第四章


 いつの間にベッドに入ったのだろうと、カイルは目を覚ましたとき、自分がどこに居るかわからなくなっていた。
「ああ、カイル。気がついたのね」
「お母さん……」
 赤くはらした目で母親はカイルを見つめていた。
 父親も側に来ては、安心した笑みを浮かべた。
「大丈夫か、カイル」
 暫く混乱して、全てを認識するまで時間がかかっていた。
 その間、母親は泣きじゃくり、父親が横で慰めている。
 複雑な機材が側で音を立て、白さが目立つその部屋が病室だと気がついたとき、事故の事を思い出した。
 体を起こそうとすれば、あちこちが痛んで、頭もズキズキとしている。
「あっ、車は?」
「車の事などどうでもいい。とにかく今はお前の事だ。安静にしなさい」
 カイルは再びベッドに寝かされた。
 父から詳しい話をされ、自分が運転を誤り谷へ落ちたが、運よく木にひっかかり、奇跡的に軽い打撲で済んだらしかった。
「目の前で事故を起こしている車を見た時は心臓が止まるかと思ったよ。本当に無事でよかった」
「お父さん、ご心配お掛けしましてすみません」
「何も謝る事はない。お前が無事ならそれでいい。とにかく今は寝てなさい。私は医者を呼んでこよう」
 カイルの父親が病室をでていった。
 側で母親が泣き続けている。
「お母さん、僕は大丈夫です。そんなに泣かないで下さい」
「違うの、カイル」
「えっ?」
「カイル、私はあなたに謝らなければならないわ。今まで本当にごめんなさい」
「一体どうしたんですか。お母さんは何も悪くないです。これは僕が勝手に起こした事故で、僕の責任です」
「ううん、あなたはいつも我慢しては、自分を犠牲にして、頑張り続けたわ。それなのに私は自分の我侭であなたを縛り続け、あなたはいつもそれに耐えていた。だけど、いつかそれが大変な事になるんじゃないかって、本当は心の奥で恐れていたの」
 涙を一杯溜めたカイルの母親の目は後悔に苛まれていた。
 カイルは突然の母親からの言葉に戸惑いながら、静かに耳を傾けていた。
「あなたが事故を起こしているのを見た時、私は気が狂いそうになったわ。あの時、あなたを失ってしまったかと思ったの」
「ご心配かけて本当にすみません」
「いいえ、あなたは何も悪くない。いつも一生懸命で、私達のためだけに何もかも我慢してきた。あなたがあんな無茶な行動に駆り立てられたのも、全ては私が 押さえ込んできた結果だと思う。この事故で私は目が覚めたわ。これ以上あなたを苦しめたらダメだって。私はあなたの母親失格だわ」
「そんなことないです。ここまで何不自由なく育てて下さったことに感謝してます。例え血は繋がっていなくても、どれだけ愛情を注いで下さったか、僕はちゃんと見てきました。そして、僕を愛するが故にそのような行動を起こしてしまっただけです」
「そう、あなたはいつもしっかりと見ている。そしてそれ以上に愛してくれる。カイル、ありがとう。私は母親だからこそ、もっとあなたを支えていかなければならないのに、あなたが大切に思う人達も含めて」
「お母さん……」
「あなたが生きていて本当によかった。本当に」
 カイルの母親は感極まってぼろぼろと涙をこぼしていた。
 カイルは母の手を取り、優しく握っては慰めていた。
 病室の窓から差し込む光は柔らかで、自分自身も心穏やかに安らぎ、癒されていくようだった。
「一応、施設に連絡を入れておくわね。もし、ニュースになって、カイルが事故を起こした事を知って、心配してもいけないから」
 母の口から施設と出た事も驚いたが、自分の事故がニュースになるかもしれない事もかなりの衝撃だった。
 ドキドキしてしまい、早速備えてあったテレビをつけてニュース番組を探してしまった。

 カイルが事故を起こしたことも知らず、エレナの朝の目覚めは久しぶりに良かった。
 柔らかい春の日差しが、カーテンの隙間から漏れている。
 ベッドから起き上がり、カーテンを引くと、眩しい光が直撃した。
 目を細め、朝日を体一杯に浴びて、伸びをする。
 椅子の背にかけてあったライアンのコートが目に入り、昨晩の事を思い出したが、それが正しくないようで、自分自身に戸惑っていた。
「このコート早く返さないと」
 いつまでもこの部屋に置いておくのが憚られてしまった。
 身支度を済ませ、朝の準備をしていると、電話の音が鳴り響く。
 シスターパメラが受けていたが、電話を切るや否や、慌ててエレナに報告した。
「エレナ、大変よ、カイルが事故にあって、今病院に……」
 エレナは顔を青ざめて、硬直してしまった。
「今お母様から連絡があったの。軽傷らしいそうだけど、大事をとって2、3日入院するそうよ。昨日あなたを送った後に事故を起こしたのね」
 エレナはその言葉にドキッとしてしまうと共に、後ろめたい気持ちが現れた。
 前夜、送ってくれたのはライアンであって、カイルは急に用事が入ってこられなかった。
 だが、それをシスターパメラには伝えてない。
 敢えてこの時も、言い直すことができず、シスターパメラは、何も知らずエレナがカイルと楽しい時を過ごしたと思い込んでいる。
 そんな誤解はどうでもいいと、エレナはカイルの事が心配で、すぐに病院にかけつけていた。

 カイルの父親は大事に至らなかったことで安心し、病院で必要な手続きを済ませた後、会社に出勤していった。
 母親はカイルに付きっ切りで看病している。
「カイル、お食事を取らないとダメよ」
 母親に病院の朝食を勧められたが、食欲は全くなかった。
 涙腺が緩みっぱなしの母親は、何かあるごとに目を潤わせて、カイルを心配している。
 これも自分が起こした事故のせいだが、あまりそれが悪いことだと思えなくなっていた。
 母親は明らかに態度が変わったし、カイルに気遣っては、そこに角がとれた落ち着きが見える。
 全てはカイルのために、それだけで今は世話をしている。
 ここで申し訳なく思うよりも、少しだけ甘えてみたくなった。
「お母さん、コーヒーが飲みたいんだけど」
「コーヒー? わかったわ。たしかロビーで売ってたから、買ってくるわ」
 母親は、すぐに部屋を出て行った。
 病院のロビーの入り口付近には、小さな出店のようにコーヒーやスナックが売られていた。
 そこで母親がコーヒーを注文していると、入り口のドアが開いて、血相を変えてかわいらしい女の子が飛び込んで来ては、まっすぐに受付に突進していった。
 それはエレナだった。
 余程急なことで、心配しているのだろうと、母親は気持ちがわかるだけに、その女の子の事を案じていた。
 受付で患者の部屋を尋ねているやりとりが耳に入ってくるが、その時、自分の息子の名前が出てきたので、思わず「あっ!」と声が漏れた。
 そしてすぐさま駆け寄り、優しく微笑んだ。
「そんなに心配しなくても、カイルは大丈夫ですよ」
「えっ?」
「私が案内しましょう」
「あっ、ありがとうございます」
「ところで、コーヒー一緒に如何かしら?」
 母親はエレナの事を知って、やっと心に余裕が出てきたのとは対照的に、目の前の人物が一体誰なのかわからないまま、エレナはきょとんとしていた。
 それがカイルの母だと分かったとき、慌てて挨拶をして、自分の自己紹介をした。
「そう、エレナね。初めまして」
 もし、カイルが事故を起こす前にエレナと出会っていたら、自分はどんな対応をしていたのだろうかと考えたが、澄んだ瞳のかわいらしいエレナをみていると、どっちにしても気に入っていたことだろう。
 母親は、愛しんだ笑みをエレナに向けていた。
 病室に案内し、カイルの元にエレナを連れて行くや、カイルの目が見開き、一気に元気になっていた。
 それを見ただけで、カイルの気持ちはすぐに読み取れた。
「はい、コーヒーよ。それじゃ私は一度家に帰るわ。私もそんなに暇じゃないのよ」
「えっ、あっ、はい」
 さっきとは打って変わって、急に逞しくなっていた。
「じゃあ、エレナ、悪いけど後はよろしくね」
「は、はい」
 何かが吹っ切れた母親の笑顔は清々しかった。
 カイルは心の中がすっとしていくのを感じていた。

「カイル、大丈夫なの」
 心配してエレナは恐る恐るカイルのベッドに歩みよった。
「ああ、馬鹿な事をしてしまったよ。今はとっても反省している。だけど君がここへ来てくれてすっかり元気になったよ。本当に大した怪我じゃないんだ」
「事故を起こしたって聞いたとき、びっくりして、大怪我してるんじゃないかって、心配でたまらなかった」
「えっ、僕の事心配してくれてたんだ。嬉しいな」
「喜んでる場合じゃないでしょ。だけどほんとに、大した怪我じゃないのね」
「うん」
 元気に頷いているカイルを見てエレナはほっと一息ついた。
「それより、昨日は約束が守れなくて本当にごめん」
 カイルはあれからどうなったのだろうと気になっていた。
「ううん、そんなこと気にしないで。今は早くよくなることだけに集中して」
 側に置いてあった食事は全然手がつけられてないのを見るや、エレナはそのトレイを手にしてカイルの前に差し出した。
「ご飯食べてないじゃない。食べなきゃだめでしょ」
 この時、カイルは閃いた。
 右手を大げさに抱え込んで顔をしかめてみた。
「あーいてててて」
「どうしたの? 怪我が痛むの?」
「ちょっと打ち所が悪くて、右手がしびれるんだ。これじゃ上手くスプーンがもてない。エレナが僕に食べさせてくれるかい?」
「わかったわ」
 カイルが芝居しているとも知らず、エレナは心配するまま、お皿を手に取った。
 カイルが嬉しそうにして口を大きくあけ、エレナが食事を与えようとしたその時、慌しく誰かが部屋に駆け込んで叫んだ。
「カイル!」
 突然に脅かすように入ってきたことで、エレナはびっくりして、カイルめがけてお皿をひっくり返してしまった。
「あっ!」
「うわぁ!」
 大惨事になってしまった。
 その直後、カイルもエレナも入って来た人物を見て同時に名前を叫んだ。
「ライアン!」
「あっ、ハーイ」
 ライアンは暢気に挨拶するが、エレナもカイルもそれどころじゃないくらい、こぼれたものを処理するのに慌てふためいていた。
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