第一章
1
エレナはその晩眠れなかった──。
心に付きまとう不安のように、外は仄白く煙らせるような細かい雨が、辺りを包み、静かに沁み込んでいく。
耳を澄ませば、溜まった雨の雫がどこかでピチャピチャと何かにぶつけて音を立てている。
季節の変わり目、天気の移り変わりが激しいこの時期の雨は、着々と暖かさを運んでくる春を準備する雨でもあった。
だから降ったり止んだりと慌しく、時には雹になったりと、いろんな変化を見せる。
エレナの心もまたこの季節のように不安定で、常に不安に襲われていた。
この日もまた、いらぬ気がかりを抱え込み、心の中まで夜の闇に飲み込まれてしまっていた。
眠りについて全てを忘れてしまいたい。
早く寝たいと焦れば焦るほど目が冴えてしまい、その時、少しでも心地よさを求め、無駄に何度もベッドの中で寝返りを打ってしまう。
しかし眠気は一向にやってこなかった。
「一体今何時だろう」
時間を確認すれば、暗闇の部屋の中でデジタル時計の数字が薄気味悪く浮かび上がって見える。
時刻は真夜中を疾うに過ぎてしまっていた。
やるせない気持ちを溜息にこめて吐き出し、エレナは仰向けになって暗闇の中で目を開けていた。
目は闇になれ、少しの光があるだけで、ぼんやりと辺りが見渡せ、そのまま天井を見つめていると、染みになった部分が生き物のように蠢いて見えてきた。
計り知れぬ恐怖が目の錯覚を起こさせた。
思わず目を瞑る。
──確かに誰かに、あの時、後をつけられていた。
襲い掛かってくる程のとてつもない脅威。何かの勘違いだと自分を慰めるように否定しようとしても不安は拭えない。
なぜなら彼女には後をつけられるだけの理由があるからだった。
──もしかして奴らが追ってきたのだろうか。それなら居場所がばれてとっくに捕まっている。まだこの家に居られるということは何も知られていないのだろうか。
色々と思いを巡らせ、落ち着こうと試みる。
しかし一度芽生えた憂慮は、この時簡単には消え去ってくれなかった。
恐れているものから逃げるように、シーツに潜り込む。
得体の知れないものがすでにこの家の外にいる気がして、息を殺すようにベッドの中で体を丸め、自分の存在を隠そうとしてしまう。
いつからこんな夜を幾度と過ごしてきたのだろう。
恐怖の陰で悔しくもあり、エレナは感情を押さえ込むために歯を食いしばっていた。
そして時間だけが冷然と過ぎ去っていった。
エレナが住んでいるこの家は家といっても普通の建物ではなかった。
年季が入って、あちこち古く黒ずんではいるものの、白い木造で、屋根にはとがった三角のスティープル、そしてその上に十字架がのっていた。
どうみても教会だった。
ここは、親を失ったもの、訳があって両親と暮らせないもの、その他様々な理由を持つ、行き場のない子供達が集まってくる施設だった。
彼女は10歳の時に、身寄りのない子供の一人としてひっそりとここに連れてこられた。
それは身を隠すためだった。
たくさんの子供達が入れ替わり出入りする中で、エレナだけはここから動けなかった。
ここを出るということは危険を意味し、ここに居れば誰かが守ってくれる保障があったからだった。
あれから10年。
エレナはいい加減に自由になりたかった。
この境涯は一生続くのかと思うと寂しく嘆声がもれた。
隠れるように生きてきたせいか、自分のことをあまり構えず、オシャレ気が全くない。
いつもラフな服装でジーンズ姿。
背は高く、少し磨けばモデルにでもなれそうな、青い目の美しい少女とだというのに──。
しかしダイヤモンドの原石も磨かなければただの石。
今のままでは彼女もただの田舎ものだった。
──一体誰が後をつけていたのだろう。過敏になりすぎて妄想だったのだろうか。これが現実か夢かもわからない。
考えすぎて頭がおかしくなりそうだった。
暫くじっとしてたが、先ほどまで降っていた雨がいつしか止み、雨音が遠のいたことに気がついた。
シーツから顔を出せば、窓際が仄かに明るくなっている。
恐怖を駆り立てる、得体の知れない存在が、本当に居るのか確かめたくて、ベッドから身を起こし、窓のカーテンを引いてみた。
誰もいない事を確認すると、少しほっとした。
雲が空を流れている。
その間から月が顔を出し、殺風景な狭い部屋の中に冷たい光をもたらした。
月の光は心を少しだけ癒してくれる。
その光に照らされた机の上のオルゴールを手にして、そっと蓋を開いた。
優しい音色が流れては、エレナの心に浸透していく。
そのオルゴールは唯一自分を慰めてくれる、父親からの贈り物だった。
オルゴールの曲名は『私を探して』。
作者不明──。
トップには手作りなのか荒削りにバラの絵が彫られ、その花びらの色は青く塗られている。
このオルゴールを渡された翌日に、父親が目の前で連れて行かれた。
一体なぜそのような事が起きてしまったのか。
誰も説明してくれないまま、時だけが過ぎてしまった。
いつかは父親に会えるかもしれない希望を待ちつつ、このオルゴールの曲に父の無事を願っていた。
「お父さん、このオルゴールの題、『私を探して』って、これお父さんのことを意味してるの? 私だって、お父さんを探せるものなら探したい」
暫く優しい音色に耳を傾ける。
殺風景な部屋にメロディだけが真実を奏でているようだった。