第一章


 垂れ込めていた雲の間から太陽の光が差し込んだ。
 心強い味方を得て安心した自分の心のようだと例えてみるが、いつからそんなメルヘンチックになったのかと男は蔑んで自問自答する。
 だが、ハワードは期待以上の事をしてくれると感じていた。
 男もまた様々な修羅場を潜ってきただけ、人を見る目を養っており、ハワードのあの鋭い目つきには知性が溢れていることを読み取っていた。
 決して屈しない自分の信念を貫く目。
 自分を信用してくれる数少ない人間だと感じ取っていた。
 だからこそ、どうしてもハワードの助けが欲しかった。
 できることなら、詳しいことは抜きにして依頼だけを受けて欲しかったが、ハワードなら多少の危険が迫っても自分でなんとかするだろうという思いもあった。
 実際、それはハワードも望んで自ら首を突っ込んできただけに、何が起こったとしても男は一切の責任を取る必要はない。
 寧ろ、ハワードの方が契約時に自分からそれを示唆してきた。
 それだけ自己責任で気をつけると念を押したのだろう。
「頼もしい奴だ」
 その気持ちと晴れ間を覗かせた空がオーバーラップし、久々にいい気分だった。
 だが、それも束の間の安らぎにしか過ぎず、西の空には暗い影を含んだ分厚い雲が迫ってきていた。
 それもまた、これからしなければならない闇の仕事のように、男には暗黒の世界が待ち受けていた。
 男はダウンタウンから郊外へ向かい、ローカルの小さな飛行場にやってきた。
 自らセスナ機の操縦ができ、主に空を使って移動している。
 この日の用事が済むと、男は自分の身を置くべき場所へと戻っていった。
 仕事場といってしまえば普通のビジネスマンと変わりないが、男がやることは決して公にできない闇の仕事。
 仕事が入れば、人間らしい感情は持ち合わせず、自分の目的のためだけに、男は覚悟を持って割り切っていた。
 別の飛行場に降り立ち、そこからは車で移動する。
 辺りが薄暗くなっていくのと同じように、男の表情もそれに合わせて一層硬くなっていった。
 目的地に着けば、同じような風貌の数人の男達がすでに到着しており、男が遅れてきたことに不満を露にしていた。
 それでも男は謝る事もせず、堂々として生意気にその輪の中に入った。
 それが反感を買うことも、充分知った上でそのような行動をとるのであった。
 他の者達は不満を持ちつつも、面と向かっては口に出さない。
 なぜなら、行動力、判断力、そして頭脳明晰な有能な部下とボスから認められ、男はそれだけやるべきことを完璧にこなし、常に自由に行動することを許されてるからだった。
 唯一文句を言えるのは、その組織のまとめ役を買ってるリーダーただ一人だった。
 この時はそんな問題に一々反応する暇はなく、やるべき仕事を先に優先させる。
 皆、不満を口に出す余裕などなく、今から何を見て、そして何をすべきか、神経を尖らせる嫌な仕事が待っているのを知っていた。
 今回はすでに起こってしまったことの後片付けが仕事だった。
 目の前には死体。
 自然死とは到底思えない悲惨な死に方をしていた。
 この死体を片付けて、現場の証拠を抹殺、全てを隠滅する。
 さらに、この後念入りに目撃者が居ないか調査して、不都合な人物が出てくれば、またその始末もしなければならない。
 それぞれの役割に分かれ、男達は自分の作業に取り掛かった。
 何度となく、同じようなことをしてきただけあって、慣れた手つきで死体を用意していたそれ用の袋に詰める。
 まるで自分の将来を見ているようだと、男の目には死体が自分と重なって見えていた。
 初めて凄惨な死体を見た時は吐き気を何度も催したが、数をこなせば感情を押さえられる術を身につけてしまった。
 決して慣れたわけではなかった。
 全てが片付くと男は近くの手洗い所を探す。
 自分の手を洗うためだった。
 仕事の後は必ず手を洗うのが彼の癖であるが、その洗い方は異常だった。
 決して落ちぬ汚れ。
 罪までも流すつもりで我武者羅に洗っても無駄であり、決して消えぬとわかっていても、心だけは悪に染まりたくない。
 男は仕事の後、手を洗いながらいつも葛藤していた。
 綺麗に手を洗ったつもりでも、男の目には沢山の血がこびりついているように見えていた。
 自分が殺めてしまった男達の血が沁み込んでいる。
 簡単に拭える訳がなかった。
 それでも自分が地獄に落ちてまで守り抜きたいものがある。
 エレナの事を考えては、自分を奮い起こしていた。
 仕事が終われば、ここにいる連中から離れられる。
 自分の用が済んで、一刻も早くこの場から出て行こうとしたとき、後ろから呼び止められた。
ディー、何をそんなに急いでいる。例の事件の手がかりを掴んだのか」
 厳ついた肩をゆったりと揺らしながら、貫禄を見せて近づいてくる。
 目の前の男をしっかりと捕らえた冷酷なきつい目つきは、まるで猛禽類のようだ。
 ジェルを使っているのか黒髪をオールバックにし、艶やかに光っている。
 この男が『ジェイ』と呼ばれるリーダーだった。
 DやJというのはこの男達のコードネーム。
 この組織はそれぞれアルファベットの文字の発音を名前にしていた。
「いや、早く帰りたかっただけだ。その事は何もわからぬ」
 もちろん全てを知っている訳だが、それを悟られないように、Dは態とリーダーに話すのが面倒臭いというべき態度で答えた。
「最近、勝手な行動が目立つが、何か掴んでいるのじゃないのか」
 それはJのハッタリではあったが、Dは用心を重ね相手の動きを探ろうと試みる。
「だとしたらどうなんだ」
「一人で手柄を立てようとするなということだ。お前は昔から自分勝手だ。組織の一員だということを肝に銘じろ」
 違う方向で勘違いしていることはDにとっては有難かった。
 あたかも自分が野心を持って手柄を立てようとしている態度を仄めかすように、鼻でクスッと笑ってやった。
「ああ、覚えておくよ」
 Jが自分よりも地位の高いリーダーであっても、敬意を示すことなく適当にあしらった。
 それがJの反感を買うことを良く知っていた。
 ──俺はJにここで殴られるだろう。殴るなら殴れ。
 その瞬間Dはよろめき、口元から血がでていた。
「俺を殴ることで気が済んだか。なんならもう一発反対側を殴ってもいいんだぜ」
 そんなパンチは効きもしないと蔑んだ目つきを返した。
 リーダーのJは、そんな挑発に乗るほど馬鹿ではなかった。
 腹は立つが、暫く睥睨しては最後は鼻で笑って、Dを子供扱いしていた。
 これで自分の目的は果たして充分だと示唆し、姿を消した。
 DにはJの意図がわかっていた。
 上下関係を見せ付けるために殴られただけに過ぎないということを──。
 自分が殴り返せないことで、これはJの地位が上であり、越えることなどできないと知らせるJのからかいだった。
 D自身、組織内の力関係が馬鹿らしかった。
 そんな上下関係のことなどどうでもいいことだった。
 ──俺にはもっとやらなければならない使命がある。命に代えても守らなければならないことが。
 いざというときにはリーダーであるJを始末する覚悟でいた。
 いずれその時がやって来る。
 だからこの時はせいぜい敵意をもって嫌ってくれと願っていた。
 そうすれば、いざ、その時が来れば、後腐れなく殺れる。
 Dにとって、リーダー、または全ての仲間から嫌われることは都合がよかった。
 誰にも束縛されず組織の仕事は完璧にこなす。
 Dは今の自分の地位を確立し、ボスから認められるまでかなりの修羅場を潜ってきた。
 誰にも文句は言わせない。
 それだけやるべきことをやってきた。
 Dが今まで何をしてきたか、信用を得るためだけにやってきたことは、振り返れば凄惨なものだった。
 もちろん自分の命も脅かされて、瀕死を経験した事もあったが、自分は絶対に死ねないという気持ちが、いつも不死身さに繋がった。
 やる時は己を捨て、さらに人間である事も忘れ、全身全霊で人の命を奪いに掛かる。
 今はそんな事を思い出したくない。
 自分の真の目的のため、未来だけを見つめ、過去の事は振り返りたくなかった。
 ただ一つの事を例外にして。
 例のエレナの父親が連れ去られた事件だけは決して忘れる事はできなかった。
 そしてこの組織がエレナを脅かし、居所を掴もうと捜している。
 この10年間簡単に見つけられなかったのも、Dが情報を内部からコントロールして、自分がエレナを匿っていた。
 だがそれもそろそろ限界だとDは感じていた。
「早く、行動を起こさねば手遅れになってしまう」
 Dにそろそろ焦りが出てきていた。
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