第四章


 エレナとライアンが行ってしまった後、カイルは無口になり、塞ぎ込んでいた。
 いくらお得意様のお嬢様であっても、何度も邪魔をされて、自分の楽しみを奪われるのは我慢ならない。
 自分が病院のベッドに寝ていることを盾に、具合が悪いフリをしても罰が当たらないだろう。
 リサが自分の不機嫌に気がついてくれれば、それでいい。
「昨日の事を怒ってるのね」
 やはり気がついた様子だった。
 これで都合がよくなった。
「僕には好きな人がいます。あなたの気持ちをお受けすることはできません。どうかお互いのためにも昨日の事は忘れませんか」
 リサに視線を向けず、焦点も合わさずにカイルの瞳は虚空を仰いでいた。
 はっきりと自分の気持ちを伝え、そして感情が湧き出るごとくありのままにカイルは接する。
 例えそれが冷たい態度であろうと、体裁のためだけに自分の感情を偽ってリサと向き合う事はできなかった。
 今度はリサが黙り込んでしまった。
 いつまでも何も言わないリサに、カイルは気になって、視線を向けてしまう。
 折角自分のペースでいたのに、簡単に主導権を握られてしまった。
 リサは、泰然として静かに微笑していた。
 それはカイルに恐怖を与えるくらい、気味の悪い笑みだった。
 その笑みの裏には、リサの矜持が隠れている。
 絶対に自分の思うようにならなければならない、なって当たり前の強気の気質。
 リサにはカイルが何を言おうと話が通じない。
「カイル、あなたは間違ってるわ」
「僕の何が間違ってるというのですか?」
「それは、これからあなたが感じることじゃないかしら」
「一体何を感じるというのですか」
「カイル、あなたは将来、お父様の会社を担っていく方でしょ。だったらきっとわかると思うわ」
 リサは確かに美人で、誰が見ても美しいと思う女性だった。
 しかし、この時のリサの表情は邪悪に満ちて、背筋が凍るくらい不気味だった。
 この微笑が恐ろしく、カイルを暗闇に突き落とすくらいの威力があった。
 なぜそう思ったのか、不思議なくらい、この時のリサはどこか狂っているように思えてならなかった。
「僕には一体何の話をしているかわかりません」
「いいのよ、カイル。あなたは事故に遭ってお怪我されてるんですから、どうぞ安静になさって下さい。私もこれで失礼させて頂くわ」
 身のこなし、ただ立っているだけでも、リサには気品がある。
 高貴なその雰囲気を保ちつつ、リサは背を見せて病室を去っていった。
 彼女が去った後の病室の空気が変わってほっとしたのも束の間、リサがお見舞いに持ってきた赤い薔薇が恐ろしく際立ってそこに残されているのを見て、それはリサと同じくらい嫌なものに見えてくる。
 その赤い薔薇もまた美しく艶やかであるが、その陰で血の色にも見えてしまい、なんだか不吉な予感を感じてしまった。

「今日はいい天気だな」
 外は雲一つない青空が広がり、降り注ぐ太陽の光に暖かさを感じつつも、空気が冷たくて非常に清々しい。
 病院から外に出たライアンが伸びをして、日差しを沢山受けていた。
 明るい空の下で見るライアンの瞳が、琥珀色に輝いている。
 その瞳でエレナを見つめ、爽やかに笑った。
 まだあどけなさが残る少年のように、ライアンは自由で生き生きとしている。
 エレナにはその姿が眩しく目に映っていた。
「さあて、これからどうしようか……」
 ライアンは小さく呟いた。
 エレナがまた自分の隣に居る。
 少しでも長く一緒に居られたらとライアンは願っていた。
 エレナを誘いたくても、はっきりとその誘い文句は言えないから、曖昧な独り言でエレナの反応を見るしかなかった。
 しかし特別に何も起こるわけはなかった。
 エレナはその時、前方の駐車場に止めてあった赤いバイクを見ていた。
 この青空の下、光に反射してピカピカしている。
「もしかして、あのバイク、ライアンの?」
「ああ、そうだ」
「昨日は暗かったからはっきり見えなかったけど、太陽の下ではすごくかっこいいね」
 自分があれに乗ってライアンにしがみ付いていたことを思い出し、その時抱いたドキドキが再び思い起こされた。
 なぜまたそれを胸に描いてしまうのか、自分でも困惑している。
「また家まで送っていってやるよ」
「えっ、今日はいいわ。一人で帰れるから。ライアンだって忙しいのに……」
 まるで、それを望んでいると思われてるみたいで、エレナは恥かしく俯いた。
「遠慮するなって。俺達もう友達だろ。ほれ被れよ」
 ライアンもまた、このチャンスにしがみ付きたい。
 断れないように、ヘルメットをエレナに投げた。
 エレナは、条件反射でそれを掴み、面映くライアンを見つめた。
 ライアンの人懐こい眼差しがエレナの気持ちに入り込み、次第に口元がほころんでいく。
 エレナが笑えばライアンも心が華やぎ嬉しくなる。
 二人は初々しく見詰め合っていた。
 その時、ライアンの携帯電話が鳴り、はっとしてしまった。
 いいところを邪魔されたライアンは、背を向けてその電話を取った。
 電話はハワードからで、依頼人に届け物をして欲しいという、いつもの雑用の仕事を頼まれた。
「はいはい、わかった。今から行く」
 そういい残し、通信を切った。
 エレナはヘルメットを差し出した。
「ライアン、やっぱり忙しいんでしょ」
「何いってんだよ。俺が送っていくって行ったら、送っていく。ただ届けものを頼まれただけなんだ。ちょうど君の家の方面だから、一石二鳥さ。だけど、それを取りに行かないといけないから、ちょっとだけ俺に付き合ってくれ」
 そこまで言われると、エレナは頷かずにはいられなかった。
「ねぇ、ライアンはどんな仕事をしてるの?」
「ああ、探偵さ」
「探偵?」
 ライアンがバイクに向かって歩き出した。
 エレナはたどたどしく後をついていく。
 ライアンの背が目に入り、それだけでドキドキとしていた。

 エレナとライアンが、仲睦まじく体をぴったりと密着させて、バイクに乗っている。
 それはリサが病院の出入り口で見た光景だった。
 ライアンは以前、巧みな話術でリサに甘い言葉を投げかけてきた。
 そうされることが当たり前で、ライアンが自分に夢中になることが面白く、暫くはそれに付き合った。
 外見も悪くないし、素性もそこそこで、父親が国家権力をもっているとなると、リサも少しは興味があった。
 アクセサリーとして、自分の価値を引き立たせ、なんでも言うことを聞く男ではあったが、リサを見る瞳が偽ものだった。
 自分に夢中になりきってない、見せかけだけの笑顔は、リサにはプライドを傷つけられるものがある。
 だから、振り回すだけ振り回して、最後は飽きて捨ててやった。
 お互い後腐れのないあっけない関係だった。
 ライアンはまだ自分の思うように動かせたが、カイルはそうは行かない。
 カイルはライアンのように華やかさはないが、勤勉なまじめさ、その地位、そして裕福さ、結婚相手としては適していると思っていた節があった。
 カイルなら、自分のような美しい女と出会えば、命を投げ打ってでも惚れるだろうという目論見があったし、それが備わればリサは将来の事を考えてみようという気持ちになっていた。
 ところが、カイルは自分に見向きもしないし、男としての本能も芽生えることはなかった。
 全てはエレナという存在が、リサの全てを否定させている。
 そして今、ライアンまでもがエレナに接近し、意図も簡単に仲良くなっていることが、腹立たしい。
 しかもそのライアンのエレナを見つめる目は、自分を見ていた眼差しと全く違っていた。
 あれこそ、心を奪われている目だった。
「なんであんな女が」
 リサには到底受け入れられない。
 自分の価値観がエレナの存在で著しく下げられた惨めな気持ちは、リサが初めて抱いた劣等感だった。
 しかし、そんな感情を抱くことはリサにはありえないだけに、ひたすらエレナに対する憎悪だけが膨らんでいく。
 その私怨がリサを追い込んでいき、リサは自分を見失っていった。

 再びライアンの背中にしがみ付いている自分が信じられないエレナは、何をどう思っていいのか道に迷ったように戸惑っていた。
 ライアンの人懐こい笑顔は、太陽の下では生き生きとして、見ていて心揺さぶられるものがあった。
 それに惑わされている自分。
 なぜそんな風にあたふたとするのか、エレナは自分で気がついてない。
 ただ、バイクに乗っている時は、必死になってライアンを抱きしめないと振り落とされるだけに、エレナは無我夢中でライアンに密着している。
 しかし、ドキドキとする胸の鼓動だけは正直になっていた。
 最悪の出会いをした時は、ライアンが去っていく背を見て罪悪感に苛まれたが、今はこの背中にぴったりとくっ付いて、それは頼もしくそして心地よい。
 ライアンの背中──。
 どうしてこんなに気になってしまうのか。
 エレナは不思議な気持ちにふわふわとしている気分だった。
 ライアンにつれてこられるまま、エレナは探偵事務所のビルを見上げていた。
 ライアンに手招きされ、階段を上っていく。
 一体どんなところなのか、エレナは緊張の面持ちで一段一段上っていた。
 ライアンがドアを勢いよく開け入っていく後を、エレナは遠慮がちについていった。
 エレナが中に入ってすぐ、デスクについて、電話を掛けているハワードの姿が目に飛び込んだ。
 ハワードの存在は息を呑むくらい、それは畏怖の念が一瞬で体に駆け巡った。
 なぜなら、ハワードは睨む勢いでエレナに視線を向けたからだった。
 そのすぐさま、ハワードは電話を切り上げて、さらに目を細めて凝視してきた。
 ライアンはエレナに耳打ちした。
「いつもこんな調子なんだ。気にするな」
 ライアンにそう言われても、エレナの居心地の悪さは変わらなかった。
 あまりにも凄みをかけて注視するので、エレナはさりげなくライアンの陰に身を隠す。
「ハワード、取りに来たぜ。しかし、今日は特に機嫌が悪そうだな。なんかあったのか?」
 ライアンは場をなごませようと試みた。
 ハワードはライアンを無視し、エレナを厳しく見つめた。
「関係者以外はこちらへはお越し願いたくない」
「ちょっと、待ってくれよ。一体どうしたんだ。あまりにも失礼じゃないか。いつもは俺が連れてきた友達にはそんな事は言わないくせに」
 腹が立つとばかりに、ライアンはハワードに飛び掛りそうに身を乗り出すと、エレナはライアンの服の裾をつい引っ張ってしまった。
「ライアンいいのよ。あの本当にお邪魔してごめんなさい」
 エレナは素直に謝るが、ハワードが睨んでいたのは、そういうことではなかった。
 エレナのためを思ってのことだった。
 ハワードはなんとか伝わって欲しいと意味を込めて忠告した。
「私が君の立場なら…… こういうところへは来ない」
 怖がって震えていたエレナの表情に変化があった。
 おどおどしていた瞳は、焦点をハワードに合わせ見入っている。
 ハワードが言った言葉は、エレナの心のトリガーを引いた。
 ──私の立場……
 意図的な何かを感じ、エレナはハワードを怖がる事なく、見つめ返していた。
 ライアンは、頼まれた書類をひったくるようにして受け取り、ハワードの無礼さを責めていた。
「わかったよ。この子を連れてきたのは俺なんだよ。何もそこまで冷たくすることないだろ。怒るなら俺を怒れよ。初対面で失礼だぜ全く。いこうぜエレナ」
 エレナを事務所の外に出し、そしてくるっと振り返って、ハワードに威嚇している犬のように歯をむき出した。
 階段を下り、エレナはビルの外から二階の事務所の窓を振り返った。
 その時ハワードが自分を見下ろしていた。
「エレナ、すまなかったな。ハワードは変わってるんだよ。怖い目付きだが決して人を傷付けるような事はしない奴なんだ。でも今日は虫の居所が悪かったみたいだ。どうか許してくれ」
「ねえ、ハワードさんってやっぱり探偵なの?」
「ああ、そうだ。この辺りではちょっと有名な腕利きの探偵さ」
「一体どんな仕事をしているの?」
「事件の解決が主だけど、調査や依頼人が頼んで来たことは大体なんでもやってるよ。時には警察なんかもくるし」
 ライアンは書類をジャケットの懐にいれ、バイクにまたがった。
「警察?」
「まあ、色々と情報通だから、何か情報を掴んでないか一応確認にくるくらいかな」
「依頼人って他にどんな人がいるの?」
「そりゃ、色んなのが一杯さ。まあ、中にはやばい奴もいるだろうし、とにかくハワードは面白い事件だと、誰構わず受けてるけどね」
「例えば、誰かを探して欲しいとか、人探しなんかもするの?」
 エレナが一番気にすることだった。
「ああ、そう言うこともするぜ」
 エレナはやっと気がついた。
 『私が君の立場ならこう言うところへは来ない』
 ──これは私への警告。
 突然エレナは電流を浴びたようにはっとした。
 そして二階の窓から自分を見ているハワードの顔を、不安な表情で見つめ返した。
 ハワードはエレナの顔を見て感慨深く頷く。
 まるでエレナの思っている疑問に答えるかのように、危険を知らせていた。
 一瞬でエレナから血の気が引いていった。
 ──ハワードは自分の正体を知っている。
 それはエレナに危機が迫っていると言う意味でもあった。
 身を隠すように慌ててヘルメットを装着し、一刻も早くここから去りたいと切に願った。
 誰が見てるかわからず、エレナは恐怖に慄いた。
 ライアンの背に頼るように、エンジンが掛かる前から強く抱きしめていた。
 エレナに大胆に強く抱きしめられ、ライアンは照れるが、事情を知らないだけにその態度から余程ハワードが怖かったに違いないと誤解していた。
「ようし、行くぜ」
 再びバイクは動き出した。
 エレナはこのまま、どこか遠くへ行ってしまいたい気分だった。

 二人が行ってしまった後、ハワードらしからぬ一息が、大きくふーと深く吐き出されて、その反動で、どさっと革張りの椅子に座り込んだ。
 ハワードは鍵が掛かった引き出しを開け、中からファイルを取り出した。
 そのファイルは不思議な依頼をした、あの男の資料が入っていた。
 その中から、エレナの写真が出てくると、眉間に皺を寄せ、考え込んだ。
「まさか、本人がここへ来るとは思わなかった」
 エレナをここに近づけさせないために、あのような態度を取り、それは上手く本人に伝わったことはよかったが、ライアンと繋がりを持ってしまったことで、ライアンにも危険が迫ることを危惧していた。
 しかも、カイルも係わっていることに、ハワードはこの先の行く末を案じていた。
 ライアンとカイルが親友同士なことは知っているが、そこにエレナが係わってくるのはどういうことを意味しているか、ハワードには簡単に推測できた。
「あの調子では、ライアンの奴、エレナに……」
 ハワードは椅子に深く腰掛けこれからのことを慎重に考えていた。
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