を言ってるんだ俺は、期限なんて関係ないじゃないか。すぐにこのまま付き合おうと言えばいいだけの話だ。
それなのに、俺は突然の別れを切り出されて動揺していた。
「いいんです。そんなきっちりしなくても。先輩はもう自由になって下さい」
「おい、ずっとこのままじゃ、いけないのか」
ノゾミは俺をじっと見つめていた。
「先輩…… そういって貰えて私は幸せです」
ノゾミは俺に抱き着いて来た。
でも俺が抱き返そうとする前に、すぐさま離れ、そして踵を返して走って行く。
赤に変わろうと点滅仕掛けていた信号を渡り、向こう側に着いてから、振り返り叫んだ。
「先輩、どうか幸せになって下さい。そして絶対にお医者さんになって下さいね」
「おい、待てよ」
追いかけようとしても、すでに車が行き交いし、俺はその場にとりのこされてしまった。
ノゾミはその後、振り返りもせずにさっさと歩いていった。
俺は訳が分からなくなり、ただ見えなくなるまでノゾミの姿をじっと見ていた。