第一章


 エレナが乗り込んだバスは、まばらに人が座っている程度で、比較的空いていた。
 座ってるだけのバスの中では、皆、無表情でどことなく疲れた表情にも見える。
 窓際に座ったエレナも、暗い面持ちで流れる景色をぼんやりと眺めていた。
 バスの中の篭った空気がどことなく息苦しい。
 やはりこの時も、施設の立ち退きのことで頭が一杯だった。
 この先一体どうなってしまうのか。
 それを考えていると、このバスがどこを走っているか注意を払えなくなっていた。
 ぼんやりと考え事をしていると、時間の感覚は失われ、また自分がどこにいるのかという空間の感覚も奪われて、降りるバス停が疾うに過ぎ去ってることにエレナは気がついてなかった。
 はっとして、我に返った時には街の中心部にやってきていた。
 ──乗り過ごした!
 慌てて、降車ボタンを押した。
 しかし、降りた時はすでにダウンタウンの賑やかな街の中だった。
 沢山の人が歩いている姿を見ると、その中に自分を捜してる輩がいるのではと心配になってくる。
 戻りのバスがくるバス停は、斜向かいにあったが、車の行き来が激しいストリートは簡単に横切れなかった。
 横断歩道は少し離れた先にあり、その時、遠くの方から戻りのバスが向かって来るのが見えていた。
 ──早くあのバスに乗ってここから去りたい。走れば間に合うかもしれない。
 焦って慌てて走ろうとした刹那、人が近くを歩いてることに気がつかず、かなりの衝撃でコーヒーを持っていた二人組みの男と接触してしまい、男はカップを派手に落としてしまった。
 あっ、と思った時には無残にも地面に叩きつけられて、その飛沫が男の靴にも飛び散っていた。
「ご、ごめんなさい」
 咄嗟に謝るが、ぶつかった相手が悪かった。
 この日、遊べる女を捜して歩いていていたナンパ目的の男達だった。
「ちょっとどこ見てるんだよ」
「あ、あの、べ、弁償しますから、本当にごめんなさい」
 男に謝っているうちに、戻りのバスがバス停に来てしまった。
 もうあのバスには間に合わない。
 どうせ乗れないのなら、慌てる事はなかったとエレナは後悔した。
 ついてないと思いながら、視線を前に向けると、目の前の男二人はエレナをじろじろ見ていた。
「あの、いくら払えばいいですか?」
 恐る恐る問いかけると、男達は顔を見合わせてニヤニヤしだした。
「それじゃ、一緒に来てあんたがコーヒーを買ってくれ」
 なんだか嫌な予感がする。
 それでもエレナはコーヒーを買うだけだと我慢して、この男達と一緒に歩き出した。
 1ブロック歩けば、すぐに有名なカフェがあり、そこにエレナが入ろうとすると、男達は首を横に振った。
「俺達はここのコーヒーを買ったんじゃない。もっと向こうの店さ。やっぱり同じものを買ってもらわないと」
 男達はこの時もお互い顔を見合わせて、変な笑い方をした。
 エレナもまだこの時点では男達の言い分を鵜呑みにし、そして言われるまま一緒に歩いていく。
「その角を曲がって、そこをまっすぐさ」
 言う通りに曲がって歩けば、すでに人通りの多いストリートから外れていた。
 店など全然ない、殺風景な寂れた場所にさしかかり、エレナはやっとおかしいことに気がつく。
「あの、コーヒーショップはまだですか?」
「うん、まだだよ。この先に俺達の車が停めてあるんだ。それに乗っていかないと売ってない」
「えっ? ちょ、ちょっと待って下さい。私、そんな遠くまで買いにいけません」
「だけど、弁償するって言ったじゃないか」
「もちろんそうしますけど、でも、まさかそんなに遠い場所にあるとは思ってなくて」
「いいじゃないか。これも縁だと思って俺達と一緒に遊ばないか。それが慰謝料代わりというもんだろ」
「嫌です!」
「おいおい、何言ってんだよ。自分からぶつかってきて、弁償するって言っておきながら」
「でも、こんなのやり過ぎです」
 エレナは恐怖に慄いた。
 そして身の危険を感じて逃げようとしたとき、腕を捉まれてしまった。
「ちょっと待てよ。コーヒーはどうすんだよ」
 男が無理やりエレナの腕を引っ張ってしまう。
「痛い、離して!」
 その時、エレナの脳裏に昔の記憶が鮮明に蘇ってフラッシュバックが襲ってきた。
 父と離ればなれになってしまったあの出来事──。
 数人の男が突然家の中に押しかけて、父を無理やり拉致したあの日の事件。
 一人は銃を向けていた。
 エレナも腕を掴まれ力ずくで引っ張られる。
『痛い、やめて! お父さん、助けて』
 エレナを助けようと父親が男達に歯向かった。
 しかし、父親はすぐに取り押さえられ暴力を振るわれた。
『やめて! お父さんに何をするの!』
 子供ながらもそれを見て逆上し、側にあったものを片っ端から投げ必死に奮闘する。
 無茶苦茶に体を動かして、手を掴んでいた男の足を踏みつけ、その衝撃にひるんだ時に思いっ切り男の腕を噛んで振り 切った。
 そして今も耳に焼き付いてる父の声。
『エレナ、逃げるんだ!』
 その記憶と共にエレナはパニックに陥った。
「いやー!」
 感情が爆発するように、突然大きな声で叫んでしまう。
その悲鳴は近くを歩いていたライアンの耳にも入った。
 条件反射のごとく一瞬で状況を把握したライアンは、声のする方へと走り、そこで腕を引っ張られて男と揉み合っているエレナの姿を見つけた。
 それは彼にとってこの日の鬱憤が晴らせる絶好のチャンスでもあった。
 一暴れができると、喜び勇み、機敏な動作でエレナの腕を掴んでいた男の手を力一杯ひねり潰してやった。
 男はエレナの手を離し、後ろに下がったその時、ライアンを見てギョッとした。
「ようよう、お前ら何やってるんだい。どうみてもお嬢さんは嫌がってるじゃないか。離してやれよ。それともオレに殴られたいか」
突然顔に無数の引っ掻き傷のある男が現れ、男二人はその血がにじむ傷の顔に圧倒された。
ライアンは、一瞬その傷の事を忘れていた。
 いつもの癖で、自分がまた女性に好かれると自信過剰になり、口元にニヤリと笑みまで浮かべて、決まったと自惚れている。
その時エレナは言った。
「ほっといて!」
 助けてやろうとしてるのに、ましてや男二人に絡まれ嫌がっているというのに『ほっといて』とはライアンにはありえなかった。
 顎がガクッと落ちたような驚いた顔をエレナに向けた。
 エレナは逆上していて、今にも飛び掛りそうに、恐ろしい剣幕で男達を睨みつけていた。
 その異常な殺人鬼にも似た態度に、男達も引いた。
 ライアンもこの男二人も時が止まったように、その場でじっと エレナの様子を伺っていた。
 エレナは拳を握り締め、ぶるぶると震えている。
「私許せない!」
怒りに満ちた声で叫んだエレナは、この時過去の記憶の中にいた。
 子供の頃に抱いた怒りが蘇り、エレナの気を狂わしてしまった。
 エレナの声を聞いたのはライアンだけじゃなかったので、この時、他の人も何が起こっているのか様子をみるために集まってきた。
 男達二人は下手をすると警察までくるのではと懸念し、気持ちが一気に萎えてしまった。
 顔に傷のある変な男ライアンと我を忘れて戦おうとしている女エレナ、そして周りに集まってきた人々に恐れをなしている。
「おい、もうほっといて行こうぜ」
 と一人がもう一人の男の袖を引っ張りながら言うと、逃げるように男二人は去っていった。
 ライアンはその二人の男の後ろ姿を暫く見つめ、これ以上危険がない事を察知した。
 そしてエレナの様子を伺うと、エレナは焦点も合わない目をして動かずじっとしていた。
 怒りが収まらずに体を震わしているエレナに、ライアンは落ち着かせようと声を掛ける。
「お嬢さん、二人はもういったぜ。もう大丈夫だ。安心しな」
 エレナはライアンの方を向いた。
 まだ過去の記憶と共に蘇った感情が、邪魔をしている。
──この人は誰? さっきの男達の仲間?
 怒りが燻ったまともな思考力じゃないエレナは、困惑していた。
「あ…… そう」
そっけなかったが、 ただ一言、このようにいうのが精一杯だった。
 ライアンを見るエレナの目が全く歓迎してなかった。
 自分の思うような態度を取らないエレナにライアンは少し不服になってしまう。
「おい、助けてやって、『あ、そう』はないでしょ。ここはありがとうじゃないのかい?」
 ライアンは一応優しく言ったつもりだったが、エレナにとって自分が置かれている境遇を知らない人から、一々指図されるのは鬱陶しかった。
 過去の記憶のトラウマのせいで、エレナは感情を露にしてしまった。
「私一人でもなんとかなったわ」
つい見ず知らずのライアンに八つ当たりしてしまった。
「なんだいそれ。顔はかわいいのに、性格はかわいくないね、君。でも…… その顔、不思議とどこかでみた感じがするよ。もしかして一度どこかで会ってないかい?」
──どこかで一度会った? まさか、この人私の過去を知っている?
 それは一番恐れている事態だった。
 はっとして、この時ようやくライアンの顔をまともに見ると、知ってるのを確かめるどころかその頬の傷にギョッとしてしまった。
──何この人。でもこの状況から早く逃れなければ。
 それは無意識に働いた。
「あなたはいつも初対面の人に向かって、関心を引くためにそんなことを言ってるんじゃないの。 あなたもまた女の子をひっかけるのが得意な人なんでしょ。そして失敗して女性から顔を引っ掻かれたのね。残念ながらあなたには一度も会ったことはないわ」
 ライアンは目を見開いて驚いた。
 助けた相手に馬鹿にされるなんて、信じられない。
 自尊心を傷つけられ、女性には優しいはずのライアンがエレナには切れてしまった。
 ライアンの眉根がつりあがり、不快感一杯に嫌な顔を向けた。
 その表情を見たとき、初めて事の重大さに気がつき、エレナは我に返った。
 言いすぎたかもしれないと思ったときは後の祭りだった。
「なんだよ、俺の事も良く知らないくせに。この傷の事だって悪く言いやがって。助けてやってそんな風に言われるのは心外だぜ。わかったよ。助けたオレが悪かった。今度は自分でなんとかしな」
プイっと踵を返し、すっと去っていく黒い革ジャンの背が唐突に目に入り、なんだか無性にいたたまれなくなってくる。
「あ……」
 何か言い訳したくても、言葉がでてこなかった。
 ライアンの後姿は、エレナに必要以上に罪悪感を与えていた。
 あの記憶のせいで我を忘れてしまい、まさに感情に支配されると何をしでかすかわからない自分の悪い癖を呪った。
 正気に戻ってよく考えれば、やっぱり自分が悪かった。
 それでも走って引き止めて、弁解することなんてできない。
 ──なんていう日なの。また最悪。知らない人を怒らせてしまった。しかも自分を助けようとしていた人に。
 この上なくエレナは落ち込み、去っていくライアンの後姿を呆然と見ていた。

 ライアンもまたこの時、苦い思いを胸に抱いていた。
 どんな状況でも女性を第一に考えて言葉が出てくるのに、エレナにはそれができずに自分の気持ちが先に露呈してしまった。
 ああいうときこそ、もっと気の利いた言葉をかけて、その場を上手く沈めてこそ、いつもの自分なのに。
 だが、エレナにはあの時ライアンの存在が見えてなかった。
 自分は常に女性に好かれ、それなりにいい男気取りだったが、エレナはライアンに全く興味を持たなかった。
 これも引っ掻き傷のせいなのか。
 まるで自分の顔が傷物になって、本来の自分の価値が下がってしまった気分だった。
 気にしないようにしようとしていたが、顔の傷を触ればまだヒリヒリとして痛い。
 エレナに言われた言葉もまた心をヒリヒリとさせていた。
「『女にひっかかれたんじゃないの?』だってよ。おれがそんなことされる訳がないだろ。なんでそうなるんだよ。一体なんだよあの女。かわいくないぜ」
 愚痴をたれてイラつきを吐き出すも、相当落ち込んでしまった。
 お蔭で一生忘れられない傷を負った気分だった。
 顔も心も──。
 もちろん腹が立ってはいるのだが、その理由だけでなく、違った意味で妙に自分を打ちのめしたエレナの事が頭から離れない。
 一瞬でもどこかで見たような顔だと思った事が不思議だった。
 いわゆる既視感のように、はっとする感覚が突然襲ってきた。
 なぜそう思ったのか、ライアンは過去にエレナに出会った事がなかったか思い出そうとしていた。
 そのせいでエレナのことは常に心の片隅に残ってしまった。

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