過去のブルーローズ


「お父さん、ただいま」
 玄関を開けてすぐさま抱きつかれ、私は不意を突かれて驚いた。
 帰って来るとは連絡を受けていたが、はっきりとした日にちを知らされることなく、いつになるのかと思っていた時、突然にエレナが戻ってきた。
 それは自然に、帰るべきところに戻ってきたように、長い間会えなかったブランクも気にせず、エレナは私に甘えて、子供のように胸に飛び込んできた。
 私はそれを受け入れ、愛情を込めて抱きしめ返した。
 自分を頼って戻ってきてくれたことが、この上なく嬉しい。
 エレナは私の娘だということを、再び味合わせてくれた。
 髪はすっかり短くなり、この一年少し苦労したのだろうか、どこか以前のふっくらとしたほっぺたではなく痩せている。
 しかし、瞳は生き生きとして、小さかった頃の面影はそこに残っていた。
 元気でお転婆だった子供の頃を想起するのと共に、私はそこに母親のマリーの姿を重ね合わせていた。
 マリーも目を引くほどの美人だったが、エレナはやはりマリーの生き写しというくらい、美しい女性である。
 私にはどうしてもマリーの姿を思い出してしまう。
 エレナはそれを嫌うところがあるというのに、私はやめられなかった。
 時が経ったとて、私にはどうしても拭えない未練が燻っている。
 こんな風にエレナが突然現れて、そっくりな姿を見せられると、私はまだそれを混同してしまうところがあった。
「お父さん、居場所も教えずロクに連絡もしないでごめんなさい」
 『お父さん』
 この言葉がエレナの口から出る度に、私は我に返る。
 エレナはマリーではない。
 私の娘だ。
 でもそれも、デイビッドの事を考えると罪悪感を覚えるのも事実だった。
「エレナが元気で無事でいてくれてたらそれでいい。それにまた戻ってきてくれたことが私は嬉しい。エレナ、お帰り」
 父親として娘を迎える。
 何気ないことのように思えるが、私にはどこか無理をするように、そう見えて欲しいという願望が付きまとった。
 生まれた時からエレナを育ててきたのは私ではあるが、10年間という月日を捉われの身として過ごし、その間もエレナを騙してきたのは許されない事である。
 真実を知ってもエレナは私を許し、父として慕ってくれているが、それはすでに和解した問題であっても、すぐに割り切り自分がしてきたことを忘れることなどできなかった。
 エレナの寛大な気持ちにただ甘え、私は父親としての役柄を与えられている事を常に意識して、この先も罪を背負っていかなければならない。
 エレナに再び会えて嬉しいと思う陰で、複雑な思いが錯綜していた。
「お父さんは変わりない? その後、大丈夫?」
 エレナはまだ事件の事を心配しているのだろう。
 しかし、口に出すのが躊躇われているのか、いいにくそうに声のトーンが少し落ちたように思える。
「何も心配することはない。全てはうまくいってるし、アレックスが色々と計らってくれて助かってる。すっかり過去の話となって、周りも感心が薄れているよ。そのうち、人々の記憶からも消えるさ」
 事件の方が簡単に忘れられるというものだった。
「お父さんも元気でよかった」
  エレナにとっても、連絡をしてこなかったことが、どこか後ろめたい部分があったのだろう。
 しかし、私はその点は気にはならなかった。
 それだけ、一人でやっていきたい意気込みが感じられたし、また必ず戻ってくるという信頼もあった。
 本人から知らされなくても、エレナがこの一年どこで何をしていたか、私は把握していたと言ったら、彼女は驚くことだろう。
 居場所と何をしているか、そして元気でやっている事は、私はレイから連絡を受けて知っていた。
 レイはアレックスの計らいで、デスモンドから逃れるために命を失ったことになっている。
 私も手紙を受けとって、初めて事実に驚いたが、生きていてくれた事の方が嬉しかったくらいだった。
 レイはエレナの居場所を突き止め、陰ながら支えてくれていた。
 本人の希望でその事はエレナには話せないが、レイも死んだと思われている方がいいのかもしれない。
 レイもエレナを愛し、一生懸命になって守り通してくれた。
 レイには感謝するばかりだった。
 
 エレナはリビングルームのソファーに腰を掛けると、一人で暮らしていた事を堰を切ったように話してくれた。
 決してそれは楽しいものだけではなく、一人で自立する苦しさも味わっ た事も隠さずに教えてくれた。
 今まで私が囚われの身で苦労を一杯かけたというのに、エレナは本当にいい子に育ってくれた。
 エレナがカイルとの婚約を破棄していた事は、当時直接本人から電話で知らされた。
 あれは、施設を出てすぐだったのだろう。
 旅行をしているという連絡を受け、その後は一人でやって行きたいからと仄めかしていた。
 あれはエレナ自身も、自分の気持ちの整理をつけるために、一人になりたかったのだろう。
 身を隠して怯えて生活してきたエレナにとって、誰も頼る人が居ないところで一人になるということが、何を意味するか、そこに自由があり、そして自立するための覚悟もあったに違いない。
 エレナも過去を振り切りたい気持ちがあったと思う。
 そして同時に、あのカイルという青年の事が気になる。
 どうも昔の自分とオーバーラップしてしまうからだった。
 エレナの幸せを願っての事だったのだろうと思うが、彼もまたエレナを愛し、どれだけ苦しんで出した結論かというのは容易に想像できる。
 彼も私のように傷を負ったままにならないで欲しいと、そればかり願うくらいだ。
 どんなに思いを寄せても、自分の思いが届かない辛さは私も良く知っている。
 私もマリーを愛していたが、その思いが届くことは決してなかったから──。

「お父さん、私、ライアンが好きなの。また彼の近くに戻ろうと思う」
 エレナがライアンを好きでいたことくらい、すでに気がついていた。
 時間が掛かったが、やっと正直な気持ちになれたのだろう。
 自分の気持ちを私に報告するエレナの瞳は、キラキラとして幸せを映し出していた。
 素直に感情を表すまで、紆余曲折があったに違いない。
 私の前で恥かしそうに自分の気持ちを知らせてくれるエレナがいじらしいと共に、どこかでライアンに嫉妬する感情も一緒に芽生える。
 父親としての気持ちなのか、大切なものが去っていく寂しさなのか、こればかりは口に出しにくい感情だった。
 それでも、エレナが幸せで居てくれる事はとても喜ばしいことには変わりない。
 ライアンに全てを任したい、期待も膨れる。
 二人にはブルーローズを送りたい気持ちだった。
「あのハンサムな男性だろ。エレナを命懸けで助けてくれた人だね」
 私がそういうとエレナは一層嬉しそうな顔をして頷いた。
 あれこそ、恋をする目。
 そして、その目を見たのは初めてではない。
 それはマリーがディビッドと結婚すると、私に報告した時と全く同じ表情だった。
 少しだけずきっと、胸が痛んだのは、あの時の気持ちが思い出されたからだった。
 この時、私は過去に戻ったように、あの状況をはっきりと思い出し、目の前にはまるでマリーが居るように思えてならなかった。
『私、デイビッドと結婚する』
 マリーは確か、そう私に言った。
 屈託のない笑顔で、私からの祝福を待ち構えて一緒に喜んでくれると期待した瞳だった。
 それはあまりにも残酷で、息が止まるほど私はショックで苦しく、喉の奥から驚いた声が反射するように漏れた。
 それを必死に隠そうとして、笑顔を作り、『おめでとう』と偽りの言葉を伝えた。
 彼女の幸せを願おうと、半ば自分に命令するように納得させ、本心は素直に祝福していなかったことを今更ながら後悔する。
「そうか、おめでとうマリー」
 私はついエレナの事をマリーと言い間違え、あの時自分が祝福できなかった気持ちを払拭しようとしていた。
「いやだ、お父さん。私はエレナよ。それにおめでとうって、まだ結婚するとかそういうつもりで言ったんじゃないんだけど」
 私は思わずはっとしてしまった。
「ご、ごめん。エレナはマリーなんかじゃないのに。本当にごめん」
 必死で謝る私を見て、エレナは嫌がるどころか、私を哀れんで見ていたように思える。
 悲しそうに、それでいてその気持ちを受け止めたいように、慈愛にも溢れていた。
 エレナは私を理解しようと、手を差し伸べたかったのだろう。
 覚悟を決めたように、真っ向から私に過去を向き合うように問いかけた。
「ねえ、もしお父さんが嫌じゃなかったら、ママと、そして私の本当のパパについて教えて貰える?」
 訊きにくいことであるのに、敢えてエレナは口にした。
 その時、私の事をお父さんと呼んでくれるが、デイビッドの事はパパと呼んでいることに気がつき、私はそこにデイヴィッドの面影をエレナを通じてみたように思えた。
 エレナはマリーにそっくりでもあるが、部分だけを見たとき、デイビッドがふと浮き上がって思い出させる節があることに気がついた。
 それは注意してみないとわからないように、些細で、隠れた部分にそれが現れている。
 例えば、眉毛の形や、骨格といった、細かいところであり、直接表現されてなくても、エレナの癖にふとデイヴィッドの仕草が重なっているように思えた。
 やはり親子であることは否定できない。
 エレナもまた、デイビッドについて知る権利はあり、私は伝えることが課せられた義務でもある。
 しかし、どうやって話そうか躊躇してしまう。
 なぜなら、この話をしたら、エレナは私を軽蔑するのではないかと恐れるからだった。
 私は、マリーの愛を手に入れようと、かなり酷いことをデイビッドにしようとした。
 今となっては馬鹿げた話で、なぜそのようにしようとしたのか、自分でも理解に苦しむくらいだ。
 だが、あの時は自分の感情を抑えることができず、かなり追い詰められて狂っていた。
 あんな話をどうやってエレナに伝えたらいいのか。
 その時、私はまだ自分を守ろうとしていることに気がつき、これでは罪を償うどころか、無責任に逃げようとしているだけにすぎなかった。
 過去の事を償うには、全てをエレナに話さなければならない。
 偽りの無い真実──。
 それが私の贖罪だった。
「──わかった」
 私が、喉の調子を整え、体を強張らせて覚悟を決めると、エレナも姿勢を正し真剣に耳を傾けていた。

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