第一章


 普段無駄口を叩かないハワードだが、より一層口を一文字にして難しい顔をしてデスクについている。
 ライアンはソファーに腰掛け、雑誌を読んでるフリをしながら遠目でその様子を伺っていた。
 先日やってきたやばそうな男の依頼の件で色々と調べ物をしているのはわかっていたが、いつになく黙り込んでいるその姿は、ライアンを警戒させた。
 ハワードは話のわかる奴ではあるが、何かに没頭していたり、気がかりな事件を抱え込んでる場合は下手に話しかけたりしてはいけない雰囲気がする。
 ライアンはどんな依頼が舞い込んだのか好奇心をくすぐられるが、これは絶対に訊いてはならない事だと判断していた。
 探ったところでハワードは答えることはないが、それ以前にこれ以上気難しくなって機嫌を損ねられたら、事務所が凍りついてしまうくらいに冷え冷えするのが耐えられない。
 ハワードは無駄に怒りはしないが、気分を害すれば部屋の温度を本当に下げてしまうくらいの冷ややかな冷たい態度をとる。
 ただでさえいつも睨んだ目つきをして、初めて会えば怯えてしまうぐらいなのに、それがパワーアップして、知ってる者でも恐れるくらいの厳しさになるからやりにくいものがあった。
 どんなことに首を突っ込んだのか、益々気にはなってくるが、ライアンも見て見ぬフリを決め込んだ。
 しかし、毎日退屈で、時に入った依頼は雑用やくだらないものばかりに正直飽き飽きしている。
 自分も没頭するくらいの面白い仕事が舞い込まないか願っていた。
 困った美女を助けて、そして惚れられてロマンスが始まるような事件でもあればと考えていた時、電話のベルが静けさの中に突然割り込んできた。
 ハワードがすぐにそれを取り、受け答えをし始めた。
 ライアンもその様子をじっと見ては、時折漏れる会話から事件の匂いを嗅ぎ取った。
 ハワードがあの男の依頼に没頭して忙しいこの時、もしかしたら自分の出番かもしれないと背筋を伸ばして待っていた。
「そうですか。それは大変ですね。わかりました。すぐにそちらへ助手を向かわせます」
 ハワードがそういったとき、ライアンは「来たー!」と立ち上がった。
 初めての大きな事件かもしれないとワクワクしているライアンに、ハワードはキリッとした表情を向けた。
「ライアン、仕事だ。ミセスデンバーが君にすぐに来て欲しいそうだ」
 それを聞いたとたん、ライアンはがっかりと表情を曇らせ、ソファーにへたり込み、最後はごろんと寝転んだ。
「ちぇっ、ミセスデンバーの依頼かよ。俺、パス!」
 ミセスデンバーはライアンの天敵だった。
 お節介焼きで、良く喋り、また人使いが荒いときている。
 みかけもでっぷりと太っている風貌から、そのずうずうしさが滲み出しているように見えた。
 何かあるごとにライアンを呼びつけ、用事をさせるという依頼ばかりをしてくるのでうんざりしていた。
 この間の仕事は、芝刈り、その前は風呂場の排水溝つまり、今回も何か壊れたか掃除くらいに思っていた。
「ライアン、探偵とは普段からの情報収集に努める事が基本だ。ミセスデンバーはそれにはうってつけだ。彼女はこの辺のゴシップを良く知っている。仕事が例 え何であれ、勉強のためにもやりたくないこともやらなくてはならない。それにミセスデンバーは君がお気に入りなんだよ。なんせ君は女性にはもてるからね」
「ばあちゃんにモテても全然嬉しくないぜ。それにハワードはこういう仕事を受けないじゃないか。なんで俺だけが」
「暇をもてあましてるんだから、ぶつくさ言ってないでさっさと行ってこい。今日はいつもと違う様子だった。何か大変な事が起ったのかもしれないぞ」
「はいはい、わかりました。ほんとに人使いの荒い奴だよ」
 依頼があるからには、報酬が伴う。
 最後はお金のためだと思って割り切るしかなかった。
 がっくりしたやる気のない態度で、ドアを開け、出て行く。
「俺は探偵であって、便利屋ではない!」
 愚痴りながら、ミセスデンバーの家へと足を向けた。

 ミセスデンバーの家は事務所から歩いて行ける距離にあり、ダウンタウンの車通りの一番激しいメインストリートを渡ってまっすぐ向かっていけば住宅街のブロックが現れる。
 古くから建てられた家々は、この地方の伝統的なデザインが残り、正面の玄関に向かう階段と、その玄関先に広がるポーチがついてる家が数多く見られた。
 階段が設けられて少々高めに建てられてるため、地下を作りやすく、二階建ての家だと、実際三階分の大きさがあるものも多かった。
 緑も多く、ダウンタウンからあまり離れてなくてもこの辺りは静かでとても落ち着きがあり、ミセスデンバーの家も、庭の芝生の緑に映えた風情のある佇まいだった。
 そんな平和な住宅街で、ライアンの到着を今か今かと、家の前のストリートをうろうろしながらミセスデンバーは待っていた。
 ライアンの姿が見えたとき、手招きして急げとせかす。
 そして面と向かい合った時のミセスデンバーの表情は真剣そのものだった。
 先ほどまでは背中を丸めて嫌々歩いていたが、この時、何かを感じ取り、ライアンの表情にも変化をもたらした。
 それと同時に期待が膨らみ、探偵気取りにピンと背筋が伸びる。
「遅いじゃないの」
 ライアンの登場を待ちきれなくて、ミセスデンバーは第一声に文句を飛ばした。
「すんませんね。羽でもあったら飛んででも早く来たかったんだけどね。でもまたミセスデンバーと会えて嬉しいぜ。元気だった?」
 これで機嫌は直るだろう──。
 ライアンは女性を喜ばす言葉を心得ていた。
 それが例え心になくても、口はなんとでもいえるから、その術にミセスデンバーも簡単に引っかかる。
 実際のところ、ミセスデンバーもそれが方便だとわかっているが、甘いマスクのライアンから言われると気持ちは素直に反応していた。
「とにかく、来て」
「おいおい、一体何があったんだよ。腕ひっぱんなよ、ばあさん」
 余程のことがあったのか、ミセスデンバーのでっぷりと太った逞しい腕で、力強く引っ張られて、ライアンはよたついてしまった。
 しかしつれてこられた場所の現状を見て、目が覚めるくらいはっとした。
「なんだ、これは。台所がめちゃくちゃじゃないか。皿は至るところで割れてるし、窓の日よけカーテンは引き裂かれてるし、そのへんのもの飛び散っては倒れてるじゃないか」
「外から帰ってきたらこうなってたのよ。きっと泥棒に入られたんだわ」
 泥棒──。
 これはまさに探偵の仕事にふさわしいと、ライアンは真剣な顔つきになった。
 まさにシャーロックホームズ気取りに、手を顎の下においては「うむっ」と考え込んだポーズをとった。
 声まで上品に変わる。
「それで取られたものは?」
「それが何も取られた形跡がないのよ」
「えっ、何も取られた物がないのに泥棒が入った? それじゃ何のためにこんな事をするんだ」
「わからないから警察を呼ぶ前にあんたを呼んだのよ」
「そうだよな、普通物を取られたら探偵じゃなくてまず警察だな」
 この事態どうすべきか、ライアンは注意深く辺りを見回していた。
 ミセスデンバーは料理好きとあり、キッチンはいつも綺麗にしていた。
 それがこれだけ荒らされていれば、ショックも強いだろうし、めちゃくちゃにした犯人が憎いことだろう。
 もしかしたら恨みの線が濃いかもしれない。
「最近人から恨まれたことは?」
「そんなのないわよ。でも……」
 考え込んでいるミセスデンバーを見て、ライアンは手がかりが得られそうなことに胸を弾ませた。
「そういえば、この間地元のアップルパイコンテストで優勝したんだけど、それへの嫉妬かしら」
「なんと、アップルパイコンテストに優勝? それはすごい。俺も食べたい」
「ちょっとライアンまじめにしてよ」
「はいはい」
 誰かがミセスデンバーの腕に妬んで嫌がらせをしたのだろうか。
 それほどまでになるくらいのアップルパイの味とは一体……
 そう思いながら、ライアンは台所を歩きまわっていると、ミセスデンバーが飼っている毛の長い白い猫が、どこからかやってきてライアンの足元に擦り寄ってきた。
 この猫はオッドアイで、左右の目の色が違う。
 ライアンもこの猫が好きで、ここに来ればいつも撫ぜたり、だっこしたりして可愛がっていた。
 いつものように猫を抱き上げ、神秘的なその目を見つめた。
「よお、ジニー、お前は家にずっと居たんだろ。何があったか話してくれねぇか」
 ライアンに抱きかかえられるといつもならじっとしているジニーだが、この時は体をうねらせ触られるのを嫌がった。
 ふさふさとした尻尾が忙しく動き回り、いきなりシャーと威嚇したので、ライアンはびっくりしてジニーを落としてしまった。
 ジニーは一目散に走り、流しの横のカウンターにジャンプして低く唸りだし、その後は顔をしかめて歯をむき出し、シャーシャー言っている。
 尻尾も膨れ上がって、まさに猫の世界でいう恐ろしい風貌になっていた。
 そのカウンターの上にはキャビネットがあり、そこにめがけて威嚇している様子から、ライアンもじっと見つめた。
 微かにコトっという音が聞こえ、何かが居る気配がする。
 誰か居る!
 緊張が走ったが、そこはお皿や鍋をしまう戸棚であるから、人間なんて隠れるようなスペースはないはずだった。
 恐れながらそこへ近づき、そのキャビネットの扉をそっと開けた、その時だった。
 目の前にありえないものが居てそれと目が合って、凝視してしまった。
 その瞬間、それがライアンの顔に遅い掛かってきた。
「うげっ!」
 まさにホラー映画の展開のように、ライアンは度肝を抜かして後ろにはねた。
 急に動いたライアンから振り落とされないように、そいつは力強く爪を出して一層顔にしがみつく。
「あら、アライグマ……」
 ミセスデンバーも驚きすぎて、咄嗟に動けずにその場で格闘しているライアンを唖然としてみていた。
「ひえ〜なんだよこいつ」
 はがそうとしても、アライグマも気が動転していて、さらに食い込むようにライアンの顔から離れなかった。
 ライアンは必死にアライグマの首根っこを掴み、無理に顔から引っ張れは、それとともに痛みが伴った。
 咄嗟に近くの窓をあけ、そしてそいつをそこから放りなげると、アライグマはすたこらと走って逃げていく。
 それを見ながら、ライアンはハアハアと息をついていた。
 台所を荒らした犯人はどうやらアライグマと猫の仕業だった。
 家に侵入したアライグマが、台所で物色している時に、猫に見つかってしまい、そこで追いかけっこが始まった。
 その結果がこれであった。
 ライアンは暫く方針状態になっていたが、頬に痛みを感じてはっとした。
 思わず触れると、さらなる痛みに「ひっ」と声が漏れて体がピクッとする。
「嘘だろ」
 自慢の顔をやられてしまい、絶望感が漂う。
 怖くて、鏡で傷口を確かめられないほどだった。
 ミセスデンバーもお悔やみの表情になっていたが、面と向かってライアンと目が会うと、わかり易いほどに落胆している姿が滑稽で、ついプッと噴出してしまった。
「おいおい、婆さん笑うなよ」
「ごめん、ごめん」
 謝りながらも、ライアンの顔を見ると壷にはまってしまい、笑いが止まらなくなっていた。
「勘弁してくれよ。こっちは笑えないぜ」
「わかってるって。あんたのお蔭で事は片付いたんだから、感謝しているよ。私一人だったらどうしようもなかった。本当に有難う。今日はもうこれでいいから。その前に傷の手当してやろうか」
「いいよ、自分でするから。こんなの大したことないぜ」
 ライアンにも男の意地があった。
 年を取った女性の前ですら、かっこつけようとしている。
 ミセスデンバーから依頼料を受け取ると、さっさと家を出て行こうとしていた。
「あっ、ライアン、いつかこのお詫びするからね」
「いいって、気にすんな」
 そういってる自分が一番傷口の事を気にしていた。
 事務所に帰る途中、何度も恐々と顔の傷に触れ、その度に伴う痛みに顔を歪ませていた。
 その時は一本や二本の引っ掻き傷があるくらいに思っていた。
 溜息を大きく吐き出し、気分が晴れないまま人通りの多い中を沈んで歩いていると、心なしか道行く人が振り返っていく。
 それが鬱陶しく、気持ちは段々とむしゃくしゃしてきた。
「くそ、気にいらねぇ、一暴れしたいぜ」
 鬱憤晴らしの喧嘩でもしそうに、自棄になってふてぶてしく歩いていた。
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