第二章


その頃、一度屋敷を出て車に向かっていたリサだったが、カイルの個人的な連絡先を聞いておこうと戻ってきていた。
 まばらに帰っていくお客達と逆方向になり、再び家の中に入ってカイルの姿を探し出した。
 残っている客達と後片付けをしている使用人達に紛れながら辺りを見回していると、玄関ホールから奥の部屋の出入り口付近に立っているカイルの母親の横顔が、観葉植物の陰にちらりと見えた。
 深刻に話し込んでいたため、母親は周りが見えてない様子だった。
 リサからは見えなかったが、カイルの声も聞こえてくる。
 至る所に美術品や彫刻が飾られていることもあり、リサはその物陰に隠れながら、耳を澄ましていた。

「カイル、あなたはこの家の一員なのよ。あの孤児院とは関係ないのよ。わかってるでしょ、お母さんがあそこに行って欲しくない事を」
「お母さん、どうか心配しないで下さい。お母さんの気持ちもよくわかってます。僕はお母さんを心から愛しています。でも僕はあの施設を無視することができ ません。どうしても力になりたいんです。それに仕事もちゃんとこなしてます。決してこの家に泥をぬるような事は致しません。どうか僕のしたいようにさせて 下さ い。お願いします」
 何度この言葉を言ったことだろう。
 仕事は誰が見ても恥かしくないようにきっちりこなしてきた。
 跡継ぎであろうと、その権力を誇示することなく、会社でも人一倍気遣って行動している。
 カイルの努力はケチのつけようが全くない。
 やることをきっちりしているのに、そこを評価されずに、一つの事に拘って理解を得られぬことがカイルは辛く悲しかった。
 母親もまたやりきれず、自分の思うようになってくれないジレンマと、カイルの言葉の狭間で苦しく、苛立つ気持ちを抱えながらカイルをじっと見つめていた。
 お互い引けを取らない無言の対立が暫く続いていた。

 リサは二人の会話から重々しい雰囲気を察知し、見つかって立ち聞きしてているのが知られたら大変な事になると恐れて、その場を離れた。
 二人の会話に出てきた孤児院という言葉に、一体カイルは何を しているのか気になってしまう。
 カイルにとってかなり大切な事のように思えたので、リサはカイルの心を掴むためにもそれについて調べてみようと思い立った。
 しかし、中途半端な会話を聞いたことで、リサはこの二人が何を話し合っていたのか、真の意味合いを知る由はなかった。
 カイルと母親の会話はこの後も続く。

「……カイル、私はいつまでもあなたの母親にはなれないの?」
「そんなことはありません。僕にとってはかけがえのないお母さんです。どれほど感謝していることか……」
「だったら、なぜ、私の言うことを聞いてくれないの。どうしていつも、あの施設が忘れられないの」
「それは……」
「もういいわ!」
 母親は感情極まって、その場から逃げてしまった。
「お母さん、待って下さい」
 カイル自身、どうしていいのかわからず困惑してしまう。
 そこを見かねて、部屋の隅で様子を見守っていた父親が近寄り、優しくカイルの肩に触れた。
「カイル、お母さんはお前を愛してるんだよ、心の底から。わかってるだろ」
「僕もお母さんをとても愛してます。そしてお父さんの事も」
「ああわかっているよ。しかしお母さんは昔の事を忘れたいんだよ。お前を自分が産んだ本当の我が子と思いたいんだよ」
 カイルはそれもわかっていた。
 かつてカイルはあの施設で世話になった子供達の一人だった。
 これが人には言えないカイルの過去だった。
 赤ん坊だった時に、本当の母親から育てられないと、あの施設に預けられた。
 その後、その母は戻って来ず、音信不通となり、代わりに愛情一杯に育ててくれたのがシスターパメラだった。
 それがあるから、あの施設も自分の実家のようなものであり、自分の人生から切り捨てられない。
 カイル自身がそうであったように、あの施設で暮らす子供達の気持ちを一番理解できるのも自分だった。
 だからこそ力になりたくて、放っておけない。
 もちろん、六歳の時に養子にもらってくれたこの両親にも感謝している。
 カイルに取ったらどちらも大切なもの過ぎて、どちらかを選べなんていわれても絶対にできるものではなかった。
 自分が欲張りすぎるのか、母親の態度を見ていると、カイルも時々わからなくなってしまう。
 だから、一つだけ母親の意向を尊重するために、自分が施設で育った事を誰にも言わなかった。
 例えそれが、一番知って欲しいエレナであっても。

「お父さん、血は繋がってなくとも僕を立派に育ててくれたお二人への感謝の気持ちと愛を込めて、僕は今の仕事を必ずやり遂げます。この仕事が成功したら、どうか僕の全てを受け止めて認めて下さい。お願いします。そして僕はあの施設出身だということを隠したくないんです」
 カイルの瞳は潤んでいた。
 お金には不自由しないし、孤児だった自分が学歴もつけて、いい仕事につき、やがて会社のトップに立つという地位も約束されている。
 誰が見ても申し分ない人生を歩んでいるのに、カイル自身は苦しくて堪らない。
 必死に訴える姿を見て父親はいたたまれなくなり、カイルを抱きしめた。
「カイル、それほどまでに…… 無理をするな、お母さんも必ずわかってくれる。すまなかったな」
 父親の温もりが愛情となって体に伝わってくる。
「お母さんの事は私に任せなさい。カイルは自分の思うようにすればいい。自慢できるほどの息子に育ってくれて私も鼻が高い」
「ありがとうございます。お父さん」
 父親の理解を得られたことで少し落ち着き、そして自分の部屋へと足を運んだ。
 ドアを開ければ、ホテルの客室とでもいうような洗練された部屋がそこにあった。
 カイルも几帳面で整理整頓する方だが、特にここに置いている家具は高級物ときているので、格式高い雰囲気が漂う。
 ベッドに腰掛け、壁に飾られた戦闘機らしき飛行機のポスターを眺める。
 唯一それだけが、この部屋に似合ってない装飾品だった。
 いや、カイル自身がこの部屋に一番合ってないのかもしれない。
 ここでの生活は恵まれすぎているのはわかっているが、それ故に両親への感謝の気持ちと期待に応えなければならないプレッシャー、そこに失ってしまいたくない本来の自分との狭間で息苦しい毎日だった。
「飛行機を操縦するってどんな気持ちなんだろうか」
 不意に独り言が口をついた。
 子供の頃、カイルはパイロットになることを夢見ていた。
 孤児院育ちで、親が居なくとも、シスターパメラの愛情一杯のお蔭で、常に明るく希望に包まれ、まだ自由で何でもできると信じてさえもいた。
 もしあのまま施設に残って大人になっていたらどういう未来があったのだろうか。
 色あせた夢を追いかけるようにカイルは無邪気だった昔の自分を思い出していた。
 エレナだけには全てを話したい──。
 きっと何もかも受け止めてくれる。
 その時自分は救われるんだとカイルは信じていた。
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