第二章
3
エレナとリンゴを施設に送り届け、引き止めようとする子供達を差し置いて、カイルは急いで自宅に戻っていた。
それは早く家に帰りたいと思う気持ちからではなかった。
できることなら、施設の子供達と一緒に遊び、エレナと少しでも長く過ごしたいくらいだった。
それを蹴ってまで早く帰らなければならなかった理由──。
それを考えると気が重く、ハンドルを握りながらやるせない溜息が漏れた。
辺りはすっかり日が暮れてしまい、カイルの車は山間に差し掛かった斜面を上がっていた。
その道は高級住宅街へと続き、この辺りは豪邸と呼ばれる家が集まっていた。
高い場所に家があればあるほど、裕福層は好んでそこに住む。
カイルの家も、その中の一つだった。
自宅が見えてきた時、その回りに路上駐車をしている車が普段より多く見受けられた。
その車の主たちは、この時カイルの家で過ごしている客たちに違いなかった。
この日、会社のお得意様を集めてのパーティが家で催されていた。
一人息子であるカイルは、強制参加を命じられていたのである。
本来なら仕事が終わればまっすぐに直行しなければならなかったが、ポートから用事を言付かり、そっちを優先してしまった。
それがどんな結果をもたらすかわかっていても、カイルは全てを親にコントロールされる事に嫌気がさしていた。
特に母親は口うるさく、必ず文句を言う。
ましてや、カイルが施設に顔を出していることを知ると、露骨に嫌な顔をしてカイルを責めるのである。
母親の機嫌が悪くなるのは、カイルにはとても辛いことではあったが、それでもカイルもなんとか理解して貰おうと必死だった。
車から降り、家に入る前に腕時計で時間を確認する。
同時に母親のしかめた顔が一緒に見えてくるようだった。
遅れてしまった時間は取り戻せない。
覚悟を決めて、家の中に入っていった。
ドアを開けるとすぐに客人たちの飛び交ってる声が一つの塊となってうるさく聞こえてくる。
広々とした家の中のいたるところで、着飾った人達がグラスを片手にそれぞれの時間を過ごしていた。
カイルは人の合間を会釈しながら通り抜け、メイン会場になっているリビングルームへと向かった。
父親がすぐに気がついて、カイルに近寄ってくる。
「カイル、遅かったじゃないか。オフィスに電話したらとっくに出たとあって心配したぞ」
「お父さん、遅くなりましてすみませんでした」
父親はまだカイルには甘い方だった。
責めることよりも、先に心配してくれる。
母親は、この時誰かを相手していて、表情は余所行きで明るく振舞っていたが、カイルの姿が見えるや否や、適当に挨拶して客との会話を切り上げ、笑顔なしにカイルへと近づいてきた。
「お母さん、遅れて申し訳ございません」
母親であってもカイルはきっちりと謝罪する。
お客が回りに居たお蔭で体裁を気遣い、露骨に嫌な顔はしなかったが、カイルの耳元に顔をよせて、小声で囁いた。
「まさか、あの孤児院にいたのではないでしょうね」
カイルは開き直りとでも取れる態度で接する。
「その通りです。用を頼まれたので少しだけ寄ってきました。ただそれだけです」
ここで嘘をついてもよかったが、カイルはいつも正直に答え、施設に居たことは絶対に隠さない。
カイル自身、これだけは譲れないものがあり、嘘をつけば、それは自分自身を否定することになる。
カイルがどれだけ、母親からそこへ行くなと注意を受けても絶対に従う事はなかった。
「カイル、何度言ったらわかるの」
これもいつものことだった。
暫くはまた機嫌の悪い日々が続いてしまうだろう。
母親の気持ちもわからないではないが、もし自分を愛してくれるのなら、カイルはどうしても理解してもらいたかった。
「ほらほら、ここで親子喧嘩するんじゃない。私達はホストなんだから、まずはお客様に気を遣いなさい」
父親が周りを気にしながら二人に忠告する。
母親は、とにかくここは我慢して無理に笑顔を作ることにした。
「とにかく、この話はまた後よ、カイル」
一応取り繕った笑顔ながらも、きつい口調で言葉を吐いて、母親はお客のもてなしをするために去っていった。
カイルの表情は胃痙攣を起こしたように、辛く歪んでいた。
「ほらほらカイル、愛想を忘れるな。お前もここの跡継ぎだ。しっかりとホスト役をしなさい。早速だが、今、他の部門の仕事でお世話になっているところのお
嬢さんが来て下さってる。お前に興味があるみたいで、先程からカイルの事をお待ちなんだ。いいかい、決して粗相のないようにお相手するんだぞ」
「ちょっと待って下さい、お父さん。それってなんだか両家の顔合わせのお膳立てみたいじゃないですか。僕は誰にも興味がないんですが」
「何を言ってる。ただでさえ、お前は奥手で、女性とは程遠い縁のくせに。こんなときでもなければお前にはチャンスはないぞ。しかも、かなりの美人だ。絶対気に入るぞ。あそこのお嬢さんなら、うちも申し分がないしな」
「お父さん、政略結婚みたいなこと言わないで下さい」
「何を言っとる。私はただ心配なだけだ。とにかく、相手はお得意様だから、それを忘れるんじゃないぞ」
ビジネスが絡むと、カイルは非常に弱くなる。
父親の会社に泥を塗る事は絶対避けたいだけに、まじめなカイルは父親に案内されて、会社のお得意様のお嬢さんとやらに会いにいった。
顔を合わせるとすぐに、そのお嬢さんは目をパッチリと大きく見開いて、満面の笑みをカイルに向けた。
「初めまして、リサと申します。先程お父様からお話を伺っていたところだったんですよ。私の想像以上に素敵な方でいらっしゃって驚きましたわ」
ハキハキとした明るく弾む声にカイルは圧倒された。
まっすぐとカイルを見据えて、リサは反応を気にしている。
それに答えようと、カイルは声の調子を少し整え、とりあえず無難に挨拶をした。
「初めまして。お会いできて光栄です」
カイルの愛想笑いと型に嵌まりきった態度にリサは少し不満だった。
カイルの瞳はリサを映し出しているだけで、全然興味を持ってないのを悟った。
それでもリサは最大限に自分をアピールする。
リサは初対面の男性との挨拶の心得をよく知っていた。
大概の男達はリサの美しさに必ず興味を抱き、自分が魅力あることを充分に承知している。
この時もカイルに好かれて当然に思っていた。
「お互い親の言いなりは疲れますよね。私も父親に無理やりつれて来られたんですけど、でも来て良かったと、あなたが現れて思ったわ」
「えっ、そ、そうですか。お気遣い有難うございます。こちらこそお越し頂いて光栄です」
直球の社交辞令のお世辞をあっけらかんに言われると、どう対応してよいかわからず、冷や汗がでてきそうだった。
やりにくいと思っていると、リサはカイルの心を読んだごとく答える。
「あら、お世辞だと思ったでしょ。本当に本心からそう思ってよ」
カイルは自分の心を読まれたことにドキッとした。
清楚で、身のこなしもエレガントな金持ちのお嬢様の風格。
ロングの黒髪がつやつやして、顔のパーツが整い、誰が見ても美人であった。
物怖じせずに自分の意見をはっきり言うところは知性が溢れている。
だがどこか抜け目のない、きつい印象をカイルは受けていた。
元々口下手な事もあるが、大胆なリサの態度にカイルは圧倒されて、愛想笑いして応えるだけで精一杯だった。
「あなたって本当にシャイな方なんですね。普通そんな風に言われたら素直に認めるものよ。例えそれが本心でなくてもね。女性の扱い方に慣れてないのね」
「は、はぁ……」
初対面でこの対応にカイルは苦手だと思った。
「あら、誤解なさらないで。私は初対面でいつもそんな事いう女ではないのよ。ついあなたを見ると正直に気持ちを話したくなってしまったの。お気を悪くしたのなら謝ります」
また心を読まれた。
自分の顔に出ていたことに気づかされ、これではいけないとカイルも負けじと必死で演技をして合わせた。
「いえ、決してそんな事は。あまりにもお美しかったので、見とれてしまって言葉が出てこなかっただけです」
「あら、ご無理なさらなくていいんですのよ」
と言いつつ、リサは少し俯き、そしてはにかんだ様子で上目遣いにカイルを見つめる。
普段女性からそんなアピールをされないだけに、カイルは困惑するも、ここは自分を捨てなければ対応できないと覚悟を決めた。
「僕も本心からでた言葉です」
嘘つけ! と心で思いつつ、それを読まれないように、必死に彼女を気に入ったフリをした。
会社のため、家のため、それだけのために──。
リサはわかり易いぐらい、カイルの演技する一言一言に反応し、うっとりとした目で色気を出していた。
カイルも失礼のないようにひたすらリサに合わせ、恐ろしく努力している。
そんな事を知らない周りの人達は、二人がとてもいい雰囲気に見えたかもしれない。
そこへリサの父親が現れた。
「リサ、楽しんでいるようだね」
ふくよかな体格で物怖じしない堂々とした態度。
それだけで会社を担う、社長の貫禄があった。
美しいリサとは対照的ではあったが、大きくはっきりとした目が親子のDNAの繋がりを感じさせた。
リサの父親は、すぐにカイルに視線を移し、右手を差し出した。
「初めまして、父親のウィリアム・グッドフィールドです。お父上から噂はよく伺っております」
カイルの頭の中には会社のためという文字が、注意を引くディスプレイのように激しく点滅していた。
グッドフィールドの手をがっちりと握り返した。
「こちらこそ、初めまして。今日はお忙しい中、お越し下さいまして、有難うございます。ワーナー社もグッドフィールドさんとお近づきになれまして、嬉しく思ってます」
「それはこちらの台詞です。ご招待頂き感謝しております。まあ、しかし今日は、硬い仕事の話は抜きにしましょう。こんな素敵なパーティなんですから、大いに楽しませて頂きますよ。料理もお酒も最高です」
持っていたグラスを掲げて、そしてぐいっと一気に飲んでいた。
「いやだ、パパ、あまり飲まないでよ」
リサは恥かしいとばかりに俯いた。
「どうやら私の娘はあなたの事がとても気に入ったようです。こんなにも素敵な殿方だ、女性にもてない訳はないでしょう。娘のためにも一つ質問させて頂きますが、ガールフレンドはいらっしゃいますか」
親子共々、どこかずけずけといろんな事を言ってくれるものだった。
カイルは苦笑いになりながらも、曖昧にはぐらかした。
「それは特に……」
もちろん好きな女性はいるが、そんな事言う筋合いもなかった。
だが、それは間違った対応だったかもしれない。
「じゃ私が立候補してもいいのかしら」
リサの大胆な発言に面食らってしまった。
「えっ! あっ、その、ありがとうございます。でも私にはもったいない限りです」
本当は「ノー」と力強く突きつけてやりたかったが、会社のために穏便に済ます。
「お、リサふられてしまったね。カイル、どうか気にしないで下さい。私にはもうすでに彼女がいると思ったのでリサにはっきりと釘をさしておきたかっただけなんです。ふって貰ってよかったですよ。うちの娘ははっきりとさせておかないと、結構しつこいですから」
グッドフィールドは豪快に笑い出した。
「もうパパったら。でもいいわ、付き合っている方がいらっしゃらないのなら、私にもチャンスがあるってことですよね。私諦めませんから」
恐ろしいほどのポジティブさと、自信のあるその笑みに、カイルは寒いものを感じてしまった。
美しい笑顔ではあるのに、リサが怖い存在に見えてくる。
この時感じっとったイメージは、何かの兆候のように不吉な感覚に襲われた。
しかし、まだその実態に気づくことなく、ここは失礼のない態度で、笑顔で過ごすしかなかった。
自分の何が気に入ったのだろうか。
普段から自分に自信のないカイルには、女性心が全く読み取れない。
それができるなら、今頃エレナは自分のものになっているだろうにと思うと、なんだかやるせなくなってしまった。
少しでも練習になればと、リサから学べるものはないか探っていた。
しかし、それはとても苦痛で、極まりない。
早くリサと離れたくとも、それができず、飲みたくもない酒を飲んではその場をやり過ごしていた。
パーティはかなり遅くまで開かれ、その頃になるとカイルはヘトヘトになっていた。
それでも最後まで手を抜かずに、ホスト役を乗り切った。
やっと客が帰る頃になると、嬉しくてそれまで無理して笑っていたのが、心から笑顔になっているくらいだった。
去っていく客人を見つめながらふーっと息を吐く。
リサも父親と一緒に先程、帰って行ったところだった。
これで解放される。
疲れきっていたカイルは、すぐさま自分の部屋に向かおうとしたが、ゲームの主人公が敵を倒さないと先に簡単に進めないように、目の前に母親が立ちふさがっていた。
「カイル、話があるの」
やはり母親から逃れられる訳がなかった。