過去のブルーローズ


「ダニエル、本当にごめんなさい。そのコーヒーをこぼしたところシミになっちゃうんじゃないかしら」
 マリーはとても申し訳なさそうな顔で私を見ていた。
「マリー、大丈夫さ。洗濯すれば落ちるよ。それより家まで送っていこうか。ここまでバスで来たんだろ」
 私は少しでも長く、マリーと一緒に居たかった。
 マリーはコーヒーをこぼした罪悪感で素直に私の申し入れを受け入れなかったが、私は笑ってマリーの腕を引っ張り、駐車場まで連れていった。
 これも結局は裏目に出てしまった事柄だった。
「ダニエルって強引ね」
「君には負けると思うけど」
 二人して微笑み合った。
 私はマリーが言うほど、そんな強引でも積極的な部類でもなかった。
 しかしマリーには、自分が頼れて強い男だと言うところを見せたかった。
 好きな女性の前ではいいように思われて、自分を大きく見せたい顕示欲が働いた。
 それが虚栄心である事はわかっていても、恋に溺れている男にとったら、本能がそうさせてしまうと思う。
 ただ私はマリーにいいように思われたくて必死になってたにすぎなかった。
 それがマリーから見ればどう思われていたのかなどとはこれっぽっちも想像できず、マリーは私の本質をすでに見抜いていたのかもしれない。
 私も女性の扱い方にはなれてなかったし、私なりに精一杯に無理をしていた。
 この時点で自分の事しか考えてなかったのがよくわかる。
 それでもマリーは私のよき理解者でもあり、私の事は一目置いていたようにも思う。
 勉強で目指している部分は共通していたし、本気で喧嘩ができるくらい、自分の主張を私にぶつけられるほど、マリーは私に心許していた。
 マリーにとって自分はどういう存在かを尋ねれば、マリーは正直に『大切な人』と言ってくれるのもわかっていた。
 だが、その大切な人にも分類がある事は、この後否が応でも知らされた。

  暫く車を走らせていると、突然マリーが声をあげた。
「あっ、あの人、さっきモールでピアノを演奏していた人だわ」
 車通りの側のサイドウォークを歩いている男性が目に飛込んだ。
 髪はダークブラウンで短いが、寝癖がついているのだろうか頭のてっぺんが少しはねている。
 ひょろりとした細い感じで、年は私より少し上といった印象を受けた。
 ジーンズに水色のシャツを着て、大きなバックパックを背負っている姿は、まるで旅をしているバックパッカーのようにも見えた。
 そして、その男はセイントローズ教会へと入っていった。
「ダニエル、ここで降ろしてもらえないかな」
 マリーはあの男を追いかけるつもりだ。
 気になったら、突っ走っていく性格は、私を探している時もそうだったが、この時はすでに抑えきれない感情を抱いているのが、瞳に現れていた。
 私はその時嫌な予感を感じた。
 あの男も、私のようにマリーに好意を抱くのではないだろうか。
 私があの時、釘付けになったように、またマリーと係わった男達が必ず興味を抱くように、その魅力に取り憑かれてしまう。
 しかし、まだ私には優越感というものがこの時あったように思う。
 だから、それを見てやろうと、興味本位でマリーに私も付いていった。
 だけど、この時もっとよく考えるべきだった。
 マリーはすでにあの演奏に惚れ込んでいたし、そして探していた曲にやっと巡り逢えた。
 それがどのような結果をもたらすか、私は想像力が乏しかった。

 マリーは教会へ続く階段を昇り、ドアに手をかけてそっと開けた。
 そこで音が小さく漏れていたが、ドアが開くと、部屋一杯で響き渡った音があちこちにこだまして、大きく包み込むように体に纏った。
 マリーが探していた曲が、またこの時目の前で演奏されている。
 ピアノと違った、もっと粘着性のある濃い音のように思え、それがマリーを歓迎しているようにも聞こえた。
「間違いないわ。やっぱりこの人がこの曲を弾いていたんだわ」 
 マリーの目は宝物を見つけたとてもいうようにキラキラと輝き、暫くその曲にうっとりとしていた。
 演奏が終わると、拍手をし、そして遠慮なく話しかけた。
「あなたなのね。やっと誰が弾いてるか見つけたわ」
 拍手とその声にびっくりしたのか、その男は目を見開いてマリーを見つめていた。
 マリーは恐れることなく、男に近づいていくと、男は椅子から立ち上がり、信じられないとでもいうようなどこかそういう事を言われるのを待っていたような表情で言った。
「君が僕を見つけた?」
 私はその様子を教会の出入り口付近で黙って見ていた。
 というよりも、私が入り込む隙が全くなく、そこに居るのが場違いなように、私は息を荒くし、無性に動揺してしていたように思う。
 その男がデイビッドだった。
 これから私を苦しめる事になる出会いだった。

「ええ、見つけたわ。ずっと探していたの」
 マリーは、やりとげた達成感が混じったように、楽しそうに笑っていた。
「まさか本当に僕の事を探しだしてくれる人がいるなんて思わなかった。この曲が本当にそうなったよ」
 デイビッドがそういうと、マリーは何を言っているんだろうと不思議そうに、首を傾げた。
「あのぉ、私、あなたが弾いていた曲が誰の曲なのか知りたくて探していただけなんだけど」
「この曲かい?」
 そういってデイビッドは少しサビの部分を演奏した。
 マリーは、再び耳にして、嬉しそうに頷いた。
「これは僕が作ったんだ。題名は『私を探して』っていうんだ。僕は作曲家になりたくていつか誰かに僕の曲が認められるようにと思ってこの曲に自分の思いを 込めて作ったんだ。君が初めてだよ。この曲を聞いて私を探し出してくれた人は」
「えっ、そうだったの。私この曲をどこかで初めて耳にしたとき凄く印象に残って、どうしても誰が作ったのか知りたかったの。それならば、あなたの思いは、少なくとも私には通じたって訳ね」
 マリーとデイビッドはその時点で、意気投合しているように私には見えた。
 私はそれが我慢ならなくて、つい二人の中に入って会話を邪魔していた。
「へえ〜、君がその曲を作ったのか。素敵な曲だよ」
 その時は、余計な事をしてという、荒んだ気持ちで、私は、心にもない事をお世辞のつもりで言った。
「ありがとう。僕はデイビッド。ところで君たちは?」
「私はマリーよ、そして彼はダニエル」
 私達がお互いの自己紹介をしていると、そこへトールマン神父が現れた。
 トールマン神父は、にこやかな表情で私達を歓迎し、ここへ人が来るのが嬉しいとでも言うように、慈愛に満ちて微笑んでいた。
「デイビッド、今日は友達を連れ来たのかい?」
「あっ、トールマンさん、違うんですよ。この人達が私の曲を探してここへ現れたんです。ねっ、言ったでしょ。いつか僕の曲を認めてくれる人が現れるって」
 デイビッドは少し興奮気味に神父に事情を話していた。
 マリーはその様子を、自分が何かに役だって嬉しいとでも言うように見ている。
 それも私には気に食わなかった。
 私だけが、神聖な神の領域に腹黒い思いを抱いていたと思う。
 神様だけには見えていたことだろう。
 それでも、私は悪魔に魂を売ってでも、デイビッドがこれ以上マリーに近づかないようにしたかった。
 その気持ちが通じたのか、トールマン神父が急に慌てだした。
「あっ、もうすぐ来週の結婚式のカップルがここへ予行練習に来る時間だ。そろそろ準備をしなければ」
 そして慌ただしく準備に取り掛かりだした。
「僕はここで結婚式の演奏のアルバイトをしているんだ。作曲家を目指しているとはいえまだまだ僕の曲は認められてないからね」
 デイビッドが言った。
「あら、少くとも私はもう認めたわ。あなたって素晴らしい作曲家よ」
 マリーはいつものはっきりという態度で、デイビッドに強く主張していた。
 デイビッドはそういう事を言われたのが初めてだったみたいで、照れながら笑っていた。
 私は二人が見つめながら笑うその様子を壊してやりたく、腹立たしかった。
 今思うとそれが初めてのデイビッドに対する嫉妬だったのかもしれない。
「マリー、そろそろ行こう。仕事の邪魔をしちゃいけないよ」
 私がそういうとデイビッドはもっとマリーと話をしたそうにそわそわしたが、私を見てはっとしたのかもしれない。
 やっとそこで、私の存在感を感じ、受け入れた様子だった。
 私は、マリーに出口を示唆して、私が歩き出すと、マリーも邪魔をしてはいけないと、潔くその場を離れる。
 だがドアから出ようとしたとき、デイビッドは叫んだ。
「マリー、僕を見つけてくれてありがとう」
 すでに名前を呼び、そこにはまた会いたいという気持ちがあるくらい、私には読めていた。
 デイビッドもやはりマリーの魅力を大いに感じ、また自分を見つけてくれたという喜びで特別な女性となってしまった。
 自分もそうであったから、デイビッドの考えている事は、腹が立つくらい目に見えた。
 なぜこんなにもデイビッドに敵視してしまったのか。
 それはあのピアノ演奏と、作曲したあの曲がマリーの心を捉えすぎてたからだった。
 私には到底敵わないものを持つ才能。
 私とて、それなりに勤勉でまじめさが売りではあると思っていたが、それが魅力かといえば、退屈の部類に入るだけに、どうしようもなかった。
 こればかりは、相手の気持ちがあってこその事だと思う。
 どんなに自分が思いを募らせていても、それが相手に届かなければ意味がない。
 デイビッドの素直なお礼は、マリーの心にまっすぐに届き、マリーはそれに答えるように大きく手を振って教会を出た。
 マリーが再び私の車に乗り込んだが、そこですでに空気が違っていた。
「不思議な事もあるのね。『私を探して』という題名の曲で、本当に私がその通りにずっと探していたなんて……」
 まるでそれが運命であるかのように、捉えているのが私は辛かった。
「ただの偶然だよ。ああやって来る人誰もにそう言ってるのさ」
 とても意地悪な言葉だったのは百も承知だった。
 マリーは笑っていたが、どこかそれが乾いた笑いにも聞こえ、私の言葉に失望しているようにも思えた。
 耳の奥で、聞いたばかりのあのデイビッドの曲のさびの部分が何度も聞こえてくる。
 私はそれが不快で、ラジオをつけた。
 今流行のロックミュージックが流れ、雰囲気は変わっても、マリーの心の中までは変えられず、マリーは振り返り、後ろで小さくなっていく教会を暫く見ていた。

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